第10話 メイド、キスしても魔法が解けない
(は、恥ずかしい……っ)
じっとカルヴァンに見つめられて、あまりの恥ずかしさにヴェラは身を引きたくなった。
頼んだのに、しばらくカルヴァンは動こうとしなかった。
「泣いてるの?」
やがて彼にそう尋ねられて、ヴェラは自分の頬に手を置いた。
自覚はなかったけれど、ヴェラは今、泣いていた。自分でも理由の分からない涙だった。
「ご、ごめんなさいっ……」
はらはらと涙を流しながら、ヴェラは顔を背ける。キスをして、と頼んできた女性が目の前で泣くなんて、カルヴァンにしたら気分が悪いだけだろう。
「泣かないで」
カルヴァンがぽつりと呟く。
「初めてなんだもんな、そりゃ、そうだよな」
ぐすっと鼻をすすりあげたヴェラは首を横に振る。
「ごめんなさい、自分でもなんで泣いているか分からなくて」
そんな彼女をじっと見下ろしていたカルヴァンが頷いた。
「分かった。じゃあ今だけは僕のことを恋人だと思ってくれる?」
「……え?」
突然の申し出に、ぽかんとする。
「僕もヴェラが恋人だと思うから」
背けた首を元の位置に戻す。彼は少し躊躇ったような仕草を見せた後、ヴェラの目元を彼の手で拭いてくれた。
「だから、もう泣かないで」
そう言いながら、彼はヴェラのむきだしの肩をそっと撫でた。それはまるで家族にするかのような、ささやかなふれあいだったからまったく嫌な気がしなかった。
「傷がまだ残ってるね」
「――ッ」
かつて犬に噛まれた傷。随分と白く薄くはなったが、一目で傷だとわかる。
まだ乳兄妹として育っている頃の記憶。カルヴァンを庇ってヴェラが怪我をした。ただそれだけの――。
「覚えていてくれたんですか?」
「当たり前だよ。忘れるわけがない」
カルヴァンがもう一度、傷跡をそっと撫でる。
「残ってしまったね、なんて謝ったらいいか……」
「こんな傷、たいしたことないです」
「あの時もそう言っていたよね……そんなわけないのに。――ねえ、ここにキスをしても?」
「えっ……?」
「だめ? 恋人だから、いいよね?」
おろおろと視線を左右に送ったヴェラだが、もしかしたらその《キス》で魔法が解けるかもしれないと思って、やがて小さく頷いた。
屈んだカルヴァンがそっとそこに口づけた。ちゅっと軽やかなキスが肩に落とされて、ヴェラは小さく身を震わせた。
「嫌じゃない?」
嫌ではない。
こくりと頷くと、カルヴァンがふっと笑った。
「君にキスをしてもいい?」
懇願されるように問われると、断れない。
「はい、キス、してください……」
そう言うと彼が優しくヴェラを引き寄せ、キスを落とし始めた。まずは額、鼻先、頬、肩、首、鎖骨。
彼のキスは慎重で、どこまでも優しい。
先ほどの猫の時に触られているような気持ちよさはないけれど、その優しさがヴェラには心地よかった。
「ヴェラ、だいじょうぶ?」
尋ねられ、思わずぽつりと本音がこぼれた。
「恋人なら、カルヴァンにつかまりたい」
「―――!」
(あっ……!!)
失言だった。
ヴェラはまるで昔のままの話し方になったことに気づいて、謝罪しようとした。しかも彼の名前を呼び捨てにさえした。
「すみません、カルヴァン様。その、失礼な物言いをお許し――」
だがカルヴァンが彼女の両腕をしっかりと自分の首に回してくれたので、ヴェラは続きを飲み込んだ。
「今はいい。今だけは、僕たちは恋人だ。敬語はおかしいよね?」
シーツ越し、彼の衣服越しではあるが、彼の体が熱くなっているのが感じられる。きっと自分も同じだろう。
「――、うん、カルヴァン……抱きしめて欲しい」
「〜〜〜〜ッ」
一瞬まるでカルヴァンが泣き出しそうにみえた。だが彼はそれ以上何も言わず、ヴェラの望むとおりにしてくれた。
ぎゅっと彼に抱き寄せられると、ヴェラの心に暖かなものが広がった。
(安心する)
ヴェラは瞳を閉じた。
そして、彼の唇の感触を、自身の唇に感じた。軽く、あっさりとしたキス。
(カルヴァンとの……最初で、最後の)
胸がちくりと痛むのをヴェラは気づかないふりをした。
唇が離れてから、目を開けたヴェラの視界に自分の首元が飛び込んでくる。
「えっ!?」
どうしてだろうか、先ほどまで黒猫だった刻印は、灰色になっていた。
(なくなっていない? でも黒猫でもない?)
「なんだろうな?」
自分の世界に入り込んでいたヴェラは、近くからカルヴァンの声がしてびっくりしてしまった。
「なんでそんなに驚くんだ」
「ご、ごめんなさい。つい……」
気恥ずかしくて、見慣れているはずのカルヴァンをヴェラは直視できなかった。
「後で一緒にハサウェイ夫人のところへ行こう」
「い、一緒に? 私だけで大丈夫です」
「駄目だ。俺も関係しているからな」
そこでヴェラは大事なことを思い出した。
「そういえばカルヴァン様、今気づいたのですがハサウェイ夫人からお手紙のお返事は頂きましたか?」
「手紙の返事?」
「はい。ハサウェイ夫人の家に訪れる時に言いつかった手紙への返事です」
カルヴァンは得心した、とばかりに頷く。
「ああ、それはさっき読んだよ」
ヴェラは安堵した。きっと自分の首輪についていた手紙に返答が書いてあったのに違いない。それから彼女はカルヴァンに頭を下げた。
「面倒なことに巻き込んでしまって大変申し訳ありません」
「言葉使い、戻っちゃったな」
カルヴァンはそう言うと、彼女の黒髪を撫でる。
びくっと身動くヴェラに気づいたのか、彼の手はすぐに離れていった。
「君が謝ることはないよ。だってハサウェイ夫人のせいだろう?」
「……はい」
「それに、君には約束を守ってもらうことにしたから、本当に気にしないでいいよ」
そうだった、とヴェラは瞬く。
「あ、そうでしたね! えっと、約束って何でしょう?」
カルヴァンがみるみるうちに真顔になった。
「君に……」
「はい」
「君に、その」
見つめていると、今度は彼の顔が真っ赤になる。
「僕の婚約者に……なってもらいたい!」
こんやくしゃ。
婚約者。
誰が、誰の?
やがて言葉の意味を理解したヴェラは、大きくのけぞった。
「えっ、えっえ――?」
(えええええなになになに、何言ってるの―――!?!?)
混乱と焦燥で心の中で叫んだ途端、ばふっと音がして煙が舞い上がった。
(い、いたい―――ッ)
痛さに悶絶しながら、頭の片隅に「もしやこれって……」とよぎる。煙が晴れた時、ヴェラは驚いた表情のカルヴァンの顔が遙か上にあることに気づいて絶望した。
「え、また……猫に……?」
カルヴァンが苦笑いしている。
「もう一回撫でて、キスしようか?」
「いらない! ほんといらない!! 猫のままハサウェイ夫人のところへ連れて行って!」
「だからにゃあにゃあ言われても、僕には分からないんだけどな」
それから本気で逃げ惑う黒猫ヴェラと、真剣そのもののカルヴァンの攻防がしばらく続いたのだった。そしてそのお陰で、婚約者の話はうやむやになったのである。
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