Ⅰ 発端

 1


「部長がニューヨークに?」

 武居が愛弓の報告をおうむ返しにして聞いた。

「そうなの。パパが金曜の夜、急に旅立ってね、それに付いて行ったらしいの」

 愛弓は答えて肩をすくめた。

「それならそうと断って行って欲しいわよね」

「だから今日、部長来てないのか。朝、花壇にいなかったから、どうしたのかと思ってたんだ」

 古藤はこれまで、一度も花の世話を休んだことがないのだ。少なくとも、愛弓と武居が知るかぎりでは。

「でも、どうして突然ニューヨークになんか……」

 武居は釈然としない様子でつぶやいた。こんなに突然、誰にも断らずに、花の世話をほっぽってまで……不審な点はたくさんあった。

「あの手紙が原因かもしれないわ」

「手紙?」

 武居が再びおうむ返しに聞く。

「一週間くらい前、パパに差出人不明の手紙が届いたのよ」

「どんな手紙だったんだ?」

「パパは教えてくれなかったわ」

 愛弓も再び肩をすくめた。

「じゃあ、理由はわからないんだ」

「うーん……。関係あるかどうかはわからないけど、パパはね、うちを離れていた時、かなり長い期間アメリカで暮らしていたらしいの」

「えっ、そうなの?」

 武居は声をひそめた。

「大金から隠れるため?」

 愛弓はうなずいた。

「そこで勉強して、医師免許を取ったんですって。だからその関係かもしれないわ」

「愛矢は何か知らないの? ずっと、お父さんと一緒にいたんだろう?」

「愛矢は……。今、部長に頼まれて花の手入れをしてるのよ」

「そっか、部長、愛矢に頼んで行ったんだ」

 武居は窓の方に身を乗り出した。そんなことをしても、この教室から花壇は見えないのだが。

「落ちるわよ」

 愛弓は武居の制服の袖をつかんだ。

「愛矢は今じゃおれや愛弓より、ずっと花のことよくわかってるもんな」

「そうね。……ところであんた、いつからわたしのこと名前で呼ぶようになったの?」

 愛弓が今まで気が付かなかったというように尋ねると、武居も、今初めて気が付いたというように首をかしげた。

「愛矢が来てからかな。両方『笛吹』って呼ぶわけにいかないし」

 言ってから、武居は笑った。

「愛弓もおれのこと、名前で呼んだっていいんだぜ」

「あんたに双子のお兄さんが現れたらね」

 愛弓も笑って言い返した。


 2


 ――十月十一日。

 晴樹が出掛けて五日目の夜、八重子がぽつりと言った。

「パパは昔からそうだったわ。ママには何も相談してくれないの」

 愛矢はまだ帰宅しておらず、愛弓と母の二人きりだった。今夜は二人で夕食を作っているのだ。

「これからはちゃんと話してって頼めばいいのよ」

「そんな簡単には行かないわ。なかなかね」

 やっぱり、すぐにきっぱりとは切り替えられないのかもしれない。

「でも、黙ってたってしかたがないわ。せっかく口があるんだもの」

「愛弓らしいわね」

 愛弓には愛弓の、母には母の考え方がある。そして、父には父の考え方、愛矢には愛矢の考え方が。

 愛弓はじゃがいもを剥く手を休め、八重子の背中にもたれ掛かった。

「ねえ、ママ。パパと出会ったころの話、して」

「急にどうしたの」

「パパがいない時は聞けない雰囲気だったし、パパが戻って来たら来たで、照れくさいって言っていつもはぐらかしちゃうじゃない。今ならパパはいないから」

「そうね」と言って、八重子はやっぱり照れくさそうに笑った。

「パパとは大学で知り合ったの。ママはすぐにパパを好きになったし、パパもママを好きになってくれたわ。一緒に勉強したり、映画やお芝居を観に行ったり、とっても楽しかった」

「学生結婚だったの?」

「ううん、パパは大学に残ってたけど、ママは卒業してたわ。それから、愛矢と愛弓が生まれて……」

 少しためらってから、愛弓は尋ねた。

「パパのこと、恨んでた?」

 八重子も少し考えた。

「パパが愛矢を連れていなくなった時、ママはそれほど驚かなかったの。パパはつかみどころがなくて、しょっちゅう突拍子もないことを仕出かしてた人だったから、ただ、ああ、やられたなって思った。理由がわからなくて不安だったし、パパがいなくてさびしかったけど、恨んではいなかったわ。……パパが戻って来た今だから、言えることかもしれないけど」

「パパはママを捨てたんじゃなかったわね」

「そうね……。結果的にはね」

「十三年分、パパに思いっきり甘えてやればいいわ。十三年分、いっぱいいっぱい幸せになるのよ」

「あなたもね、愛弓。それに、愛矢も」

「パパもよ」

「みんなで幸せになりましょう」

 二人は顔を見合わせて笑った。

 コンロの火を点けてから、八重子がふと時計を見上げた。

「愛矢は今日もずいぶん遅いわね」

「愛矢は部活よ」

 愛弓は冷蔵庫を開けて牛乳を出した。

「先輩に頼まれて、花の世話をしてるの。一つでも枯らしたら大変だって言って、必死なのよ」

「部長? ああ、パパに付いて行った子ね」

 八重子は首をかしげた。

「それにしても、よその子を何日も連れ回したりして大丈夫なの? しかも外国でしょ。おまけに学校まで休ませて……。彼のご両親はどう思ってるのかしら」

 言われてみれば、確かに非常識だ。古藤の両親は一体どんな人たちなのだろう? 子供が何をしようがまったく口を出さない。あまりに放任過ぎるのではないか。愛弓は古藤の家族に会ったことがなかった。見掛けたことすらない。まさかいないなんてことはないだろうが……。

 考えてもしかたがない、と愛弓は思った。非常識だが、そもそも、古藤に常識が通用したことなどないのだから。


 3


 ――十月十四日。

 晴樹からの連絡が途絶えている。もう三日も音沙汰がない。昨日は帰って来るはずだった日なのに、夜が明けても電話すら来なかった。八重子は心配で、ここ何日かまともに寝ていない。

 朝、愛弓がキッチンに入って行くと、八重子はテーブルにうつ伏せて眠っていた。昨夜も一晩中起きていたようだ。

 きっと、十三年前のことが思い出されているのだろう。このままもう帰って来ないのではないかと、不安でたまらないのだ。愛弓には母の気持ちがわかった。愛弓だって同じだ。父を信じたいけれど、何しろ愛弓にとっては、会ったばかりでまだよく知らない人なのだ。

「ママ、今からでも寝たら?」

 愛弓はそっと声を掛けた。

「電話があったらわたしが出るから」

 八重子は愛弓を見上げた。

「きっとパパは、電波が届かないようなところにいるんだわ。今日は帰って来るわよ」

 愛弓が笑い掛けると、八重子もどうにか笑顔を作った。

 八重子が自分の寝室に入って行くのを見送った愛弓は、ふと、いつも早起きの愛矢がまだ顔を見せないことを不審に思った。

「どうしたのかしら」

 愛弓は愛矢の部屋に行き、ドアの外から呼んだ。

「愛矢、どうしたの。もう七時半よ」

 返事がないのでドアを開けたが、ベッドに愛矢の姿はなかった。


 4


 晴樹ばかりか、愛矢までが姿を消した。一体どうなっているのだろう。これでは本当に、十三年前と同じではないか。

 ――十月十六日。

 愛矢がいなくなって二日が過ぎた月曜日、愛弓はとうとう武居に相談した。

「帰って来ないって、それ、どういうこと?」

 武居はびっくりして聞き返した。

「一週間で戻るはずだったのよ、予定では」

 何とか気を静めようと努力しながら、愛弓は説明した。

「それが、もう十日も経ってるの」

「何かあって、予定が延びたんじゃないの」

「わたしも最初はそう思ったけど。でも、愛矢までいなくなって」

 武居はますます驚いて目を見張った。

「愛矢、風邪で休んでるんじゃなかったんだ」

「すぐに知らせなくてごめんね。よけいな心配させたくなかったから」

「よけいな心配って……水くさいな。おれと愛弓の仲なのに」

「何言ってるのよ」

 愛弓は思わず笑ったが、武居は笑わなかった。まじめに言ってくれているのだ。嬉しいと同時に、少し照れくさくなる。

 武居は口元に手を当てて考え込んだ。

「それにしても、何で愛矢まで」

「パパの身に何かあって、愛矢は助けに行ったんじゃないかって、わたし……」

「でも、部長が一緒なんだろ。部長なら、お父さんのことも愛矢のことも、きっと守ってくれるよ」

「そうね……そうよね」

 ――そうだ。あの人の力なら知っている。この目で見たし、話にも聞いた。そうよ。きっと大丈夫。

 愛弓は自分に言い聞かせたが、それでも小さな不安が消えることはなかった。

 ――このまま、ただ心配しながら、待っているしかないの?


 5


 愛弓が家に帰った時、八重子はまだ寝ていた。

「ママ……?」

 心配して覗き込むと、かぶった布団の向こうから八重子の声が聞こえた。

「もう、帰って来ないかもしれない」

「ママ、何を言うの」

「もしそうなっても、今までどおりの生活に戻るだけね。愛弓と二人っきりの」

 愛弓は八重子の布団を剥いだ。

「ママ、ニューヨークへ行こう」

 八重子は目を丸くしたが、構わず愛弓は続けた。

「パパはママを置き去りにしたんじゃないわ。何かあったのよ。何か、予期しなかったことが。ママ、パパを助けに行こう」

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