第3話 マリー・アントワネットよりも…

 馬車はゴトゴトと道を進んでいった。窓の外にはのどかな田園風景が広がっている。青い山並みに、くわで畑を耕す農民、春先のひんやりとした雪解け水が流れる小川。

 何もかもがきれい。まるで絵画の一部を切り取ったみたい!


 素晴らしい旅だった。ただ、十日間一回もお風呂に入れないのは難点だけれど。


 前なら、谷田りこなら、どんなに疲れていても毎日お風呂に入っていたのに。だいたいクリステン・エスティアーナは自宅にいても毎日お風呂に入らないのだ。せいぜい三日に一度の頻度。

 毎日入浴していた谷田りこは、マリー・アントワネットよりも豊かな生活をしていたということかしら、なんて冗談かんがえながら……


 旅の間、ナターシャは馬車の向かいに座って、探るようにこちらを見てくる。なんだか不安になった。ナターシャは皮肉屋でキレてばかりいる。もしかしたら、また私が逃げ出そうとする、と疑っているのかもしれない。でも、逃げ出したのはクリステンで、私ではないのに……。それとも次言う皮肉を考えているだけかな。


 とにかく、そんなふうに眉間みけんにしわを寄せて睨んでこられると怖い。

 気まずいので空咳をして窓の外を見た。



 宮廷には真夜中に着いた。洒落しゃれたアーチの門をくぐり、生け垣の小道を進んでゆく。

 門をくぐってから屋根のある場所に着くまでが長いので、その間に眠ってしまった。宮廷は途方もなく広いらしい。


 気がついたらベッドの上にいた。上には天蓋てんがい。白いシルクの金刺繍つきのカーテンが風に揺れている。


 扉が開いていたのでテラスに出た。噴水に生け垣、ピンクのチューリップ畑。パステルカラーのドレスを着た恋人たちが笑い声をあげながら、小道を歩いている。


 庭はどこまでも続いていた。雲一つない青空が果てしなく広がっている。


 私は立派な庭園に圧倒されて、言葉を失っていた。マリー・アントワネットも嫁入りして初めてヴェルサイユ宮殿に来たとき、同じような感動を覚えただろうか。


 王太子の婚約者になるということは、いずれこの宮殿の女主人になるということだ。信じられない。チューリップのかわりにドクダミだらけの庭にしてもいい。生け垣を根こそぎとって氷の彫刻を置いてもいい。庭で大がかりな鬼ごっこをしてもいい。それって夢みたいだ!


 それにしても、私の婚約者ってどんな人だろう?髪の毛はちゃんとあるかしら?肥満体?怒りん坊?イケメンな上にイクメン?アルプスの上の万年雪も解けるくらい情熱的にロマンチックな人?


 ああ、髪の毛がちゃんとあって会話ができればいい!でも、クリステンの父親みたいにアル中のDV男はダメ。それに尾崎みたいに妻子持ちも……


「お嬢さま」

 ナターシャの声がした。

「お風呂の用意が整いましたよ」


「お風呂ですって?ありがとう!やっと入れるのね。それにこんなに気持ちのいい朝に!」

 満面の笑みを浮かべて言った。


 ナターシャが皮肉な顔をする。


 寝室に戻って浴室に入ると、宮殿の使用人たちがバスタブに桶でお湯を運んでいた。ナターシャが私のドレスを脱がそうと、衣裳の紐に手をかける。この子、見ず知らずの人たちの前で私をすっぽっぽんにするつもりなんだ!


「ねえナターシャ、着替えはもうちょっと待ちましょうよ」

 慌ててナターシャから離れて言う。


「何言うんですか?時間が押してるんですよ。今日はお昼になる前に国王陛下と王妃殿下に到着の挨拶をしなければなりません。お嬢さまの気まぐれに付き合っている暇はありませんわ」


「いいえ、ダメよ!あの人たちが出ていったら脱ぐんだから」


 着替えの攻防戦はお湯くみの使用人が浴室を出ていくまで続いた。はたから見たら、二人だけの鬼ごっこをしているみたいだっただろう。


「ハハァ!」

 ナターシャは私をじっと見つめてからそう言って、勝ち誇ったような顔をした。

「ハハァ!」

 大声でそう繰り返して。


 なんだかマズい展開になったような気がした。


「さてはお嬢さま、あなたはお嬢さまじゃありませんね。ここ数日、おかしいなぁって思っていたんですよ。お嬢さまはね、自分の非でも絶対に謝らないし、お風呂を用意したくらいでお礼は言いません。それなのに、あなたときたら、私がちょっと皮肉を言っただけで気まずそうに謝ってくるんですからね。それに使用人の前で裸になるのを気にするなんて、由緒高い貴族の女性がすることではありませんよ。彼女たち、どうしてか使用人の前でなら素っ裸になってもかまわない、と思ってるんですからね。まったく、貴族のモラルって狂ってますわ」


 ナターシャに正体がバレてしまったのだ!

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