Ⅰ 出会い
1
――七月二十七日。
愛弓は重い足取りで、学校に向かっていた。
園芸部に入っているため、夏休みも週に一度、花壇を見に行かなければならないのだ。
「はあー」
思わずため息が出る。別に花の世話が嫌なわけではない。むしろ楽しいし、だからこそ園芸部に入部したわけだし。愛弓が今憂うつな気持ちなのは、数日前、母の
「笛吹!」
校門のところで、武居が愛弓の肩をたたいた。
「あ、武居、おはよう」
「おはよう。……憂うつそうな顔してどうした?」
「憂うつなのよ」
愛弓は答え、またため息をついた。
「何かあったのか?」
「まあね」
「話せよ」
真剣に心配そうな声で武居は言った。
愛弓はちょっと嬉しくて、ちょっとだけ憂うつが晴れたような気がした。心配してくれる人がいるというのはいいものだ。一人で抱え込まなくてすむ。
「こっち、来てくれる?」
愛弓は武居を校舎の裏まで引っ張って行った。
夏休みで
「パパが死んだの」
武居は怪訝そうな顔で愛弓を見返した。
「お父さんて、きみが小さいころに亡くなったんじゃなかったの」
「ええ、ママはそう言ってたわ」
「きみにはお父さんが二人いるの?」
「ばかなこと言わないでよ」
愛弓は思わず笑った。それから、ほんの少し表情を曇らせて続けた。
「ママは嘘をついてたのよ。ほんとはパパ、わたしが大きくなってからもずっと生きてたの。わたしもね、何となくわかってたんだけど、信じてるふりしてたんだ。だってママ、パパの話するの、嫌がってたし」
武居は黙って聞いていた。愛弓の話をじゃまするのは、空気を読めないセミの声だけだ。
「パパはね、わたしが生まれてすぐいなくなっちゃったんだって。どうしてかはわからないんだけど、突然、ね。……その行方知れずのパパが、この間死んだそうなの」
「どうしてわかったの」
「それなのよ!」
愛弓は身を乗り出した。
「一番大事なのは、そこなの!」
詰め寄られて、武居は一歩後ろに下がった。
「わたしに、双子のお姉さんがいるらしいのよ」
2
――七月三十日。
「はあー」
その日は朝から、何度もため息が出た。
今日は双子の姉の、
リビングのソファーで、愛弓はそわそわと時計に目をやった。午後二時十分過ぎ。
「確か三時には着くって話だったよね」
つぶやきながら、もう一度ため息をつく。
「わたしにお姉さんがいるなんて信じられない」
三日前、愛弓は武居にそう言った。
「小さいころからずっと、双子の姉妹ってあこがれだったけど、今になって自分がそうだったなんて言われたって、喜べないし、だいいち信じられないわ」
母には言わなかったけれど、それが愛弓の正直な気持ちだった。
愛弓が小さいころ思い描いていた双子というのは、いつも一緒で、心が通じ合っていて、二人で一人みたいな、自分の分身みたいな存在。そんな感じだった。だから、中学生にもなった今、突然現れた女の子と双子になれるとはとても思えなかったのだ。
「初対面も同然の女の子と、これからずっと一緒に暮らすなんて」
うまくやって行けるのだろうか――そう考えると、知らず知らずのうちに、愛弓はまたため息をついているのだった。
3
――同じころ、武居も自分の部屋でため息をついていた。
同級生の愛弓の打ち明け話は、武居にとってすぐには理解しがたいものだった。
彼女の父親は、十三年前、生まれて間もない双子の姉と共に姿を消してしまったらしい。ほんの短い書き置きを残し、理由すら告げずに。
以来音沙汰もなく、所在もわからないまま十三年が過ぎた。それが先日、母のもとに娘だと名乗る少女から連絡があった。父が死んで行く場所がないので、わたしを引き取って欲しい、と。
おかしな話ではないか? なぜ愛弓の父親は、突然、何も言わずにいなくなったのか。
「ママは、パパに捨てられたんだって考えたのよ。それで捜索願いも出さなかったの」
愛弓はそう言ったが、だとしたら素振りがあっただろうし、手紙にも書き残すだろう。だいいちなぜ娘を一緒に連れて行ったのかわからない。それも、片方だけ。
離婚して、両親が子供を一人ずつ引き取るという話はよく聞くが、それならまず話し合うべきだ。反対されると面倒だとでも思ったのだろうか。黙って姿を消せば、普通は警察沙汰になってもっと面倒だと思うのだが。
それとも、何か他に理由があったのか? 一体どんな理由が……。
あれこれ考えていると、突然すさまじい音が響き渡り、武居は椅子から転がり落ちそうになった。
「――何だろう?」
外でざわざわと騒ぐ声が聞こえる。武居は立ち上がり、窓を開けてみた。
彼の家の前には細い道があり、塀をへだてた向こうに道路が伸びていた。その道路で、一台の乗用車が事故を起こしたらしい。電信柱にぶつかった車に、人が群がっているのが見える。どうやら大事には至っていないようだ。
ほっとして窓を閉めようとした時、ふと塀のこちら側にいる少女に気付いて手が止まった。そして、思わず声を上げそうになった。
「笛吹?」
振り向いたその少女は、愛弓にそっくりだったのだ。違うということはわかるのだが、本当によく似ている。
「まさか……」
呆然と見つめる武居には目もくれず、少女はふいと背を向けて行ってしまった。
4
――午後三時。
玄関のチャイムが鳴った。
「来た」
愛弓はつばを飲み込み、すっくと立ち上がると、走って行ってドアを開けた。
そこに、自分と瓜二つの女の子が立っていた。
5
――八月三日。
花壇を見に行く日だったが、愛弓は寝坊してしまい、だらだらと物思いにふけりながら学校に向かっていた。
四日前、愛矢が来た日を思い出す。
あの日愛弓が玄関で愛矢を迎え、「ママ、愛矢さんが見えたわよ」と、双子の姉に対して他人行儀な言い方で取り次いだ時、母の八重子は二階から、疲れた顔をして下りて来た。八重子は小説家で、締め切りが迫っているため、このところ徹夜続きなのだった。
八重子は愛矢を一目見るなり黙り込み、何も言おうとしなかったので、愛弓がその場を仕切ることになった――。
――考えているうちに学校に着いてしまい、愛弓は我に返った。水やりをしていた武居がすぐに飛んで来た。
「あれ、どうした?」と、武居は聞いた。
もちろん、愛弓には何のことかわかる。でも、そんな言い方ってないと思う。武居も同じように感じたのか、もうひとこと付け足した。
「お姉さん、どんな人だった?」
「びっくりしたわ。ほんとにわたしにそっくりなんだもん」
「初対面の印象はどうだったの」
「うん……」
愛弓はわずかに上を向いて思い返した。
愛矢は無口だったが、常ににこにこしていたので暗い感じはしなかった。こちらに好意を持って接しているのが伝わって来た。悪い子ではないだろう。黙ったままの八重子にも気を使っていたし、むしろ……。
「いい子……だと思う」
武居が心配そうに愛弓を見た。
「仲良くなれそう?」
「まだわかんない。でも、何とか頑張ってみるつもりよ」
愛弓は声をひそめた。
「実は今日、愛矢も学校に来てるの。ママと一緒に」
「あ、転校の手続き?」
「そう。二学期から愛矢、この中学に通うから」
愛弓がそう言った時、校舎の陰から愛矢が顔を覗かせた。
「愛弓ちゃん」
静かな声で呼び掛け、そのままそこに立って二人を見つめている。ためらうような、それでいて意思の強そうな鋭いまなざし。口元にはほんのりと笑みを浮かべていた。
「あ――じゃ、あとで」
武居が手を振って離れて行く。
代わりに愛矢が近付いて来て聞いた。
「あの人、誰?」
「武居優介。同じクラスで、同じクラブなの」
「愛弓ちゃんのボーイフレンド?」
「まあね」
ふうん、と愛矢は言った。彼女はまだ武居の去った方に視線を向けている。横顔は微笑んでおり、心の内が計り知れない。居心地が悪くなった愛弓は話題を変えた。
「転校の手続きは済んだの?」
「うん。母さんはまだ先生と話してるけど」
「わたし、これから部活なの」
「部活?」
「園芸部。花壇の世話をするのよ」
「じゃあ、見てる」
ああ、まだぎこちないな、と愛弓は思った。でもそのうち慣れるだろう。他人ではない、何と言っても双子の姉妹なのだから。
愛弓は用具入れからシャベルと軍手を出し、武居のところへ行って作業を始めた。その後ろで、突然、威勢のいい声が響いた。
「やあ、相変わらず仲がいいね、お二人さん!」
部長の
「部長も相変わらず元気ですね」
いつものことなので驚きもせず、武居が冷静に言い返した。
「まあね。おれはいつでも元気はつらつさ」
古藤はわざとらしくポーズを取って見せた。この先輩は、本当にいつも(無駄に)元気なのだ。
「部長、今日は当番の日じゃないですよね。確か昨日も来てたって聞きましたけど」
愛弓は呆れ声で言ってやった。
「昨日もおとといもその前も来たよ」
「毎日来てるんですか?」
「そりゃあ、部長だからな」
古藤は肩まである長い髪をかき上げた。
「花壇の花たちがおれを待ってるんだ。来ないわけにいかないだろう?」
「はあ……」
「ところで、あの木の下に立ってる、もう一人の愛弓くんは誰だい?」
「あ、えっと、わたしのお姉さんなんです」
不意をつかれて、愛弓は口ごもった。
「へえ。お姉さんがある日突然、成長した姿でこの世に現れるものだったとは知らなかったなあ」
あくまで明るく古藤は言った。
「違いますってば。別々に育っただけで、ちゃんとわたしより先に生まれてるんです」
「別々に育ったって、両親が離婚したかなんかで?」
この際そういうことにしちゃえと思い、愛弓はうなずいた。
「この間うちに引き取ったんです。パパが死んだから」
「へえ、お父さんが……」
古藤が紹介しろと言うので、愛弓は彼を愛矢のそばまで連れて行った。
愛矢は古藤をうさんくさそうに見上げたあと、愛弓に視線を移して聞いた。
「この人は誰?」
「園芸部の部長よ。二年の古藤拓斗先輩」
「よろしく」
古藤は愛矢に手を差し出した。
最初はためらっていた愛矢だったが、やがておずおずと手を伸ばし、古藤の手を握った。
その時だった。
背後の校舎の窓ガラスが、音を立てて割れた。
「え? やだ、どうして割れたの? 何もしてないのに!」
愛弓は口に手を当てて叫んだ。
誰も答えなかった。一瞬の沈黙のあと、愛矢が無言で歩み寄り、落ちた破片を拾い始めた。
「あ、おれがやるよ」
武居が愛矢の脇に膝を突いた。
「きみ、素手だろ。危ないから」
愛弓も近付いて手伝いながら、首を伸ばして窓の向こうを覗いてみた。中の廊下は無人で、コトリとも音がしない。そちらにも破片が散っているのが見えたので、みんなで校舎の中に入って片付けた。
鍵を開けてくれた先生も、不思議な割れ方したわね、と首をひねっていた。
「誰かがいたずらしたのかしら。危ないわね、ほんとに」
割れてひびの入った窓が太陽を反射して、これから起きる何かを予期するように、鋭く、怪しく光っていた。
6
その日の夜、八重子が言った。
「ごめんね、愛弓。ママ、愛矢とうまくやって行けそうにない」
愛弓はびっくりして八重子を見た。
「あの子はパパに似過ぎてる。わたしを捨てた、あの人に」
八重子はそう言って顔を覆った。
母が愛矢と目を合わそうとしないことは知っていた。けれど愛弓は愛矢と初めて会った時、そこに鏡があるのかと一瞬錯覚するくらい、彼女が自分に似ていると思った。八重子は愛矢と父が似ていると言う。だったらわたしとパパだって、似てるんじゃないの?
――パパは一体、どんな人だったんだろう。
今までまったく気にしていなかった、気にする余裕もなかったことが急に気になり始め、愛弓は電気も点けずにのろのろと二階へ上がって行った。
部屋に入ると、二つ並べて敷いた布団の前に、愛矢が座ってこちらを見ていた。そして、小さな声でつぶやいた。
「母さんは、わたしが嫌いなんだね」
愛弓は何と答えていいかわからず、ただ立っていた。
愛矢は目をそらすようにうつむいた。
「父さんを恨んでいるのかな」
やはり答えが見つからず、愛弓は逆に尋ねた。
「……パパって、どんな人だったの?」
愛矢はかすかに首を傾げた。
「言葉では説明出来ないような人」
それ以上聞くのは気が引けたので、愛弓は黙って愛矢の隣に腰を下ろした。
しばらく沈黙が続いたあと、愛矢がぽつりと言った。
「一つだけ、父さんがいつもわたしに言っていたことがある」
「どんなこと?」
「いつも笑っていなさいって。何があっても、笑顔を忘れちゃいけないって……」
愛弓は愛矢の手をそっと握った。愛矢も愛弓の手を握り返した。あたたかな手だった。
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