第8話 メイド、主人と約束する

 あれからベッドのシーツを引き剥がされ、それでヴェラはぐるぐる巻きにされた。問答無用でそのままどこかに運ばれる。


 最初はどうにか逃げられないかと考えていたヴェラだったが、だんだん覚悟を決めていくしかなかった。シーツの中にくるまれて視界が遮断されたことで、少しずつ冷静になっていく。シーツ越しにカルヴァンの熱を感じながら、ヴェラはうつむいた。


(絶対に猫から戻らないといけないから……、いいんだこれで……それに、恥ずかしい思いをするのは、きっと一瞬……、カルヴァンには申し訳ないけど、付き合ってもらえれば……あと……)


 ずっと好きだったカルヴァンとの思い出が欲しい。


(いつか諦めるときに、今日の思い出があればきっと……)


 彼との身分差を思い知ってから、考えていたことだ。

 時が来れば彼にふさわしい令嬢が現れるだろうから、自分の思いは砕け散るのだ、と。だからこそ彼にこの想いがばれないようにとそればかりに気を配っていた。


 今年カルヴァンが社交界デビューしてからは、彼の婚約が現実味を帯びた。容姿端麗なカルヴァンの元へ令嬢たちが殺到するのも、彼女たちに完璧なマナーで応対する彼も、夜会でワルツをする彼らも、見てきた。

 ヴェラと一緒に練習したワルツを、完璧にこなすカルヴァンを壁を背に彼女は黙って眺めていた。凛々しい姿でワルツをリードするカルヴァンをパートナーの令嬢がうっとりと見上げていることも、令嬢に笑顔を向けるカルヴァンのことも、ずっとずっと。


(私も、カルヴァンと踊りたいな、なんて……思っちゃう……なんて、馬鹿ね、ヴェラ)


 彼が笑顔を向ける令嬢たちに内心嫉妬したこともある。

 だが、一介の使用人である彼女に出来ることは靴先に視線を落とし、時が過ぎるのを待つことだけだった。


 そして決意したのだ。

 なるべく、カルヴァンと心の距離を保つこと。

 そうしないといつか来るその日に、ヴェラの心は壊れてしまいそうだったから。


(ハサウェイ夫人の言う通り……、たいしたことない。問題ない。救済措置、人助け、人命救助よ、それ以上でもそれ以下でもない)


 そう思えば、すとんと覚悟が決まった。


 そこでカルヴァンが足を止めた。


「悪いけど、しばらく一人になりたいんだ」

「かしこまりました」


 執事の声がした。


「ありがとう。必要があったら呼び鈴を鳴らすから」

「承知しました」


 がちゃんと鍵が閉められる音がして、顔を上げる。どこか平坦な場所にそっと置かれたのを感じた。


「ヴェラ、出ておいで」 


 命じられて、シーツの海からごそごそと這い出る。ようやく外に出ると、そこはカルヴァンの寝室の、ベッドの上だった。


「――!」


 覚悟をしたくせに、カルヴァンがどうしてヴェラを寝室に連れてきたかを考えると顔が真っ赤に――なったかどうか誰にわかるというのか。


(今だけは黒猫であることに感謝ね)


 カルヴァンはベッドの脇に立ち、腕を組んで彼女を見下ろした。


「ね、返事して? 信じられないけど、君、ヴェラなんでしょ?」

「……はい」

 

 すっとカルヴァンの眉間に皺が寄った。


「ニャアて」


 やはりカルヴァンにも猫の鳴き声にしか聞こえないらしい。


「首は動かせる? 君、ヴェラなんでしょ?」


 おずおずと頷く。

 そこで大きなため息をつかれ、びくりと身体を震わせる。


「ハサウェイ夫人のところへお使いを頼んだのは僕だけど……まさかこんな事態になるなんて」

「申し訳ないです。でも今回のことは私のせいではありません」


 必死で言い訳をする。


「だから、にゃあにゃあって――ふっ」


 カルヴァンが小さくふき出した。


「本当にヴェラなんだな、俺に返事をしてる」

「そう言ってるでしょう?」

「やめて、ツボに入る」

「カルヴァン様のツボなんて知りません、こちらも真剣です」 

「だからやめてって」

「好きでやってるわけじゃない」


 どうせ猫の鳴き声にしか聞こえないんだろうから、思う存分言ってやった。カルヴァンがヴェラの頭をつついた。


「それで、人間に戻るには僕の協力が必要なんでしょ?」


 途端にヴェラは俯いた。


「どうやって戻るか方法は聞いてるわけだよね?」


 俯いたまま、しばらくして頷いた。


「もちろん、手伝うよ」


 ぱっとカルヴァンを見上げた。

 彼は今まで見た中でも一番といっていいくらいの真剣な表情をしていた。


「ただ一つ条件がある」

「条件?」

「何を言ってるか分からないっていうのに――あのね、手伝ってあげるから、人間に戻ったら僕の言うことを一つ聞いてね?」


 ぽかんとした。


「いつも聞いてるのに、これ以上何を?」

「あ、今のは分かったな。いつもと何が違うんだって言ったんだろ?」

 

 こく、と頷いた。


「そうだね、君は……、ずっと僕の《側仕え》として完璧なくらい完璧だったもんね。なんでも願いを聞いてくれて、後ろに控えてさ。でもそれは僕が望んでいる姿じゃない」


(えっ……)


 ずきっと胸が痛む。


(私……、ちゃんとカルヴァンの望みに応えられてなかった?)


 カルヴァンが手を伸ばして、ヴェラの喉の下をわしわしと撫でる。


「いいかい、してもらう約束は、すぐに終わるもんじゃないからな。ずっと続くやつだよ?」


(ずっと、続く……?)


 ヴェラは一瞬考えたが、頷いた。

 どのみち、カルヴァンの側仕えとして共にいるのはこれからも変わらない。


 そうやって頷けば、カルヴァンがふわっと笑った。

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