第10話 ダイアナ妃も目覚めるほどの…

 ナターシャが歌を歌っていた。異国の言葉で歌っているので、意味はわからない。それなのに思わず聴き入ってしまう。素朴で心に訴えかけてくる節回しである。


「お嬢さま!いつから起きてたんです?ずっと起きてて、何も言わなかったんですか?」

 ナターシャがギョッとして叫んだ。


「今起きたばっかりよ。ちょっと待って。どこ行っちゃうの?」


 侍女は説明もコップ一杯の水もなしに、廊下に出ていってしまう。


 私は宮廷のテラスのある部屋で寝ていた。病院で寝ていたときよりも、痛みは感じない。頭もはっきりしていた。


「クリステン」

 エドワードが室内でに入ってきた。髪は乱れ、頬には無精髭ぶしょうひげが生えている。少しやつれた顔をしていた。

「大丈夫だったかい?君が落馬するなんて……。乗馬の名人なのに」


「廊下で待っていてくださったんですね」

 そう言って微笑もうとする。


「ああ。心配していたよりも元気そうだ」

 彼がホッとした顔を見せた。


「ええ、平気です。起きるまで待っていてくださるなんて、優しい方ね。そんなの、私には値しないことなのに……。

 あなたにしたことを申し訳なく思っているんです。バカで残酷でした。あなたは立派で尊敬に値する方だったのに、真逆のことをしたんですから……」


 エドワードはうつむいて、黙っていた。深く考え込むように、血管の浮き出た手の甲を見つめている。


「昔のことは水に流そう。考えてたんだ。僕たちなら夫婦として上手くやっていける。熱烈に愛するなんてことはない。でも、いがみ合うことなく、友達として協力していくことはできるはずだ」


「そうですね」

 相槌をうった。


「結婚する前に契約を結ぼう」


「契約ですか」

 びっくりして変な声が出てしまった。


 彼の言う契約内容もまた、驚きの連続だったが。


 結婚後、エドワードはクリステンに自由に管理してよい領地と財産、使用人を譲渡じょうとする。跡継あとつぎをもうけた後は—つまり、私がエドワードとの間に男の子を産んだ後は!—、夫婦の寝室は分ける。愛人—きっと、デズモンドのことだ—をつくってよいので、自分とレベッカの関係を大目にみてほしい、云々うんぬん


 唖然あぜんとした。仰天ぎょうてんしてしまった。こんな契約内容、ダイアナ妃だって永眠から目覚めて、ハイヒールのまま、エッフェル塔を登り出してしまう!ワイルドかつ、恐ろしく冷酷で、侮辱的なものだ。


 私に、と言うよりもクリステンに、もんくを言う筋合いがないのはわかっている。散々、好き勝手してきたのはこちらの方だ。浮気女に王太子の財産を譲渡してくれるなんて、寛大だし。


 でも、愛人なんてほしくなかった!この世界の結婚っておかしい。

 エドワードに、クリステンと一緒にいてほしくない。彼女と寝てほしくなかった。


「エドワード、テラスへの扉を開けて」

 私がかわいた声でお願いする。


 あと少しで喉がつまって、声が出なくなりそうだ。


 濃い紫。花の強い香り。ラベンダーが庭園の一面に咲いている。強烈な美しさだった。紫の中で迷って、取り込まれてしまいそうなほど……


「親切な内容に申し訳ないけれど、契約に返事はできません。ダメなんです。あなたがレベッカと……」

 声がかすれて、顔をそむけた。


「なぜなんだ?君は僕を裏切ってデズモンドと寝たのに。今度は僕を束縛するのか?」

 エドワードは静かに怒っている。


「ごめんなさい。できないんです。ああ、デズモンドがなんだって言うんです?」


 私たちはうまくいかなかった。エドワードの提示した条件を断ったので、宮廷には居場所がない。


 兄やキティのもとへ行こう。チェスターに王太子との婚約を解消してもらわないと。私には、エドワードを束縛する権利などないのだから。

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