第4話【初恋】
太陽の光が広い窓から射し込み、貧相な印象を抱かせる家の中を明るく照らす様が、のどかな風景を作り上げている。
「アル、アル起きて」
部屋の片隅にある広いベッドに大男が大の字で寝ている様子を、レオは怪訝な表情で見つめていた。
ぐっすり寝入って起きる気配のないアルに対してどうしたものかと思いながら、レオはとりあえず掛け布団を引っ張り上げてアルから布団を引き剥がそうと試みた。
「ほら、朝ごはん食べたいって言ったのは君の方なんだからちゃんと起きてよ」
掛け布団がゆさゆさと揺すられる感触で目が覚めたアルは、ほわんとした意識の中でうっすらと目蓋を開く。
目を開けてから最初に視界に飛び込んできたのは、朝の日差しを背景に、キラキラと輝く紫暗の瞳と端整な白い
そのあまりの顔の美しさを目の当たりにし、起きたてでまだ夢見心地だったアルは幸せそうな笑顔を浮かべる。その表情はまるで、極楽そのもの。
「……天使? って事はここは天国かぁ……」
「何馬鹿な事言ってるのさ。いい加減にしないと布団無理やり剥がすよ」
「剥ぐなら服も剥いでくださ~い……んで俺を襲ってくださ~い……」
「もう、この子は……」
まだ寝ぼけているのか若干支離滅裂な事を言い出すアルに対し、レオは困ったかのように眉尻を下げる。
ここは勢いが大切だ、と渾身の力を込めて無理やり布団を引き剥がそうとしてみるが、いかんせんアルの握力が強すぎて布団はびくともしなかった。
「つ、つよっ……! なにこれもうほぼ岩じゃん!」
同じ男であるのに、こうも力においての差が凄まじい事に、レオは心の中でほんの少しだけショックを受けた。
岩のように動かない布団に「むぅ」と可愛らしい声を漏らしながら、レオが拗ねたように膨れっ面をする。そんなレオの髪の毛に、突如としてアルの太く逞しい指がそっと絡み付いてきた。
少しばかり驚きつつ、害はないだろうと判断したレオがそのままにしていると、アルは寝ぼけ眼はそのままにレオの髪の束をそっと摘まむ。
そして今度は触り心地を確かめるためにすり、すり、と若干色っぽい手癖で堪能し出した。
「うう~。レオさんの髪の毛、めちゃくちゃ綺麗な銀色でサラサラで触り心地最高だしなんか良い匂いするしもう最高……一房貰っちゃダメですか?」
突如として犯罪変態野郎と化したアルに対し、レオは呆れを存分に含んだジトっと湿気った視線を向ける。
「そんな変態っぽい事言ってくる人に提供する朝ごはんはありません」
「ごめんなさい何でもないですいい子にしますお許しください」
レオが迫力のある低音でそう叱れば、アルはすぐさまレオの髪から手を離して土下座張りの勢いで謝り倒してきた。
ふざけているのかとも思ったが、存外真剣そうに謝っている。
はぁ、と再びため息をついたレオは、無言の許しとばかりにベッドから離れると、その足でそのままてきぱきと朝食の用意をし始めた。
今日のメニューは大好評である鶏肉のスープにパン、市場から購入してきた新鮮な白身魚のレモンバターソテー、屋台で購入してきた色とりどりの野菜のサラダ。大食いなアルのために、レオは一足早く起床し朝から大量に食材を仕込んでいたのだ。
手際よく切ってあった野菜を皿に盛り付け、あらかじめソテーしておいた白身魚にバターソースを滴し、スープをカップに注ぎ、カトラリーなどをテーブルに並べていくその様はまるで新婚の初々しい新妻のようである。
一方、起きたててでまだ眠気が抜けきれないアルは、よたよたとベッドから出ると中央にある少し古めのテーブルと椅子にドサっと勢いよく腰掛けた。
キッチンでてきぱきと食事の用意をするレオの後ろ姿をぽやんと見やっていると、ふと昨日から気になっていた事を素直に口にしてみる事にした。
「レオさんちのベッドって、めちゃくちゃ広くて布団もフカフカですよねー。家は正直ビンボー臭いのに」
「君、案外失礼な
そう。レオの家は、お世辞にも住み心地が良さそうだとは言えない。
しっかり毎日ホウキや雑巾で床を綺麗にし、棚の上などにホコリが溜まらないよう高頻度で叩き棒での掃除も行っている。物も少ないので、一見綺麗には見えるのかもしれないが、家自体がとにかく古めでガタが来ている所が何ヵ所もあるのだ。
雨漏りや床の浸水なんかしょっちゅうである。それに加えてあまり広さもなく、ベッドと古びたテーブルと椅子、小さな棚と貧相なキッチンがギリギリ詰め込まれているといった感じだ。やはり住みやすそうとはいかないだろう。
しかし、なぜかベッドの質だけは異様に高い。アルがここにしばらくいる事になったはいいが客人の布団なぞこの家にあるわけがなかったので、昨晩からアルはレオと一緒にこのダブルサイズのベッドで互いに距離を少し取りながら一緒に眠りについたのだ。
無論、その晩のアルは「好きな人と一緒のベッドに入っている」という状況に耐えなければいけないため、理性をフル稼働させて欲求を押さえていた結果、入眠できたのが明け方近くなってしまったのだった。その際、異様に寝心地が良かった事に多少の疑問を抱いたのもまた事実だ。
一方、忖度などまったくないといった具合に素直に感想を述べるアルを見つつ、レオは苦笑を浮かべた。
そして、少しばかりの悪戯心が働き、先ほどとは打って変わってニヒルな笑みを浮かべながらあっけらかんと語り出した。
「そのベッドね、僕が客と寝るために村長がわざわざ特注したやつなんだ。屋敷から追い出された時も、「うちには必要ないから」って言って押し付けられたんたけど、今でも案外役に立ってて助かってるよ」
レオのその言葉に、アルの中にあった眠気がすべて吹っ飛んでいった。
まさか、さっきまで己が寝ていたあのベッドは、過去にレオが不特定多数の男たちに抱かれるために使用してきた物だという事なのか。
そしてその過去は、レオにとっては確実に忌々しい思い出として頭に刻み込まれているに違いない。
その思い出を、レオには引き摺らないで欲しかったのに。
「……すみません。俺、すっげー嫌な奴になっちゃった」
真剣な表情を浮かべながらアルがそう呟けば、レオは困ったかのような表情で手を軽く横に降る。
「ああ、別に責めてるわけじゃないんだ。こっちこそごめんね。それよりもほら、朝ごはん冷めちゃうから食べよう」
そんな会話をしているうちに、どうやら朝食の準備が完璧にできていたようだ。
健康的な食事がズラッと並ぶその光景に、アルの口の端からは唾液がこぼれ落ちた。
空腹には勝てず、気がつけばテーブルの上にある食事を丸のみにする勢いでかぶりついていた。
「うんめぇー! やっぱレオさん本当に料理上手っすよね!」
「ふふ、君の食べっぷりがよくて僕も嬉しいよ」
次々と胃袋に納められていく食材たちに苦笑しながらも、レオはふと真剣さを帯びた表情を浮かべ、棚の上に置いてある麻の布でできた袋をじっと見つめた。袋の中には、大量の金貨や銀貨、銅貨がぎっちりと詰め込まれている。ざっと見ただけでも、向こう数ヶ月は遊んで暮らしていける程の金額になる。
「にしても、こんなに生活費貰ってもいいの? さすがに多すぎる気がするんだけど……」
「いいんですいいんです! 前にも言ったけど、俺高難易度のクエストばんばんこなしてたんで、金だけはめちゃくちゃあるんですよ! それにもう結婚したも同然なんだから財布は共用の方がいいって!」
そう。この金はすべて、アルが旅の途中、様々な任務をこなして稼いできた物だ。
苦労して稼いできたであろうその金を、いとも容易くレオに預けてしまえるなど、普通の思考回路を持つ者であればありえない事だ。
それもすべて「結婚したい」というアルの我が儘でこうなってしまったという事に、レオはクスリと笑みを溢した。
「何回も言うけど、君のお嫁さんになったつもりは全然ないからね。でも助かるよ、正直食べていくのもやっとなくらいにお金がなかったんだ。ありがとう」
身体を売るだけでは、生きていくだけの金を稼ぐのは苦労する。ましてやレオは異質だと気味悪がられてきた分、食いついて来るのは物好きな一部の男たちのみだ。
久しぶりに少しだけ贅沢ができるとふわっとした笑みを浮かべるレオに対し、アルは思わず目頭を押さえて溢れ出しそうになる涙を堪えた。
この儚い美しい人を、自身が守っていかねばと心の中で強く決断する。
それにしても人間、心から尊いと思っている物と対面すると、情緒がおかしくなるのは何故なのか。
「……俺が絶対一生養っていくぅ……」
「君、情緒不安定だね」
ズバっと切り去っていくレオの鋭い突っ込みに、アルは目頭を押さえていた手をそっと離した。
好きな人から不安定な男だと思われたくない。その一心で何とか平常心を取り戻しつつ、緩んでいた表情筋を引き締めるため顔をモゴモゴとさせていたら、ふとレオが「そういえば」とぽそっと呟き出した。
「僕、この村から出た事がないからクエストってどんな物なのかよくわかってないんだけど、具体的にどんな事をしてきたの?」
暗紫の瞳にキラキラと光が宿り、いかにも興味津々ですといった具合にレオが少し身を乗り出して聞いてきた。
まるで冒険物語を聞かせてもらう無垢な少年のようなその姿にますます恋情を募らせたアルは、再び緩み出した表情筋はそのままに首を傾げながら唸る。
「うーん……脱走した飼い猫の捕獲やら指名手配犯の捕縛やら色んなのがあったけど、やっぱ魔物の討伐が圧倒的に稼げましたね。それも、村一個を一体で破壊できるくらいの力を持ったデカくて強い奴らの討伐クエストを積極的に受けて報酬稼ぎまくってました。ギルド内でも「命知らずの暴れん坊」なんてあだ名までもらっちゃってたし」
ギルド(※依頼者からのクエストを一括で受け付けている機関。クエストを受け、報酬を得たい者は戦士としての実技試験をクリアした後、このギルドに登録をしなければいけない)で承っているクエストは、それこそ難易度に雲泥の差がある。
飼い猫や迷子の子供の捜索のような物もあれば、強大な魔力を携えて殺戮を繰り返す魔物の討伐まで様々だ。
魔力を持つ者の中でも最上級であろう自然を司る神に挑む力をつけるため、アルは自ら過酷なクエストに挑んできた。それこそあまりにも強い魔物相手にはさすがに命が危ぶまれた事も何度もあるが、それすらもアルにとっては通過点に過ぎなかった。あれらの経験を経て、今の自分があると思えば何だかんだと悪い思い出ではなくなっている事に、時が経った実感が湧く。
物騒な内容に反して穏やかで懐かしさを携えた表情を浮かべるアルに対し、レオは慈しむような優しい色を瞳に乗せる。
「……君は本当に努力してきたんだね」
ぽつり。か細くも慈愛に満ちたかのようなその透き通る声に、アルの瞳にはうっすらと水の幕が貼った。嫋やかなその声に、今は亡き母親の面影を自然と重ねてしまうのを止められそうにない。
「……そうっすね。水の龍を倒す力をつけるために、めちゃくちゃ頑張ってきました。家にあった貯金全部と、剣士だった親父の形見の大剣を持って十歳でこの村を出てからは、一人でふらふら放浪しつつ、旅先で出会った強い剣士たちに頼み込んで剣術や体術を教えてもらったり、たまに飯食わしてもらったり。んで、ある程度力がついた所でギルドに剣士として登録をして、クエストを受けて……そうやって修行やら実践やらを重ねた結果が今の俺って感じです。だから俺、各地にお師匠さんがめっちゃいっぱいいるんですよ! もうシゴかれすぎてそこら辺の強面のオッサン見ただけで震え上がりそうだわ」
涙目になってしまった事を誤魔化すかのようにアルが元気にそう語れば、先ほどまで凪いだ表情で話を聞いていたレオが堪えきれないかのようにクスっと笑い声を漏らす。
「ふふっ……」
実際、今までの過酷すぎる修行の時を思い出しながら思わず青ざめぶるっと身震いをするアルだったが、花が咲いたかのようなその美しい笑みに思わず見惚れてしまう。
ぽかんと口を半開きにしたままじっと熱心に視線をぶつけてくるアルのその様子に、レオは尚もクスクスと笑い声を上げながら申し訳なさそうに両手の平を胸の前で合わせる。
「ごめんね。君があまりにも楽しそうに話してるから、何だか僕も楽しくなってきちゃって」
謝罪の言葉を述べつつも、実際はそこまで反省の色を帯びていない悪戯っ子のような笑みを浮かべるレオに、アルはふと既視感を覚えて首を傾げた。
「……あれ?」
「どうしたの?」
腕を組みながら頭上にクエスチョンマークを浮かべるアルに、レオもまた同じように首を傾げる。
今の話の中では特段疑問に思うような事は何もないはずだったが、アルはレオの顔をじっと見つめながらうーんと唸り続けた。
「いや、レオさんの笑顔見てたら、初恋のお姉さんの事思い出しちゃって」
初恋、という言葉にレオの眉尻が僅かにひくっと動く。
確かにレオの外見は浮世離れした美しさを持つが、一応は立派な男性であるため「お姉さん」と重ねられる事に少しばかりの疑念を抱いた。
一方、そんなレオの細かな表情の変化には気づかず、アルはその当時を懐かしむように再び穏やかな笑みをほんのりと浮かべ、静かに思い出話を語り出した。
「……五歳くらいの時だからあんま記憶ないんだけど、俺ってばあの時は結構やんちゃな餓鬼だったから、親の目盗んでよく森に遊びに行ってたんですよね」
アルがまだこの村に両親と住んでいた当時。
年相応の悪戯な餓鬼そのものな性格をしていたアルは、毎日のように悪さをしては都度叱られる日々を過ごしていた。
時には家の中にある食材を片っ端から食い荒らしたり、時には同年代の子供たちと畑を荒らしたり。
父親が剣士としての責を全うしている間、悪餓鬼だったアルに鉄槌を下していたのはいつも鬼のような面をした母親だった事を思い出し、思わず苦笑が漏れた。
そしてそんなアルは人一倍冒険心の強い子供でもあった。猛獣が頻回に姿を現すため、大人たちから行く事を制限されていた水の神が住まう森にアルは毎日のように訪れては、囀ずる鳥の鳴き声や木々の間から差し込む木漏れ日を見る事を趣味としていたのだ。
「その時もいつもみてーに森に遊びに行ったんだけど、その日の前日にちょっとした悪戯で母親から夜通し叱られたせいで寝不足気味だったのもあって、そん時すっげー眠気が襲ってきちゃって……ちょっと昼寝しよっかなーって思って、でっかい木の根本で昼寝しちゃったんですよ。で、気づいたら辺りは真っ暗闇」
うっかりと寝過ごし、辺りが闇に包まれている事に気づいた時の恐怖はいまだに忘れる事はない。
朧気な幼い記憶の中にこびりつくその孤独感は、自業自得とはいえ成人した今でさえ思い出すだけで震え上がりそうな程にトラウマを植え付けられた。
「暗いし変な鳴き声の鳥はいっぱいいるし何か獣の唸り声みたいなのも聞こえてくるし……俺もう怖くて怖くて! ギャンギャン泣き叫んで助けを求めてたら、突然俺の目の前に知らない女の子が現れたんですよ。あんま覚えてないんだけど、俺よりもちょい年上くらいの子で……なんでかでっけー帽子被ってて、とにかくすんごい綺麗な子だったってのだけは覚えてます」
必死になって母親を呼びながら涙を散らすアルの元に突如として現れたその少女は、まさしく「女神」のように映った。
上半身が影ですっぽりと覆われてしまうのではないかと思う程に大きなツバを携えた帽子を被っていた事にはいまだに疑問が残るが、それも目の前にある美しすぎる顔面の前では脆くも消え去る。
控えめな笑みを浮かべながら、その絵画のような光景に圧倒され言葉も出ないアルの髪の毛を安心させるように優しく撫で付ける少女のその様に、幼い少年の心は鷲掴みにされたのだった。
「綺麗すぎて一気に泣き止んだ俺の手を無言で取って、その子は森の中を歩き出した……マジで何も喋んないから、一瞬人間に化けた魔物かなんかか!? って思ってたんだけど……気がついたら女の子はいなくなってて、自分は村の屋台通りまで来てました」
現実離れしたその状況に思考回路が着いていかず、気づけば目の前から消えていた少女に、アルはただただ呆然とする他なかった。あれは夢なのか、魔物が見せた幻なのか。
手のひらに残った微かな温もりのみが、それが現実で起こった事だというのを証明していた。
「ちょうど俺の母親が村中を探し回ってる所に呆然と突っ立ってる俺を見つけて、後はもう家で怒鳴られるわビンタされるわ無事で良かったわの大号泣のオンパレード! んで、ある程度落ち着いた所であの女の子にお礼をしなきゃってなったんだけど……結局、あの子を村で見つける事はなかった」
拙いながらも母親にすべてを話し、次の日に二人で礼をするために村中を探し回ったが、結局あの少女を見つける事は叶わなかった。
渾身のビンタを食らったせいで、生々しく頬を腫らしたアルを連れた母親が村人に少女の特徴を聞いて回っても、誰もが「そんな子は知らない」と口にするばかり。結局は諦めるしかなく、二人で落胆する他なかった。
昔話を語りながらどこか物悲しそうな笑みを浮かべるアルを、一方のレオは何かを探るような瞳で一心に見つめ続けていた。
「今思えば、あの子は本当に魔物だったんじゃねーかなってたまに思います。すんごい優しい、綺麗な魔物。でも、あの一瞬で俺は幼いピュアピュアな恋心を一気に持ってかれちゃったんです! 年上の優しいミステリアスで綺麗なお姉さんとかマジ惚れない方がおかしいでしょ! あっ、でも今はレオさん一筋っすよ!」
現在の意中の相手に誤解されぬようアルが慌てて弁解するも、レオはその慌てぶりには反応せず、何故かホッとしたかのようにため息を一つ漏らした。
まるで何か憑き物が落ちたかのような儚いため息を漏らした後、ふと蚊の鳴くような小さな声でぽつりと呟く。
「……よかった」
「ん? 何が?」
小さな声は昔話を語った本人の耳にも届いたようで、何がよかったのかとアルは再び首を傾げる。
怪訝な顔をしてこちらを見つめてくるアルに対し、レオはふんわりと包み込むかのような優しい笑みを浮かべ、優しい語り口調で話し出した。
「君にとっての故郷が、悪い思い出ばかりじゃなかった事に安心したんだ。君を本気で叱って心配してくれるご両親も、見ず知らずの子供を見返りを求めず救ってくれたその少女も、君にとっての大切な思い出になり得た事に僕も嬉しい気持ちでいっぱいだ。その綺麗な思い出は、これからも大事に取っておくんだよ」
レオの言葉に、アルは目を見開いた。
今レオに言われるまで、この故郷は村長から村人まで皆クズの集まりでしかない最低最悪な村だという先入観を持ってしまっていた。
しかし、蓋を開けてみればアルには暖かな家族との思い出がある。そして初恋の少女との思い出もある。案外、ここの思い出もいいもので溢れ返っているのかもしれない。
そして、言葉一つでそれを気づかせてくれたレオのその達観した思考と優しさに、アルはますます彼に惹かれていく。
どんどんと、好きの気持ちが溢れ返り止まる様子がない。
この人が欲しい。今までもこの先も、もうこのような熱くて抱えきれないほどに大きな恋心を抱く事は一生ないのではないか。そう思えるほどに、アルはレオの虜になってしまった。
「……レオさんって、まーじで心も綺麗だよなー。あーもう、本当に結婚しましょーよー」
恋情が溢れ返りすぎてテーブルの上に突っ伏し始めたアルを、レオは頬杖をつきながら困ったかのように微笑み見つめる。
アメジスト色の瞳が、何かに迷っているかのように少しだけ揺らめいたように見えたのは、アルの気のせいなのか。
「……ごめんね」
その迷いに「どうしたのか」と聞いてやりたい気持ちにはなったが、ぐっと拳を握りしめて堪えてみせる。レオの表情が「何も聞いてほしくない」とでも言うように、すべてを諦めたかのように訴えていたから。
今ここですべてを打ち明けてもらう必要はない。いずれ、もっと心を通わせられるようになってから、色んな事を話してほしかった。
そして後に、その決断が二人の間に大きな亀裂を生じる事になるとは露ほども知らずに――――。
握り拳に力を入れすぎたため、いよいよ皮膚が避けて血が手首を伝う感覚がするが、今はそんな事は露ほども気にならなかった。それをレオに気づかれなかったのが不幸中の幸いだ。
少しばかりの気まずい沈黙が流れた後、レオは「じゃあ、そろそろ片付けるね」と言いながらそそくさ食器を回収してキッチンに立ち始めてしまった。
慌てて血が流れた手を服の裾で拭い、「お手伝いします」と言いつつ隣に立ちながらも、アルの頭の中では先ほどの迷いが生じたレオの表情ばかりが繰り返し再生されるのであった。
夜も更けた時間帯。くぅくぅと可愛らしい寝息を奏でながら眠りについているレオの髪の毛にふと誰かの指が優しく絡んできた。
元々眠りが浅いタイプのレオは、その少しの刺激で眠りから少しずつ目覚め、目蓋を開いた先にアルがこちらを見ている光景を目にして僅かに驚く。
「……あ、る……?」
「あ、ごめんなさい。起こしちゃった」
謝っているわりには慈しむかのようにずっと微笑んでいるアルの指先には、レオの銀色の美しい髪の毛の先が絡んでいる。
くるくると悪戯をするかのように指先で遊ばせているアルに対し、レオは寝惚け眼を擦りつつ不思議に思いながら「んー?」と可愛らしく唸った。
「どうしたの……?」
「……いや、本当に綺麗な髪だなって。思わず触っちゃってた」
建前も何も含まれていない、心からのアルの称賛の言葉に、レオは思わず顔を赤く染め上げる。
いつも自身にはふざけたかのように「結婚してください!」「お綺麗すぎて目が潰れちゃいそうです」などといった言い方で褒めてくるアルからの、本心が滲み出て止まないというような甘い囁きに思わずキュンと胸が高鳴った。
しばらくドキドキと鼓動を高鳴らせながら赤い顔でじっと目の前の漆黒の瞳を見つめ返していたが、ふとアルが真剣さを帯びた精悍な表情を浮かべ出したのでレオも無意識にコクっと唾を飲み込む。
「……あの、ちょっと頼みたい事があるんですけど……」
「……一房もあげないからね?」
「大丈夫、もうちょい難易度下げたんで」
真っ直ぐに突き刺してくる視線に、いよいよ本当に重大な事を言われるのではないかとレオが気を引き締めて力強く頷いた瞬間、アルがゆっくりと口を開き出した。
「……頬擦りしていいですか?」
「…………」
真剣な顔をしながら、ふざけすぎた事を抜かし出すアルに対し、レオは途端に強張っていた身体の硬直をといて「はぁぁ……」と深いため息をついた。
なんだその頼みは。くだらなさすぎる。
いや、当の本人はかなり真剣な様子だが。
「……この変態」
「罵られるのも俺にとってはご褒美以外の何物でもないんで寧ろありがたいです」
キリッとした顔で尚もふざけた事を抜かすアルに対し、レオは額に指を当てしばし考えに耽った。
確かに、彼は自身にずっと素直に想いをぶつけてきてくれてはいるが、それにしてもこんな変質者のような事を頼んでくる男だとは思わなかった。いや、今朝「髪を一房くれ」と頼んできた時点で兆候は見られていたが。
しかし、アルの顔には「絶対に諦めません」という固い意志が宿っているかのように見える。これはもう、普通にこちらが諦めた方が早く決着がつく。
そう考えに至った結果、レオはしぶしぶと言った具合に自身の銀色の髪を一房摘まむと、目の前のうきうき顔の男にそっと差し出した。
「……少しだけだよ」
「マジ!? っしゃー!!」
途端に元気を取り戻したアルはレオの髪の毛に飛び付き、さっそくその柔らかでツルッとした感触の極上の絹糸を自身の頬に擦り付け始めた。
美人の髪の毛を屈強な男が頬擦りするその光景は、端から見たら変質者と痴漢されているか弱い被害者のようである。
「ああ~生き返る~!」
すりすりと頬に髪の毛を擦りつつアルがたまらないとでも言うように恍惚とした表情でそう呟く様を、レオはじとっとした瞳で見つめ続けた。
本当に、この青年はこれからも理解できそうにない。
(本当に何なんだ……)
その困惑したかのような呟きは、レオの心の中にだけ繰り返し木霊するのであった。
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