第9話 怒りは募るばかり


 五樹いつきは複雑な顔で笑い——優しいが、反論させない強さで言った。


「ごめんね。花については公の場で話せるような内容じゃないから。これ以上は言えないんだ。ただ、あの花に触れて無事でいられた君に、伯父は強い興味を示している——ということだよ」


「無事でいられた……? あのパンジー、そんなに恐ろしい花なんですか? 何か毒でもあるとか?」


「それもノーコメント、ってことで。ごめんね。こんな風に意味深に言われても余計混乱するだけだとは思うけど……」


「……私が病気になるとか、そういうことはないですよね?」


「それはないよ。その点に関しては約束する。けど、船上オークションが終わったら採血させてくれないかな? ——ああ、誤解しないでね。毒も妙なウイルスもないんだけど、ただ君の体組織に興味があるだけだから」


「は?」


「五樹兄貴が誤解を招く言い方してるんだろ。ほどほどにしとけよ。——ややこしくてゴメンな」


「……はあ」


 やんちゃそうだが中性的な赤髪の少年に片手で拝まれて、詩津はなんとなく気の抜けた返事をする。人懐っこい少年はどこか憎めないキャラクターだった。


「ちなみに俺っちはこいつらの弟で、三斗みと・新徳・ナイト・フィリップス。よろしくな、ズッシー」


 三斗と名乗った赤髪の少年は歯を見せて笑う。年が近そうなせいか、屈託のない笑顔を向ける三斗は一番親近感が持てた。


 さらりと述べられた三斗の紹介で、彼のミドルネームだけが他の兄弟と違うことに少しひっかかりをおぼえながらも、詩津はつられるようにして三斗に笑い返す。


「————て。ず、ズッシー?」


 ミドルネームに気をとられたせいで、詩津は自分につけられた妙なあだ名に遅れて気づく。


「うん。可愛いっしょ? シズをひっくり返してズッシー、みたいな?」


「……は、はあ? 私、ツの濁音で〝シヅ〟なんですけど……」


 詩津は訴えるが、三斗に笑顔で流される。そしてさらに否定する前に、五樹が窘めるように告げる。


「こら三斗、お前は年上に対して馴れ馴れしすぎる。詩津ちゃんを見習って、もうちょっと控えめになれ。世の中には、お前のその小型犬的な愛嬌が通じない相手だっているんだから」


「小型犬ってなんだよ。俺だってあと二、三年もすりゃデカくなるっつーの」


 五樹の小型犬発言に内心同意しつつ、大人の男性に名前で呼ばれることに慣れない詩津は、五樹にひきつり笑顔を返した。


 しかもそんな詩津の反応を面白がってか、さらに七生がわざとらしく加わってくる。


「詩津は控えめというより、余計なことを考えすぎて、思っていることをなかなか口にだせないタイプじゃないのか? どうでも良いことをぐるぐる考えてそうだ」


 ————よよ呼び捨てッ! しかもなんでそんなことがわかるのよ!


 詩津が顔を真っ赤にして口を噤むと、七生が悪戯っぽく口角をあげる。


 勝手な性格づけに異議を唱えたいのはやまやまだが、相手が上司だという事実は覆せない。余計なことを言って不興を買えばクビになる可能性だってある。


 詩津は強引に髪を引っぱられた恨みを思い出しながらも、怒りを堪えてムリヤリ笑顔を作った。顔は笑っていても、目は笑っていないのだが。


 詩津が笑顔で睨むと、七生はくるりと背中を向けた。肩が小刻みに震えている。笑っていることが明白で、詩津の笑顔が無意識のうちに凶悪なものなる。


「……ズッシー、怒ってるなら、ちゃんとそう言ったほうがいいぞ。我慢して笑ってるほうがこえぇよ」


「七生兄さんも、あまり詩津ちゃんで遊ばないでね。ゲストなんだから」


「こいつが馬鹿丸出しなのが悪い」


「ズッシー顔、怖い怖い!」


「ほら、ご飯冷めちゃうから、詩津ちゃん食べて、ね? ね?」


 五樹に優しくさとされて、詩津は無言で頷いた。


 さっきまで遠慮して全く手をつけなかった料理を、開き直って口の中にかきこむ。すると口の中いっぱいに広がる幸福が、嫌な気持ちをみるみる鎮め、詩津の顔がぱあっと輝く。


 料理の魔法は素晴らしい。


 普段、杜季におかずを横取りされる習慣があるせいか、詩津の食事に対する執着は根深い。


 本当は配膳された時からずっと、目の前の料理が食べたくて仕方なかった。胃袋からアリガトウという声が聞こえたような気がした。


「……単純」


 詩津が涙目で幸せそうに食事をとる姿を見て、七生が再び口を押さえ、笑いを噛みしめる。


 五樹と三斗は慌てるが、真剣に食事を始めた詩津は見向きもしなかった。実際、単純なのだから仕方がない。詩津自身もそこは否定しない。


「良かった……お気に召してもらえたようだね。詩津ちゃんに帰るって言われたらどうしようかと思ったよ。七生兄さんはもうちょっとコミュ力を身に着けたほうがいいよ」


「他人の顔色ばかりうかがうお前のようになれというのか? 俺にそういうのは向かん」


「開きなおらないの。それに顔色をうかがえって言ったわけじゃないよ。他人の視点に立って物事を考えるべきだって言ってるんだよ。相手の目線になれば自然と歩調が合うものだよ」


「相手の目線に立てばいいというが、人間の思考はそんな単純なものなのか? 俺は個々に形成されている複雑な回路を理解して同調できるとは思わん。表層部で同調しているからといって、相手が求めるものを真に消化できているかどうかはわからんぞ」


「ああ言えばこう言う人だな……子供じゃないんだからさ。何も誰とでも深いつきあいをしろとは言ってないんだよ。人間関係で波風なみかぜ立てないようマナーくらい守ってください」


「マナーとはなんだ? お前のように——使えそうな他人を持ち上げて、ほろ酔いになったところで地獄に落とすことか? 羊の皮をかぶった獅子になれというのか?」


「兄さん、適当なことクドクド言ってるけど、単に他人に合わせるのが嫌なだけでしょ?」


「わかっているなら、何も言うな。不毛な争いになるだけだ。大人になってからの性格の軌道修正ほど難しいものはない」


「そこまで堂々と『性格改善する気ない』宣言するのも、なんか凄いよね……もういいよ。兄さんは偏屈だけど正直なだけだから、そんなに害もないしね。――ごめんね、詩津ちゃん。七生兄さんはこんな人だけど、こんな人だから許してあげて?」


「……は、はあ」


「ところでさ、詩津ちゃんの今後の予定はどんな感じかな?」


 詩津が適当に相槌あいづちをうっていると、五樹が唐突に訊ねた。


「予定……仕事のことですか?」


「そう。乗船中、どんな風にスケジュール組まれてる?」


「どうしてそんなことを聞くんですか?」


「君に興味があるから——と言いたいところだけど、伯父がね。君と会って話がしたいんだって。今日のディナーがダメなら、明日にでもご一緒したいそうだよ」


「……どういうことでしょうか? 大企業の社長さんが一介のバイトごときに多忙な時間を割いて会うというのは、どう考えてもおかしいと思います。花を片づけただけじゃないですか。本当になんなんですか?」


「そうだね。疑わしい気持ちになっても仕方ない状況だよね。……君はもてなされる確かな理由が欲しいんだね。どう言えばいいかな……新徳氏はきっと、君が特別な存在かどうかをね、確かめたいんだと思う」


「……あの、すみません。もう少しわかりやすく言ってくれませんか? さっきから危険な花だとか、確かめるとか、わけがわからないです」


「時期がくればわかるよ。でも今は、何も言わずにお礼だけを受け取ってほしいって言っても駄目かな?」


「そんなことを言われても……」


「五樹兄貴もさ、嘘でも別の理由にしとけばいいのに……みんなバカ正直だよなあ。いきなりこんなこと言われたって、ズッシーだって困るよな?」


 次から次へと疑問を増やす五樹を咎めるように三斗が言う。


 だがこの時すでに詩津の頭は容量オーバーで、彼らの声はどんどん遠のきつつあった。


 詩津はなんでも軽く受け止めるということが苦手なのだ。彼らの要領を得ない説明には限界だった。


「……もう、やめてください」


「ズッシー?」


 詩津はテーブルを派手に叩きつけて立ち上がる。


 なんでもため込む体質の詩津は、吐き出す時が意外と激しい。しかも激高している時は、わりと自分が見えない。そのため相手が上役だとか、そんな問題は、ショートした詩津の頭からはじかれていた。


「私にはちっともわからない話を並べられても、宇宙人としゃべってるみたいで……はっきり言ってすごく不快です! ついていけません。社長さんが会いたいというなら、一度はお会いします。でも、よくわからない話につきあうつもりはありません。私はちょっと花の棘でかゆいくらいの怪我を負わされただけです! ……お願いですから、妙なことには巻き込まないでください!」


 詩津は言うだけ言って、他の誰かが口を開く前に「失礼します」と、素早く頭をさげては、レストランをあとにした。


 店を出た瞬間、急に我に返った詩津は、役員に失礼なことを言って減給されたらどうしよう、などと心配しながらも、見知らぬ男たちに囲まれて食事をするのはこれっきりにしたいと心から思う。


 わけのわからないことに付き合わされるのは、姉の杜季ときだけでじゅうぶんだった。

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