第2話 メイド、主人を守る

 話は数刻前に遡る。


 朝一番に部屋に入った途端、主人に声をかけられた。


「ヴェラ」

「はい、なんでしょうかカルヴァン様」

「今朝も可愛いね」


 カルヴァン=ローレル、十八歳、ローレル子爵家の次男である。短めの金色の髪に、透き通るような蒼い瞳を持つ、まるで王子のような端正な容姿の男性だ。

 一見すると冷たいような印象を与えるような鋭利な美貌の持ち主だが、口調は穏やかで柔らかい。――こうして、メイドのヴェラに軽口を叩くくらいに。


「おやめください、そういうお戯れはっ!」


 ヴェラは顔を真っ赤にして、主人を嗜める。


「どうして? 可愛いものを可愛いと愛でて、何が悪い?」

「で、でもっ……」

「他の使用人もいないのに、遠慮する必要ある?」


 困り果てたヴェラは、うつむくしかなかった。

 

(私にまで、こんな《たらし》みたいなことを言うようになるなんて……昔はとっても可愛かったのに……っ!)


 カルヴァンは、ヴェラが働いているローレル子爵家の次男で、彼女の幼馴染でもある。というのはヴェラの母親がカルヴァンの乳母だったからだ。

 その経緯は、母親同士の関係にまで遡る。

 実はローレル子爵婦人は、かつて伯爵令嬢であったが、十代の時に家が没落した。その後、市井の人にまぎれて平民として暮らすことになった。そこで偶然知り合って仲良くなったのがヴェラの母親というわけだ。

 ローレル子爵と、子爵夫人は幼馴染で、どうしても忘れられなかったローレル子爵が、成人した後に、夫人を迎えにきたのだという。没落した伯爵令嬢を娶るということで、なかなかの苦労があったらしい。

 そんな身分差を乗り越えて結ばれるという大恋愛だったが、その話はいまは割愛する――が、とにかくそんなわけで、ヴェラとカルヴァンは乳兄妹であり、幼馴染となった。


 ローレル子爵家は領地はなく、そこまで格式高い家というわけでもない。その上子爵夫人が平民出身ということもあって、使用人たちを大切にしてくれる。だからヴェラも子供の頃は随分と自由にさせてもらった。


 まるで兄弟のように育ったカルヴァンとはずっと仲が良かった。

 幼い頃のカルヴァンはとてつもなく可愛くて、まるで少女かと見間違えるばかりだった。そんなカルヴァンは、時々ぼうっとした顔で空を見つめることがあった。


『どうしたの?』

『……な、なんでもない』

 

 尋ねると、はっとした彼がまばたきをすると、焦点がヴェラに合うことが何度もあった。


『ぼんやりしていたけど?』

『――……うん、そうなんだよね。なんか……僕……ちょっと変わってるんだ。空に……不思議なものが見えたりするの』

『不思議なもの?』

 

 首を傾げるヴェラに向かって、カルヴァンが笑いかけた。


『でも今、ヴェラと喋ってたら、消えちゃった! ありがとう、ヴェラ!』

 

 ヴェラはどーんと自分の胸を叩いた。


『なんかよくわからないけど、良かった! これからもカルヴァンがぼんやりしていたら、どしどし声をかけるね!』


 そう言えば、ははっと彼が笑い声をあげる。


『ありがと、頼もしいな! よろしくね!』

『任せて!』


 ――と、仲が良かったのだけれど、活発でわんぱくなヴェラは、同い年で自分より身体の小さかったカルヴァンを泣かせたことも数知れず。


(一番ひどく泣いたのは……)


 カルヴァンが一番泣いたのは、ヴェラの悪戯によってではなかった。ある貴族の家に招待された時に、庭園に放たれていた大きな犬がたくさんの来客に興奮して――また他の貴族子息たちがその犬を追いかけ回したりもした――尻もちをついて逃げ遅れたカルヴァンを襲おうとしたのを、ヴェラが守ったことがあった。

 

 興奮しきった犬は、カルヴァンを覆うように抱きしめたヴェラの肩を背後からがぶりと噛んだ。あまりの激痛にヴェラはうめいたが、絶対にカルヴァンを離したりはしなかった。

 その後犬は大人たちの手によって離されたが、興奮しきった犬に何度か噛まれたヴェラは意識を失った。


 目が覚めた時に、ベッドの横に座っていたカルヴァンは号泣していた。


『カルヴァン、どうしてそんなに泣いてるの……?』

『ごめん。ごめんね、ヴェラ。僕のせいで……しかもお父様によれば、あの犬、罰されもしないって』

『当たり前よ、私はただの使用人だもの』


 もともとカルヴァンの身の回りの世話をする母に連れられて、彼の話し相手として行っただけで、要はカルヴァンの側仕えに過ぎない。だが、納得いかないのかカルヴァンは首を横にふった。


『怪我したのに、使用人だったらいいなんて、そんなのおかしいよ』

『……ありがとう、カルヴァン。でも、いいのよ』


 ヴェラとしてはあの犬を罰して欲しいわけではない。あの犬は、あの場にいた貴族令息たちにいじめられて、背中にピンを刺されていたと聞いた。そうでなければあんな暴走をするわけはない。

 責められるべきは、犬ではなく、その貴族令息たちだ。


『いいの、そんなこと言わないで。私は、カルヴァンを守れただけで満足よ……』

 

 ぎゅっとカルヴァンがヴェラの手を握る。


『僕、大人になったら立派になって絶対にヴェラを守るからね』

『嬉しい……!』


 すでにその頃、自分の立場を理解していたヴェラはその約束が果たされないことを知っていたけれど、カルヴァンのために彼女はそう答えた。

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