Ⅱ 夏休みの怪事件

 1


 ――八月四日。

 愛弓は手早くジャージに着替えると、ものすごい勢いで階段を駆け下りた。

 学校の花壇へ行く時は、制服ではなく作業用のジャージを着る。今日は当番の日ではないが、行く必要が出来たのだ。ああ、大したことがなければいいけど。

「どうしたの、愛弓」

 愛弓のあわてように、ダイニングから出て来た愛矢が驚いて声を掛けた。

「部長から電話があったの。学校の花壇が、めちゃくちゃになってるって。すぐ行かなくちゃ」

 愛弓は靴ひもを結びながら説明した。あせっているため、なかなかうまく結べない。もう!

「わたしも行っていい?」

 返事をする間もなく玄関を飛び出したが、愛矢はあとから付いて来た。


 2


 学校に着いた愛弓は、花壇の惨状に愕然となった。花は一本残らず折られ、踏みつぶされていて、もはや見る影もない。

「誰がこんなことを!」

 思わず叫ぶと、武居が二人に気付いて振り返った。

「部長が今朝来たら、この有様だったらしいよ」

 愛弓は花壇の隅にしゃがんでいる古藤を見やった。

 古藤は折れた花を見下ろして、しきりに指を当てて元に戻そうとしている。その手にある花を見れば不可能なのは明らかで、悲しくなった愛弓は目を伏せた。古藤もわかっていながら、それでも何とかしてやりたいと思っているのだろう。

 愛矢は古藤の方へ行こうとしたが、武居がそっと手をつかんで止めた。

「今はそばに寄らない方がいいよ。部長って普段は元気過ぎるほど元気なんだけど、花に何かあると、それこそしおれた花みたいに落ち込んで不機嫌になるんだ。それくらい、花が大好きなんだよ」

 近付くのをやめた代わりに、愛矢は泣きそうな目で古藤を見つめた。武居も愛弓もなすすべがなく、ただその場に立ち尽くすばかりだった。

 やがて園芸部の部員たちが揃ろうと、手分けして花壇を片付けることになった。

「あんまりだよね」

「頑張って育てたのに」

 みんなが口々に言う。

 ――本当に、何てひどいことをするのだろう。けれど、どんなに怒りを感じても、それをぶつけるべき犯人がわからないことにはどうしようもない。きっとおまえたちのかたきをとってやるからねと心の中で誓いながら、愛弓は花の一本一本にお別れをした。


 3


 ――八月七日。

 愛弓は武居と出掛ける約束をしていた。お互い予定がないので、じゃあ二人で遊びに行こうかという話になったのだ。

 駅で待ち合わせたものの、花壇の様子が気になって、二人の足は自然に学校へと向かっていた。

「ねえ、花壇を荒らした犯人をさがし出しましょうよ」

 校門をくぐりながら、愛弓は勇ましく言った。

「このままじゃ、わたし我慢出来ないわ。あんなひどいことした人を許せる? 捕まえて謝らせたいのよ」

「本気なの、きみ?」

「本気よ。部長にも昨日電話したんだけど、気乗りしないって言うの。今は花壇を元どおりにすることしか頭にないって」

「おれもそっちが先決だと思うな」

 武居は冷静だった。

「それに、どうやって犯人を突き止めるんだ? 部長はかなり早い時間に花壇に来てるんだから、荒らされたのは夜中だよ。部活の連中だって、あの辺りには近付かないし」

「でも、悔しいよ。このまま泣き寝入りなんて。何とかならないの?」

「何とかったって……」

「片っ端から聞いて回るのよ。花壇が荒らされた前日に、誰か不審な人物を見掛けなかったか」

「でも……」

「ほら、まずは野球部の部室よ」

 愛弓がぐいぐい引っ張るので、武居は付いて行かざるを得なかった。


 4


 二人はとりあえず、ほとんど毎日練習に来ている運動部を訪ね、あれこれ質問をした。が、大した成果はなかった。

 園芸部の花壇はグラウンドや正門から離れているため、その気になれば誰にも見られずに近付ける。しかも、古藤が前日の夕方に見回った時、花壇はまだ荒らされていなかったのだ。昼間不審な人物が人目に付く場所をうろうろしていたとしたら、考えられるのは下見に来ていた可能性くらいだ。わずかな可能性に賭けて聞き込みを続けたものの、不審者目撃の情報はついに得られなかった。

「だめかあ」

 愛弓はつぶやき、空を仰いだ。

「やっぱり、夜になってから来たとしか考えられないわね」

「うん。校舎の中はともかく、校庭なら夜でも忍び込めるからね」

「わざわざ夜遅くに忍び込んで花壇を荒らすなんて、一体何のためにそんなことをしたのかしら」

「園芸部の部員に恨みがあるとか」

「だとしたら部長よね。花壇を荒らされて一番嘆くのは部長だもの。でもあの人、他人の恨みを買うタイプには見えないわよ」

「だよな」

 議論しているうちに、花壇の近くまで来ていた。二人が覗いてみると、他の部員は仕事を終えて帰ったらしく、古藤が一人働いていた。

「ずいぶん良くなりましたね」

 ほとんど前と変わらなくなった花壇を見て、武居が感心した声を出した。

「まあな」

 古藤は額の汗をぬぐった。彼もすっかり元気を取り戻したようだ。タフな人だな、と愛弓は思った。

「今日は登校日だったんだ。教室の時計が狂ってたりなんだりで遅くなっちまってさ、今始めたとこ」

「時計が狂ってた?」

 武居が変な顔をして聞き返すと、古藤は吹き出した。

「何がおかしいんですか?」

「いや、狂ってたのは武居じゃなくて時計だから」

「わかってますよ」

 二人のやりとりを聞きながら、愛弓は一週間前、背後で突然割れた窓ガラスのことを思い出していた。

 ――何もしていないのに。誰もそばにはいなかったのに。まるで、見えない手がガラスを思い切りたたいたみたいな……あれは一体何だったんだろう? このごろおかしなことばかり……。

 そんな愛弓の物思いを、ぱちんと手を打って遮断したのは古藤だった。

 そうだ、と彼は言った。

「さっき愛矢くんに会ったよ。愛弓くんをさがしてるようだったけど、見つからないから帰るって言ってた」

「ほんと? 愛矢、来てたんだ。何か用事があったのかな」

「かなり怒ってたぜ。よっぽど大事な用だったんだな、鬼みたいな顔してた」

「それ、ほんとなの?」

 愛弓はじとっと古藤をにらんだ。

「おれの目にはそういう風に見えたが」

「部長の言うことっていまいち信用出来ないけど。とにかくわたし帰るわ。ごめん、武居。あとで電話する」

 武居は笑って手を振った。


 5


 翌日は一年生の登校日だった。

 愛弓が学校に行くと、教室の前の廊下に生徒たちがたまっていた。ドアの向こうを覗き込んだり、そわそわと何かささやき合ったりしている。

 愛弓は武居の姿を見つけて声を掛けた。

「中、入らないの?」

 武居はあいまいに肩をすくめて見せた。

「うちの教室も今朝、時計が狂ってたらしいんだ」

 愛弓は目を見張った。

「ほんとに? まさか、学校中の時計が狂ってるわけ?」

「それだけじゃないよ」

 武居は床を指差した。

「今朝、先生方が片付けたそうだけど、まだ残ってるだろ、破片」

「破片?」

「宿直の先生が見回ってたら、学校中の蛍光灯が割れてたんだって」

 なるほど。よく見ると、小さな破片がいくつか落ちている。

「昨日の午前中は何ともなかったらしいから、きっとそのあとに……」

「やあね。どうなっちゃってるんだろ、うちの学校。次は殺人事件でも起こるんじゃないでしょうね」

 ふざけて言ったつもりなのに、武居は本気で青くなった。その反応に、愛弓の方が驚いてしまう。

 確かにこのところ、おかしなことが立て続けに起こって、愛弓も少しばかり恐ろしくなっていた。花壇を荒らした犯人と、時計や蛍光灯を壊した犯人は、同じ人物なのだろうか。でも、なぜそんなことをするのだろう。

「愛弓ー、おはようー、久しぶりー」

 クラスメートの真梨恵まりえが声を掛けて来たので、愛弓は歩いて行って自分の席に着いた。

「おはよう、真梨恵」

「ねえ愛弓、聞いた? 蛍光灯と時計の話。ひどいいたずらするよね」

「ほんとね」

「それはそうと」

 真梨恵が愛弓の前の席から身を乗り出した。

大金おおがねくんがさっきから熱い視線を送ってるよ。振り返ってあげたら?」

 大金満男みつおは愛弓にやたらとちょっかいを掛けて来る男子生徒だ。愛弓は無視した。

「あららー。冷たいなー。大金くんは愛弓に夢中なんだから、少しくらい優しくしてあげたっていいじゃない?」

「気を持たせるようなことは出来ないもん」

「そりゃ、あんたには武居くんがいるってわかってるけど」

「だったら言わないでよ」

 大金が近付いて来て、先週パリに行ったお土産だと言ってしつこく渡そうとする紙包みを断りながら、愛弓は考えた。

 ――そうだ。二学期になって愛矢が登校して来たら、みんなにも事情を話さなきゃいけないんだ。

 武居には全部しゃべっちゃったけど、他の人には言いにくいな。部長に言ったみたいに、両親が離婚して別々に育ったってことにするのが一番無難かな。ママは先生に何て説明したんだろう……。


 6


 夜、愛弓が結局受け取ってしまった大金のお土産を開けてみると、中にはエッフェル塔の置物が入っていた。

 大金はあのあとも、しきりに「夏休みは何してるの」だの、「今度家に遊びに行ってもいい?」だのとうるさく話し掛けて来て、いい加減、愛弓はうんざりしていた。それでも、エッフェル塔はきれいだったので、本棚の隅に飾って置いた。


 7


 ――八月十日。

 今日は園芸部の当番の日だ。

 いつものように学校に行き、花壇の手入れをしている時、武居が愛弓にささやいた。

「笛吹。帰り、話があるんだけどいい?」

「いいわよ」

「じゃあ、家まで送るから、その時に」

 うなずいたものの、武居が何を考えているのか、愛弓にはわからなかった。


 8


「なあ笛吹、何だか変だと思わないか?」

 二人で帰る道すがら、武居は愛弓にそう切り出した。

「うん、このところ変なことが起こり過ぎるよね」

 ――花壇のそばで割れた窓ガラス。次にはその花壇が荒らされた。狂っていた時計と、壊されていた蛍光灯――。

「おれさ、気になってたんだけど……」

 武居は遠慮がちに言った。

「何?」

「色んな事件が起こるようになったのって、その、愛矢が来てからじゃないか?」

 思いも寄らない意見に、愛弓は言葉を失った。

「変なことがあるのって、いつも愛矢が学校に来てた日じゃないか。先週、愛矢が花壇にいた時、窓ガラスが割れて……翌日には花壇が荒らされてた。時計が狂ったり、蛍光灯が割れたりした日も、ほら、部長が見掛けたって言ってただろ?」

 愛弓の頭にぼんやりと、あの日愛矢と交わした会話が浮かんで来る。

 ――愛矢、今日何しに来たの?

 ――何のこと?

 ――学校に来てたんでしょ。部長に聞いたわよ。わたしに用事があったの?

 ――ああ。別に大したことじゃないんだ。

 愛矢はそう言ったけれど……。

「おれ、あのあともう一度聞いて回ったんだよ、花壇が荒らされた日のこと」

 武居は目を伏せ、低い声で言葉を続けた。

「そしたら、あの日は科学部が実験のために、朝早く学校に来たんだって。校門のところで私服の女の子とすれ違ったって教えてくれた。うちのクラスの大金満男、あいつも科学部だろ? あいつがあれは笛吹だったって言うんだ。……愛矢だったんじゃないかな」

「そんな……」

「きみはそんな朝早く学校に行ってないだろ?」

「そうだけど……」

 言いよどんでから、愛弓ははっと口に手を当てた。

 今朝、棚に飾ったエッフェル塔の置物が壊れていたことを思い出したのだ。誰かがうっかり落としてしまったのだろうと思ったが、それにしては、まるでものすごい力でねじ曲げたように、真っ二つに折れていた。

 誰かがわざと壊した――? 誰かと言っても、うちには――あの部屋に入れるのは、八重子と、愛矢しかいない……。

「まさか、そんな! 花壇の花を折ったり、蛍光灯を割ったり、そんなことを愛矢が?」

「おれだってそんな風に思いたくないけど。でも、黙ってたけど、愛矢が笛吹の家に初めて来たって日、おれ、あいつをうちの前で見掛けたんだ。ちょうどその時、近くの道路で事故があって」

 愛弓は呆然と宙を見つめた。

「だってそんな……。何でそんなことするの? 愛矢がそんなことするなんて、信じられない!」

 夢中で叫ぶ愛弓に、武居はただ首を振るばかりだ。

「それに、愛矢に出来たはずないわ。花壇や蛍光灯のことはともかく、車を事故に遭わせたり、遠くの窓ガラスを割ったりなんて、普通の人間に出来るわけないじゃないの」

「普通の人間に?」

 武居がつぶやくように言い、向かい合った愛弓の肩越しに彼方を見た。

「そうだよな。普通の人間に出来るわけない……あんなこと」

 武居の指差す方向を、首をねじって愛弓も見た。そして、目を見張った。

 ボールが宙に浮かんでいる。愛弓たちから十メートル、地面から二メートルほど離れた位置に。愛弓も武居も、身じろぎ一つ出来ずにその光景を見つめた。

 しばらくの間、空中に貼り付けたかのようにぴくりともしなかったボールは、不意に揺らいだかと思うと、おぼつかない動きで宙を滑り始めた。二人は吸い寄せられるようにあとを追った。

 ボールはぐんぐん坂を上って行く。その速度は少しずつ増していた。追い掛ける二人の足取りもつられて速くなる。やがて坂がなだらかになると、ボールの歩みは遅くなった。

 坂の上に人影が見えた。逆光で顔をはっきりとらえられなかったが、愛弓にはそれが誰なのかすぐにわかった。

 人影の上でボールは止まり、魂を失ったかのようにその手に落ちた。

「びっくりした?」

 ボールをつかんだ愛矢が言った。

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