Ⅲ 愛矢の秘密
1
白い小さなボールが、生き物のように愛矢の手からふわふわと浮かんでは、またゆっくりと下りて来る。スローモーションの動きを見ているようだ。
「愛矢、あなたがやってるの?」
愛弓はかすれた声音で尋ねた。
「そうだよ。これがわたしの力。超能力ってやつ」
「手品じゃなくて?」
愛矢は小さく声を立てて笑った。
「手品かもね。種はないけど」
彼女は手にしたボールをどうしようか、しばらくじっと見つめていたが、置き場がないので持ったまま話し出した。
「父さんがわたしを超能力者にしたんだ」
「パパが?」
「正確には、父さんの研究が」
「研究……?」
「そう。父さんは大学の研究室で、ずっと超能力の研究をしてたんだ。そしてある日とうとう、『超能力のもと』を発見した」
愛弓は愛矢から視線をはずすことが出来なかった。ほんの小さな動きにさえ反応してしまう。今目の前にいる愛矢は、まるでまったく知らない女の子のように見えた。
愛矢は淡々と語った。
「でも、『超能力のもと』は、生後三か月以内の赤ちゃんに投与しなければ効果がなかった。だから父さんはその薬を、自分の子供で試すことにしたんだ」
「お父さんが、娘のきみを実験台に?」
言葉を失った愛弓の代わりに、武居が叫ぶ。
「そんな、研究のために、自分の子供を利用するなんて!」
「他人の子供を利用する方がもっとひどいんじゃない?」
愛矢に冷めた声で言われると、武居も反論出来なくなった。
「超能力って言っても大したものじゃないんだ。個人差があるのかもしれない。超能力のもとって言うより、潜在能力を引き出す薬――みたいな感じなのかな。わたしは詳しくは知らないんだ。父さんは話してくれなかった。――とにかく、わたしの身に付いたのは、触れずに物を動かす力」
言いながら愛矢は、ボールをまた宙に浮かべて見せた。
「あまり重い物だと、高くまで持ち上げられないけど。それから、心で人と会話する力……これも相手がかぎられるんだ。今までに二人としか成功してない」
「テレキネシスとテレパシーだね」
「そう。ただ、わたしが力を使うと変な電波が出るらしくて。ガラスが割れたり時計が狂ったり、ちょっと困ったことになっちゃうんだ」
「ああ」
なるほど、そういうことだったのか。最近起こった不可解な事件の謎が解けた。――けれどまだ、全てに納得出来たわけではない。
「じゃあ、花壇を荒らしたのは? あれもきみの力のせいなのか?」
武居が尋ねる。
「あれは……」
愛矢はうつむき、つらそうに唇を噛んだ。
「あれは、わたしじゃない。あんなひどいことをした奴、わたしだって許せない!」
怒りに震えた彼女の声は、西日の射す熱い地面に吸い込まれて行った。
2
――八月十七日。
愛弓はのろのろと学校へ向かっていた。昨夜降った雨のため、道のそこここに水たまりがあり、避けて歩かなければならない。
愛矢の秘密を聞かされてから一週間が経ち、今日はまた園芸部の活動で学校に行く日だった。
結局愛矢は、あれ以上何も話してくれなかった。愛弓の方も、聞きたいことは山ほどあるのに、何も聞けないでいた。
「信じられない」
愛弓は小さくつぶやいた。まだ、実感が湧かなかった。自分に双子の姉がいて、一緒に暮らすことになっただけでも驚きだったのに、その子が超能力者だなんて。
「まるで、ドラマの中の出来事みたいじゃない」
父の研究のせいで、超能力者になってしまった双子の姉。父は研究のために彼女を連れて姿を消し、そのまま死んでしまった。妻ともう一人の娘のもとに、一度も帰ることがないまま……。
愛弓は足を止めた。
「……そうなの? パパが帰って来なかったのは、研究を続けるため? それとも、他の研究者から、超能力の秘密を遠ざけようとしたの……?」
その答えももう、わからない。父は死んでしまったのだから。もう、二度と帰って来ないのだから。
再び歩き出し、愛弓は角を曲がった。その途端、待ち構えていたらしい誰かに、いきなり布で口をふさがれてしまった。
声を上げる暇もなかった。視界がぼやけ、愛弓は意識を失う自分を感じていた。
3
「愛弓?」
一人網戸越しに外を眺めていた愛矢は、ふと呼ばれた気がして振り返った。家の中はしんとしている。
「……気のせいかな」
八重子も愛弓も、まだ帰っていない。今この家にいるのは、リビングの椅子にぽつんと座った愛矢だけだ。
――大丈夫。一人には慣れている。
愛矢は窓に目を戻した。
この家に来てから、ずいぶん長いこと経ってしまった気がしていた。指を折って数えてみてまだ三週間足らずであるとわかり、愛矢は一人、声を立てて笑った。
たった三週間。でも、長い三週間だった。
この三週間、愛矢はずっと落ち着かない気分でいた。理由の知れない不安が胸にくすぶっていて、苦しくてたまらないのだ。そして、誰に頼ることも出来ない。これ以上隠し通せず、つい自分の秘密を明かしてしまったけれど、信じてもらえなくても無理はないと思っていた。
「やっぱり、わたしはここに来ちゃいけなかったのかもしれない」
――やっぱり、父さんと一緒に行くべきだったのかもしれない。今からでも、父さんを追い掛けて……。
玄関のチャイムが鳴った。
――今度こそ愛弓かな。
八重子は出版社に出掛けていて、夕方まで帰らないはずだ。それにしても、わざわざ呼び鈴を鳴らすなんて、鍵を忘れたのだろうか?
愛矢は立ち上がって廊下に出た。玄関に着く前に、ドアの外から声が聞こえた。
「愛矢? 愛矢、いるのか?」
武居の声だ。
愛矢は急いでドアを開けた。
「武居、どうしたんだ」
「それはこっちが聞きたいよ」
武居は困惑ぎみに言った。
「愛弓、どうかしたのか? 昨日電話で話した時は元気だったのに」
愛矢も困惑した顔になった。
「愛弓がどうかしたの?」
尋ね返されて、武居はますます面食らったようだった。
「笛吹が今日、学校に来なかったから心配で。風邪とかそういうんじゃないのか? 連絡しようと思ってたら、何か変なメール送って来るし、そのあとは電源切っちゃったらしくて何度掛けてもつながらないし」
愛矢は眉をひそめた。嫌な予感に胸がざわついたが、努めて冷静に話そうとした。
「愛弓は今朝、ちゃんと学校に行ったよ。まだ帰ってない」
「何だって? 笛吹は来なかったぞ」
「でも、家を出たのは確かだ」
「じゃあ、笛吹はどこへ?」
二人は答えを求めるように、しばらくお互いの顔を見つめ合った。沈黙を破ったのは愛矢だった。
「変なメールが来たって……愛弓から?」
「ああ、これだよ」
武居は携帯電話の画面を見せた。――短い文章だった。
大金
愛矢にそう伝えて下さい。
愛矢の顔からみるみる血の気が引いた。
「愛矢?」
武居は愛矢の様子に驚いて、支えるように彼女の肩を両手でつかんだ。
「愛矢、どうしたんだ。笛吹はどこにいるんだ?」
「……愛弓は誘拐されたんだ」
愛矢は低い声でつぶやいた。
「誘拐だって?」
「大金銀次だ。あいつが愛弓を……」
「どういうことだよ、愛矢。大金銀次って誰なんだ?」
武居が身を乗り出し、うつむいた愛矢の顔を覗き込んだ。
愛矢は武居の顔を見ることが出来なかった。目を逸らし、苦しげに声を絞り出す。
「花壇を荒らした奴だよ」
4
――日が傾いて来ている。
愛矢は窓を背にして立ち、ソファーに腰掛けた武居がじっと話を聞いていた。
「わたしに薬を投与したのは、父さんじゃないんだ。父さんと一緒に超能力の研究をしていた、大学の友人。大金銀次」
大金銀次――愛矢がずっとおそれていた名前。二度と聞きたくなかった名前。
「父さんは、自分のせいだから、自分がおまえの超能力を目覚めさせたようなものだって言って、わたしに謝っていたけど、違う。大金銀次が父さんに無断でわたしを実験台にした。それで父さんは、わたしを連れて逃げたんだ」
愛矢が一息つくと、武居が口を開いた。
「その大金銀次って奴が、愛弓を誘拐したって言うんだな」
「あいつはわたしが父さんのもとを離れた時から、わたしを追って来てたんだ。武居の家の前で、事故を起こした車がそう。関係ない人たちにまで、迷惑掛けて……」
「きみを捕まえることが出来ないから、愛弓を代わりに?」
「多分ね。あいつは愛弓が学校へ行く日を知ってて、一人になるのを待って連れ去ったんだ」
「愛弓をおとりにして、きみをおびき出すつもりなのか」
「それもあるけど」
愛矢は言いよどんだ。
「愛弓を誘拐すれば、わたしが父さんと連絡を取ると思ったんだ」
武居は疑うような眼差しを向けた。わずかに会話が途切れる。
「……何を言ってるんだ? きみのお父さんは死んだんだろ」
「そういうことになってる」
「きみには父さんが二人いるの?」
「ばかなこと言わないで」
愛矢の笑い方には力がなかった。
「――嘘、だったの?」
愛矢がうなずいたその時、玄関の開く音がした。
5
「愛弓はまだ帰らないの」
八重子は玄関で靴を脱ぐと、迎えに出て来た愛矢を不機嫌そうに見た。
「母さん、あのね」
「少し部屋で休むわ」
「母さん、お願い。わたしの話を聞いて」
愛矢は必死になって言った。
「愛弓が誘拐されたんだ」
八重子は言葉を失って振り返った。
「わたしのせいで……ごめんなさい」
「誘拐って、愛矢」
「警察には知らせないで。愛弓が危なくなるから」
「どういうことなの、一体、誰に誘拐されたの」
「父さんの研究を狙ってる人。父さん、本当は生きてるんだ」
愛矢は母に抱き付きたいと思ったが、そうする勇気がなかった。母はただ、呆然と娘を見つめていた。
「ごめんね。母さんと愛弓の生活、おびやかすつもりじゃなかった。でも、どうしても二人に会いたかったんだ。ごめんね……。愛弓は必ず、わたしが助け出すから。そして、二人に、また元の平穏な暮らしを返してあげるから」
それだけ言うと、愛矢は表に飛び出した。母の呼ぶ声が、かすかに聞こえた気がした。
6
愛矢は振り返らずに駆けた。
もう二度と会えないかもしれない――そう考えると、涙がこぼれた。こぼれた涙は風に乗って、小さな宝石のようにきらめきながら後ろへ流れて行く。
愛矢は両手で顔をこすった。泣いちゃだめだ。愛弓を助けなきゃいけないんだから、泣いてなんかいられない。
暗い路地を一心不乱に駆け抜け、角を曲がろうとした時、誰かが愛矢の手をつかんだ。愛矢はびくっとして振り返った。
「速いな、愛矢は。双子なのに、愛弓とは大違いだ」
息を弾ませながら、武居が言った。
「武居?」
「おれも行くよ」
「何を……」
「おれも一緒に愛弓を助けに行く」
こんな状況なのに、彼は落ち着き払った、穏やかなまなざしで愛矢を見ていた。
愛矢は首を振った。
「危険だよ」
「足手まといだ。――って言いたいんだろ」
武居は少しおどけたように答えた。
「そんなことはない。わたしだって、一人はこわい。父さんと暮らしてた時、友達は出来なかったけど、父さんがいつもそばにいてくれた。だから、一人になるのはすごくこわい」
――慣れているけど、やっぱり、こわい。
武居は愛矢の肩にそっと手を置いた。
「一人になんかさせないよ」
「本当に?」
「愛矢も愛弓も、おれが絶対に守る」
武居の力強い言葉は、愛矢に勇気を与えてくれた。
助けてくれる人なんて、誰もいないと思っていた。誰も頼っちゃいけないと思っていたのに。それなのに、この人はわたしを信じてくれた。――守ると言ってくれたんだ。
「愛矢」
武居が優しく呼び掛ける。
また泣きそうになりながら、愛矢は顔を上げた。
「ありがとう……武居」
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