第14話 花言葉
わずかな窓の隙間をすりぬける風は、甘い緑の香りを伴う。
清々しい朝の静けさ。
都会の耳触りな雑音はなく——ピューヒュルロ――ピィイイ――と澄んだ音色が、窓の外で響いた。
「……さむぅ」
一度寒さを意識しはじめると、眠気は徐々にひいてゆく。
覚醒を始めた詩津は、布団から頭をだして、ぼんやりと天井を眺めた。あやふやな輪郭が、時間を重ねるごとに形を帯びてくる。
代わりに帽子のような布シェードをかぶった電灯が七つ。珍しいシャンデリアだ。
「……わ、そっか……今、イギリスだっけ?」
バイト先——ウイングス・アロー号の客船ツアーで珍妙な人命救助を果たした
成田から飛行機を乗り継いでロンドンまで十二時間。さらに列車で四時間。
イギリス・カンブリア州の湖水地方は、ケタ違いな自然に覆われており、緑に飲みこまれるような錯覚すらおぼえた。
古城は湖水地方北部に位置し、バタミア湖畔は海と見間違う規模の湖が広がっている。
本当なら、湖畔の周りをゆったり散策するツアーなどもあるらしいが、そこは忙しい学生の身ということで割愛してもらった。
古城に着いてすぐは時差ボケで周囲を気にする余裕もなかったもの、あらためて人も文化も匂いも何もかも違うことに、好奇心で胸が躍った。
新徳一族と婚姻関係で繋がっているフィリップス家が、代々継いでいるという古城は、岩山上に建つ
外城壁でくるまれた主城は、四隅に円塔が配置され、城門にはヨーロッパのお屋敷さながらのゲート・ハウスがくっついている。
滞在人が寝泊まりするのは主にそのゲート・ハウスで、詩津は三階の角部屋を与えられた。
朝からすっかり舞い上がった詩津はクイーンサイズの天蓋ベッドから元気よく飛び降りると、格子窓を押しあげて、外の景色に頭から突っ込んだ。
ただ残念なことに霧のせいで見通しは悪く、外は何も見えないに近い。
意地でも湖を見ようとして目を凝らすと、湿気た外気にあたっているうち、詩津はくしゃみをひとつする。
温かいフリース素材のパジャマを着ているもの、素足がよくなかったようだ。
詩津が身震いしていると——ピーヒョロロ、ピーと、幾度となく聞いた音色が再び流れてくる。
「……鳥かな? 口笛かな?」
詩津はベッドで布団を頭までかぶり、ほっと息をつく。
「——ブラック・バードでしょ」
詩津の隣のベッドで布団の塊がもぞりと動いた。かと思えば、中から人が起きあがる。
保護者としてついてきた杜季だ。
「……ブラック・バードって……何?」
「野鳥」
杜季は大きく伸びをしながら、簡潔に答える。
「杜季ねぇってば外国種の鳥なんてよく知ってるね」
「——う。が、ガイドブックで見ただけよ。それに、渡り鳥だから日本にもたまに来るはず……」
「来るはず?」
「そこは気にしなくていいのよ。言葉のアヤ!」
「ふうん……それにしてもさ……今回は、まさか杜季ねぇがついてきてくれるなんて思わなかったな。杜季ねぇは、海外キライって言ってたし」
「……まあねぇ。あたしってばほら、妹思いだから?」
詩津は
冗談と思われても仕方のない内容だったもの、生真面目な詩津は、脚色をつけて事実をねじまげたりはせず、覆面集団に拘束されたことも、人喰い花のことも、またそれを食べてしまったことも正直に話した。
百万ボルトの逆ギレを覚悟していた詩津だが――予想に反し、杜季は心底嫌そうな顔をしながらも、旅行を承諾した。
しかも人見知りが激しく、『日本の周海から一生出るものか』と断言していた杜季が『保護者としてついて行く』とまで言ったのだ。
いつになく杜季の大らかな申し出に、虐げられることしか知らなかった詩津は感動し、まるでまともな姉を持ったような心持ちになった。
どんな相手に対しても無敵である杜季が一緒なら、見知らぬ土地でも心強い。
感激する妹の傍ら、杜季は厚化粧(詩津でさえ素顔を見た覚えがない)を備え付けの鏡台に映し、赤茶の巻き毛から丁寧にカーラーを外し始めた。
「てか、何度も言うけどあんた、知らない人に誘われても、ホイホイついて行くなよ」
「そんなの、わかってるよ」
五樹の罠にかかったことも忘れて素直に頷く詩津に、杜季は何か言いたそうに目を細める。
「あんた、マジでしんぱ——」
杜季が言いかけた時、テンポの早いノックの後、扉の向こうから低い声が響いた。
「——起きたのか?」
「えっとその声は……七生さんですか? ハイ、起きました」
「ちょっとぉ、早朝の、それも女性の部屋に来るなんて、不躾な奴ね」
杜季はブツブツ言いながらも、ちゃっかりお洒落着のワンピースに着替えている。
「あの、もうちょっと待ってください」
詩津も開襟シャツの上から紺のチルデンニットを着こみ、くたびれたジーンズに足を通す。
髪はチェックのシュシュで手早くポニーテールにした。
姉妹はきっかり五分で支度してドアを開ける。
廊下にはシンプルだが皺ひとつないダークグレーのスーツに身を包んだ、七生が立っていた。
肩までの
切れ長の目が印象的で何度見ても美しい青年だが、他人に厳しい性格が、その冷たい表情に滲み出ている。刺のある美形と称するのが一番近い。
七生は事務的に告げた。
「お前たちの朝食は一階の食堂に用意してある。新徳氏が待っているから、すぐに来い」
「は、はい」
七生には何度か助けられた。が、髪を引っ張られたトラウマもあって、詩津は会う度にちょっとだけ畏縮してしまう。
比べて杜季は、目の前に現れた美形に対して、まるで研究対象を探るかのように、頭からつま先までを眺める。
「……フィリップス家も交配を繰り返すうちに変わったわよねぇ……何度見ても違和感しかないわ」
「と、杜季ねぇ?」
「——あ、いや違うのよ。ガイドブックに載ってたフィリップス家の先祖よりもずっと男前ってことよ」
「そうなの? 杜季ねぇってば勉強家だよね」
詩津が尊敬のまなざしを向けると、杜季は顔をしかめた。
七生はどうでも良さそうに背中を向ける。
「あ! えっと、千崎支社長——」
威圧的な印象に恐れをなしながらも、詩津は前を歩き始めた七生を慌てて呼び止める。
七生は億劫そうに振り返る。
「五樹も千崎だ。ややこしいから七生でいい」
「あの、な……七生さん」
「なんだ?」
「予定とか……よく知らないんですが……」
「朝食の席で新徳氏が話す。――用件はそれだけか?」
「…………えっと」
なんだかんだと言いそびれた礼を言いたいもの、七生に興味のない話を向ければたちまち機嫌が悪くなりそうで、口を噤んだ。
詩津はため息交じりに「やっぱりいいです」と、肩を落とす。
落胆する詩津を見て、七生が小さく吹き出す。
「また何か、一人で妄想して自己完結したのか?」
詩津がドラマの影響を受けた話をしたことで、妄想少女と認定されたらしい。
だが人を小ばかにした発言でも、いつになく柔らかい口調だったので、詩津は思わず気の抜けた顔で七生を見た。
綺麗な黒緑の目が合って、咄嗟に下を向いてしまう。
「そ、そんな、妄想ばっかりしません!」
「そうか? だが今のお前は、熊に遭遇した小動物のようだ。さしずめ、俺が熊か?」
「わ、わたし、そんな変な顔してますか……?」
「間抜けな顔になっているぞ」
「間抜けな顔って……」
詩津は友人によくアルマジロと言われることを思い出し、青くなりながら両手で頬を包む。
七生は面白そうに口の端をあげてさらに言った。
「お前はアレだ。『平凡』の花言葉がつく花に似ているな」
「平凡? あたし、花言葉とかよく知らないんですけど」
「——そうか。なら、頑張って調べろ」
七生はニヤニヤしながら身を翻すと、足早に歩き出す。
「……なんだろう……『平凡』って花言葉の花……?」
「……たぶん、『ボケ』のことでしょ」
杜季は、呆れた顔で詩津を一瞥する。
「ぼ、ぼけ?」
「そう」
「——て、もしかして……」
ようやく七生にからかわれたと気づき、詩津の頭がみるみる沸騰する。
さっきまでの畏縮など吹っ飛び、怒りで頬が染まる。
「信っじらんない! 花言葉とかお洒落なこと言って! 『ボケ』って——」
「そこは、『平凡』の花言葉も気にしたほうがいいわよ。……けど、あんた……意外と問題なさそうよね」
「え? 何?」
姉の呟きに、目を瞬かせる詩津。
杜季は表情の読めない顔で「独りごとよ」と返した。
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