第4話 ルシファーの目
ナターシャに正体が知れたからと言って、どうということもなかった。こき使わないことを条件に、貴族の世界のことを教えてくれることになったのだ。かえって、やりやすくなったくらい。だって新しい世界では知らないことだらけなのだ。
「私の婚約者ってどんな人かしら?好色な赤ら顔のおじさんとか?10歳の子どもじゃないわよね?」
侍女と二人で、ベッドのシーツの直しながらきく。
ナターシャは呆れ顔になって、シーツを乱暴に引き伸ばした。
「王太子殿下ですよ。年頃の娘なら誰だって結婚を夢見るはずです。
「肖像画かなんかないかしら。それかペンダントに入れて持ち歩くやつ」
いよいよ好奇心を抑えられなくなって聞く。
「ロケットに細密画をつけたのならありました」
ナターシャはそれからちょっと言いよどんだ。
「お嬢さまがある日いきなり捨ててしまったんです。どっちにしたって、明日の夜の舞踏会で会えますし」
クリステンもどうしてロケットを捨ててしまったんだろう?婚約者の顔の描かれたものを、ふつうなら捨てないはずだ。
舞踏会は大広間で盛大にもよおされた。何百人もの着飾った人たちが、シャンパンをのみ、食べ、ダンスしている。壁際のテーブルに用意された食事は並はずれたものだった。淡いピンクの砂糖菓子に、豚の丸焼き、カラフルな
「レディーはケーキにガツガツと食らいついたりしません」
すみれの花のケーキに手を伸ばしたら、ナターシャに水をさされてしまった。
「シャンパンは?」
「ダメです、絶対に!お嬢さまはお酒に弱いんですから」
ナターシャが耳元でささやく。
「おしゃべりは?」
ちょうど近くに令嬢たちが集まって、親しげに話していた。その内の一人の、赤い扇をもった令嬢と目が合う。露骨にいやな顔をされた。
憎悪のたぎった目に、身がすくむような思いをする。それにしても目が合うだけであんな顔するなんて性格悪いなぁ。
「だめですよ。嫌われてるんですから」
ナターシャが言った。
無情な真実だった。どうやら性格が悪いのはクリステンの方らしい。
「ダンスなんかどうです?ほら、ちょうど誘いにいらっしゃいましたよ」
ナターシャの言う通り、青年がフロアを突っ切って、まっすぐこちらにやってくる。
頭が真っ白になった。ダンスなんか踊れない。習ったこともなかった。学校の体育の授業でフォークダンスを踊ったこともあったけれど、とにかくひどい
今夜だって踊れば、ひどい失態をやらかすだろう。
だがナターシャは聴く耳をもたなかったし、もう手遅れだった。知らないうちにダンスの誘いを承諾し、ワルツを踊っていたのだ。
私は踊っていた。体は考えるよりも先に動き、足が勝手にステップを踏んでいる。奇跡が起こった。私が踊っているのだ!50メートル走で転んで大泣きし、クラスの前で歌う音楽のテストに震え上がっていたあの私が!
「ダンスが上手なんですね。まるで飛んでるみたいだ」
青年が気持ちのいい笑顔を浮かべて、賛辞の言葉を口にした。
「相手の方のリードが上手ですから」
にっこりと微笑んで言う。
青年は私の体を軽々と持ち上げた。本当に飛んでるみたいだ!ヒールのついた靴をはいてるのも嘘みたい。ダンスがこんなにも楽しいなんて考えてもみなかった。
大広間の中をクルクルと回って踊り続ける。
ところで私の着ているドレスだって素晴らしかった。濃紺のベルベットの布地に、何百、何千もの小さなダイヤモンドが散りばめられている。四角い形の襟が大胆に開いているのが、ちょっと恥ずかしかった。でもクリステンなら似合う。白く透き通るような肌に、みずみずしく豊かな胸。上品にさえ見えた。
パートナーの後ろに、こちらをじっと見つめている目があった。広間の隅に立っている、黒ずくめの男だ。誰かと話すわけでもなく、ただそこに立っている。
心がざわめいた。あの赤い目!
なんだかゾッとした。たしかに彼はハンサムだった。
でも、あの目には宿命的な何かがある。破滅へと導くような何かが。しかも、なんだか見覚えのある目なのだ。
カバネルの絵画「堕天使」を思い出した。聖書に出てくる堕天使を描いた作品である。彼の目はその堕天使にそっくりだったのだ。
「あの方の名前はなんて言うんですの、あの、黒ずくめのハンサムな方」
青年に聞いてみた。
「ああ、デズモンド・ダンカレルという方ですよ。国王のお気に入りの家臣ですが、噂にも事欠かない。気になったのですか?」
「ずっとこちらを見ているような気がして」
青年に断りをいれて、大広間を去り、庭園に出た。あの、堕天使のルシファーの目から逃れたかったのだ。
月明かりのした、迷路のように入り組んだ庭園で、誰かが追ってきてるのがわかった。こちらが足を速めれば、背後の足音も速くなる。
最後は走るような速さになった。怖くて後ろを振り返る勇気もない。
ついに行き止まりになった。もう逃げ道はない。
振り返った。あの黒ずくめの男、ルシファーだ。
「私を追っているようですけれど、何のようです?」
鋭い声でたずねる。
「なんのようかと?姫君、とぼけるつもりですか?あなただって望んでいらっしゃるくせに」
彼はそう言って強引にキスしてきた。熱情的なキスだ。離れようとするけれど、冷たい、ゴツゴツとした手が首の後ろにのびてきて、逃れられない。
「やめてください!離して!あなた何か誤解してらっしゃるんです!」
ほとんど恐怖で気が狂いそうになりながら叫んだ。
「今夜、今夜ですよ、きっと」
キスの
「ダンカレル殿!」
背後から鋭い声が飛んできた。
デスモンド・ダンカレルの体が離れた。向かい側に金髪の男が立っている。
「嫌がっていますよ」
ダンカレルは嘲るような笑みを浮かべると、一礼して場を去った。
金髪の青年がこちらに向き合う。顔に失望と怒りが浮かんだ。私にお礼を言う暇も与えずに、青年は行ってしまった。
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