第14話 悪役令息、魔女に叱られる
ハサウェイ夫人からの手紙は端的だった。
まず誤ってヴェラを猫にしてしまったことを真摯に謝罪していた。その上で、特効薬をヴェラに渡してあること、それは短時間しか効き目がないこと、“彼女のことを好きな人間だけが解呪できること”と続けられていた。
依頼者の夫に特殊な性癖があるから、解呪の方法が即物的なのは申し訳ない、とも。
最後に一言、ハサウェイ夫人はこう書いていた――
『なんだかんだ理由をつけて彼女に想いを告げないのは、男としてかっこう悪い。私は彼女に同情します』
魔女は全てを見通せるものなのか。
だが。
(その通りだ。僕はどう考えてもかっこ悪い)
傍からみたら、自身の地位を盾にヴェラを側に置き続け、他の男性との出会いを制限し、かといってはっきりと想いを告げているわけでもない。
優しいヴェラじゃなかったら、自分のことを見限って、とっくにどこかに逃げてしまっていたかもしれない。
魔女の指摘に、ぎゅっと心臓がつぶされるかと思った。同時に黒猫姿のヴェラが走り出して自分から逃げようとしていることに気づいて、慌てた。
(彼女のことが好きな人が解呪できるなら、僕じゃなくてもいいわけだから……!)
だとしても絶対に他の人間に譲るつもりはない。勢いがすぎたかもしれないが、カルヴァンは本当に必死だったのだ。
ヴェラの了承を得て、解呪を試みる。
解呪に協力することへの引き換えに条件を出したのは、正式に婚約者になってほしいと伝えるためだ。何しろヴェラは、必要以上にカルヴァンと距離を置きたがるから。
(今までのこと、全部話して、心から愛を伝えて――それから受け入れてもらえたら、……今はとにかくヴェラの姿を人間に戻すことの方が一刻を争う)
猫はもともと嫌いではないし、ヴェラだと思えば愛おしさしかない。
撫でてヴェラが気持ちよさそうに喉を鳴らすと、高ぶった――動物に興奮する性癖はないけれど、ヴェラとなれば話が別だ。
そして彼女が人間に戻り――ちらりと見てしまったヴェラの裸は、何万回か想像していた以上に美しくて、ひと目見ただけでぶっ倒れるかと思った。
だが今はそんなことを言っている場合ではないのは確かだ。
そしてヴェラが泣いた。
カルヴァンを庇って、犬に噛まれた時ですら泣かなかったヴェラが、泣いた。
(そうだよな、初めてのキスは……好きな人とがいいよな)
頭を鈍器で殴られたような衝撃と共に、目の前が真っ暗になった。
またしても自分は間違った。ハサウェイ夫人の手紙の一節が頭をよぎった――私は彼女に同情します、と。
(僕……僕って……なんでこうなんだ……)
のろのろと、どうにか打開策を、と思う。
(僕がもっとちゃんとできてたら、ヴェラを泣かせることなんてなかったのに。全部僕が悪い)
思えば幼い頃からヴェラに甘えっぱなしだ。両親だって、他の使用人の前での態度を気をつけろと言っていただけで、ヴェラのことを大事にしろと言っていたではないか。自分なりに大事にしていたつもりだったけど、彼女には思いは伝わっていなかった。
両親が表立ってヴェラとの婚約がうまくいくように、働きかけることはない。未来のことを思えば貴族令嬢を娶ったほうがよほど世間体も良いからだ。それはカルヴァンだけではなくヴェラにも風当たりが強くなることを知っているからこそである。だが両親はカルヴァンの並々ならぬ思いを理解して、許容してくれたのだ。
そして婚約者を選べ、というのも両親からの最終通告に他ならない。いい加減にしろ、ヴェラと向き合え、と尻を叩かれ、そしてそこでまた自分は――。
(
カルヴァンの心は後悔と焦りでぐちゃぐちゃになっていた。
素直に言えば、カルヴァンは怖かった。
好きだ、と伝えて、ヴェラが責任感と立場の違いから彼の手を取ることを。
好きだ、と伝えて、すべてをぶち壊してしまうことを。
彼女がいないと生きていけないのに、彼女が去ってしまうかもしれない未来が。
カルヴァンは怖かった。
(だけど、それは……、自分のことばかりだ……)
ぐっと奥歯を噛み締めて、カルヴァンは今するべきことに思考を戻した。
(とりあえず、ヴェラを人間に戻してやらなくては……)
なんて言ってやったらいいのだろう。
「分かった。じゃあ今だけは僕のことを恋人だと思ってくれる?」
そんなの嫌だ、と言われたらすぐに撤回するつもりだった。
けれど、ヴェラは頷いてくれた。
ヴェラの肩の傷を見ると、胸が軋むように痛んだ。
これは彼女の優しさと献身を示してくれている――それに、自分を《悪役令息》から解放もしてくれた。
許可をもらって撫でると、彼女の肌の滑らかさにすぐに夢中になる。それから肩の傷にキスをして――我慢できなくなった。
ヴェラの顔中にキスを落としている間、カルヴァンは幸せだった。
これは解呪のため、と言い聞かせながらも、暴走しないようにするので必死だったのだ。
「恋人だったら、カルヴァンにつかまりたい」
「―――!」
あまりの可愛さに死ぬかと思った。
とてつもない衝撃で。
はっと我に返ったらしいヴェラが謝罪したが、首を横に振って彼女の願いを叶える。彼女の願いは、自分の願いでもある。
「今はいい。今だけは、僕たちは恋人だ。敬語はおかしいだろう?」
そんな都合のいいことをどの面を下げて言うのだ。
自分の声は震えていたと思う。
「――、うん、カルヴァン……抱きしめて欲しい」
(ヴェラ……!)
彼女との最初の――もしかしたら最後のキスは、これから生きるよすがだ。
許しを乞い、それから自分の心をさらけ出す。
嫌われても、断られたとしても、全ては自分が招いたものだと受け入れる。そうしてヴェラのいない未来を生きる覚悟をしなくてはならない。
ガタン、と馬車が大きく揺れてカルヴァンは我に返った。黒猫姿のヴェラを膝に乗せてハサウェイ夫人の家へと向かうところだ。さすがにヴェラは疲れたらしく、カルヴァンの膝の上でぐっすり眠っている。
滑らかな黒い毛を撫でながら、カルヴァンはそっと呟いた。
「ヴェラだけがずっと好きだ。なかなか言えなかったのは……君に断られて、去られるのが怖かったからだ……。こんな形でしか婚約者になってと言えないなんて、僕はとんでもない石頭で、臆病過ぎだな」
それからカルヴァンは馬車の外へ視線を転じたので、黒猫の尻尾が揺れたことには気づかなかった。
✫
ハサウェイ夫人は幸い在宅中だった。
「ださいわ」
玄関ホールに出てきたハサウェイ夫人は、カルヴァンの顔を見るなり一刀両断した。
「ださい……」
「彼女が猫に戻るってことは、どうせ中途半端な解呪をしたんでしょ。手紙に書いてあげたでしょ、彼女に同情するって」
カルヴァンの腕に抱かれていた黒猫姿のヴェラが身動ぎした。
「薬をもう一回あげるから、最初からやり直し。ちゃーんと彼女に気持ちを伝えること。それでも解呪できなかったら出直してきて。いーい、男を見せなさいよ。いつまでも愚図愚図しない」
話はそれで終わりだった。
カルヴァンは真摯に頷いた。
「はい、おっしゃるとおりです」
そう答えると、ハサウェイ夫人はふふっと微笑んだ。彼女がヴェラを渡すように手を出すと、それを察したヴェラが自分からハサウェイ夫人の腕の中に入った。
「ふふ、ちょっとだけ内緒の話をするから、耳を聞こえないようにするわねー。大丈夫、目は見えるから心配しないでね」
そう言うと、ハサウェイ夫人はヴェラの上で手をひらひらさせた。それから彼女はすぐにカルヴァンに話しかけた。
「いいこと教えてあげましょうか? この魔法の依頼をしてきた人ね、Mなの」
「……M?」
ハサウェイ夫人が驚いた表情になった。
「え、知らないの? いくら童貞でも知ってるでしょマゾよ、マゾ。マゾヒズム、被虐趣味」
「……はぁ?」
やっと彼女が何を言っているのか思い至って大声を出してしまった。ハサウェイ夫人が顔をしかめる。
「うるさいわねー。この子に消音の魔法をかけてなかったら、鼓膜破れてたかもよ、猫だし」
「す、すみません……でもどうしてそんなことが今関係あるのでしょう?」
「察し悪いわね、だから性的嗜好の話よ。この子が黒猫なのは、どちらかというとMだってことよ」
依頼者の夫は、「ど」がつくほどのMであった。彼は大型動物――それも猫科の動物に襲われたい、と子供の頃から夢みていたそうだ。そして結婚した妻がこれまた「ど」がつくほどのSで、それで夫は魔女に依頼したという。
「その人の性的嗜好に合わせた猫科の動物に変身させてって依頼だったの。Sであればあるほど、獰猛な肉食動物になるのよ。面白いでしょ。即受けたわ」
「はぁ」
世の中には色々な人がいるものだ。
何がそんなに面白いのか、カルヴァンにはよく分からないが、ハサウェイ夫人はご機嫌に気にせず続けた。
「貴方の可愛い子にかかってしまったのは本当に申し訳なかったけど。そんなわけで、彼女はSではないから、優しくしてあげてねってこと」
「優しく……」
「優しくできるでしょ? ――でも、ちゃんと謝罪してからよ。それから彼女が夢見るような告白をしてあげて」
カルヴァンは表情を改めた。
「はい」
答えると、ハサウェイ夫人はいたずらっぽく笑った。
「ふふ、でもそれなりに反省したみたいだから、この辺にしておいてあげる。貴方に怒る権利があるのは、この子だけだしね――さて魔法を解くわね」
ハサウェイ夫人が再びヴェラの頭上で手をひらひらとさせた。
「じゃ、がんばってね――あ、そうだ、ちょっと耳をかして」
そう言ってハサウェイ夫人は、ヴェラの耳元で何かを囁いた。黒猫ヴェラの身体がびくんと震えた。
(めちゃくちゃ驚いている……? 一体何を言ったんだ?)
しかしすぐにヴェラが自分の腕の中に戻ってきたので、カルヴァンはそれ以上気にしないことにした。必要があればそのうちヴェラが教えてくれるだろう。そうして一人と一匹は、満面の笑みのハサウェイ夫人に見送られながら、家を後にした。
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