第9話 灰色の病室

 病院のツンとする匂いがした。アルコール除菌の匂い。頭の下にはかたい枕。開いたドアから廊下を行き来する看護師たちが見える。


 きっと夢を見ていたのだ。まったく知らない世界の、まったく知らない女の人になる夢。そこで、エドワードという人を好きになった。でも、彼は振り向いてはくれなかった……


 静かな、灰色の病室にいた。白いベッドの脇に青年が顔を突っ伏して寝ている。


 坂上だ。大学時代からの友だちの坂上ゆうま。彼は小説家で、忙しいはずなのに。

 でも、彼を見ていると、なつかしいような、優しい気持ちになった。


 身じろぎすると、坂上がブルっと頭を震わせて起きた。


「りこ!起きたんだね」

 彼がちょっと目を輝かせて言う。


「ゆうま、私、変な夢を見ていた。エドワードとかいう人と婚約しているの。それに、デズモンドっていう赤い目の、邪悪な感じの人が彼を裏切るように言ってくるの」


 夢にしては、あまりに生々しくて、現実っぽかった。もしかしたら、この世界の方が夢なのだろうか?


 何が起きたのかわからない。思い出そうとすると、胸がズキズキと痛む。どうして病室のベッドの上で寝ているのか。どうして頭は霧がかかったようなのか。どうして、体が思うように動かせないのか。


 いきなり女の人が病室に飛び込んできた。ヒステリックに何か喚き立てている。若い女の人だ。いたんだ茶髪。ファンデーションが浮いて、肌に粉がふいている。黒く短い眉は髪の色に合っていない。


「あんたが谷田りこでしょ!よくも夫をはめたね!刑務所なんかいれて、この汚い泥棒猫!」

 女の人が叫んでいる。


 言葉がナイフのようにグサリ、グサリと刺さった。


 ああ、尾崎のことを言ってるのだ。私は不倫をしていた。この人は尾崎の奥さん。


 でも、尾崎が刑務所なんて変なの。


「落ち着いてください、りこは病人ですから」

 ゆうまが今すぐ襲いかかってきそうな尾崎の妻を取り押さえて言った。


 すぐに病院のスタッフがやってきて、尾崎の妻をどこかに連れていってくれた。


「気にするなよ。りこは悪くないから」

 ゆうまが言う。

「りこの彼氏がビルの上から突き落としたんだ。あの奥さんに知られるのが、どうしても嫌だったらしいね」


 彼は苦々しげな顔をして窓の外を見ていた。曇り空を背景にガラス張りのビルが立ち並んでいる。


「私、生きてるんだね」

 他にどう言っていいかわからなくて、弱々しく微笑んだ。


 そうか。私、不倫していたんだ。不倫なんて絶対にしないと思っていたのに。信頼していた人に、殺されかけたんだ。まだ、さっきの女の人に殺されたほうがましだったのに。


 心が粉々にくだけてしまったような気がした。


 灰色の、静かな病室。消毒液の匂い。ガラス窓にくもり空。ゆうまの懐かしい顔。


「なんか欲しいものある?今から売店に行くけど」

 ゆうまがやわらかな声できいた。


 知らずに不倫相手になっていた上に、恋人に殺されかけた私を、気の毒に思っているのだろうか。バカで、不幸な私。


 でもなぜだろう、ずっと彼のやわらかな声を探し求めていたような気がする。遠い夏の日の、夕暮れのように優しい声を。


「みかんゼリーがほしい」


 みかんゼリーは素朴な、優しい味なのだ。夢を見ている間、みかんゼリーなんて一度も食べられなかった。


 ゆうまが病室を出てゆく。私は一人になった。目がまわる。激しい眠気がおそってきた。ベッドがとけて、やわらかな底へと、永遠に落下し続けるような気分。

 それでも、すぐに底へつくはずだ。そうして、再びエドワードに会いに行く……

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