第7話 意外な正体

 詩津しづがシルバーグレイの男に連れてこられたのは、『柊華とうか』というレストランだった。


 船内で唯一の和食店だが、純粋な和ではなく、モダンと東洋のエキゾチックを混ぜたような内装だ。基調は黒だが、柱はあか


 夜色の床には星を散りばめたような金のラメが入っている。中央にはボリュームのある生け花が大胆に飾られていた。


 黒塗りの六人掛けテーブルに座らされた詩津だが、庶民には縁遠い高級店なだけに、縮こまりながらワイングラスの水をじっと眺めていた。


 対面して座る老人は、微笑ましそうに詩津を見ている。


「遅くなったが……自己紹介がまだだったね。僕は新徳沖高しんとく おきたか――一応、この船の関係者だよ。さぁさ、そんな縮こまってないで、遠慮せずに何でも頼みなさい」


「……しんとくさん……」


 詩津はその名前が引っかかり、何度も繰り返してみる。


 そして逡巡するうち、恐ろしい事実に突き当たる。


「し……『新徳』さんって、まさか……新徳ホールディングスの……」


 『新徳沖高』という名を初めて目にしたのは、バイトの契約書だった。


 穏やかな見た目に反した切れ者で、新徳ホールディングスを常に進化させていると言われる現社長のことだ。七十歳だそうだが、実際はとてもそんな風には見えない。


 上層部だとは予想していたが、まさか最上にいる人間だとは思いもよらなかった。


「しゃ……社長さん?」


「もうほとんど隠居しているも同然の身だよ。最近はだいぶ経営の実権からも遠のいていることだし……そんなにかしこまらなくていいよ。ただの老人だと思ってくれてかまわない」


「そそそそそ、そんなわけにはいきません! ……だって私……」


 年齢詐称がバレれば、詩津だけでなく、手引きした杜季の知り合いまでもが、ペナルティを受けかねないのだ。


 詩津は額に流れる汗をハンカチで押さえつつ、ひきつった笑みを浮かべた。 


 根が素直だということは、嘘も下手だ。なんらかの拍子に自分で自分のことをバラしてしまいそうで冷汗が止まらなかった。


「……わ私……大企業の社長さんと喋るのは初めてなので……緊張します……」


 緊張も度を越すと頭がうまく機能しないものである。なるべく口を閉ざそうと思っても、本人の意思とは裏腹にどんどん言葉が滑り落ちていった。


「こんな高そうな……絶対万単位でしか食べられないようなお店も初めてで……もう、いたたまれなくって……どうすればいいのか……」


「あはは。賀川かがわさんは可愛いね。お姉さんが君を心配する気持ちがよくわかるな」


「……えっと……私、名前言いましたっけ?」


 名乗った憶えがないことに気づき、詩津は思わず胸を押さえる。仕事の間はネームプレートの着用が義務づけられているが、今はつけていない。


 新徳はしまったという顔をするが、咳払いをしてすぐにまた笑顔を作る。


「……ああ、ええっと……………僕は乗船者メンバー全ての顔と名前を把握しているんだ」


「そ、それはすごいです!」


「…………トップとしては当然のことだよ」


「スタッフを含めて、乗船者は二千人以上もいるのに、顔と名前を覚えないといけないなんて、社長さんって大変なんですね」


「それはいいけど……社長さんはやめてくれないかな? できれば沖高おきたかさんと」


「そ、それは無理ですよ! 社長さんを名前で呼ぶなんて……」


 詩津は大きくかぶりを振って否定する。


 親戚でもなければ、同年代の友人でもないというのに名前で呼び合うなど、どう考えてもおかしい。


 友達がほしいのだろうか――などと考えていると、詩津の背中側にある出入口から軽い足音とともに張りのある少年の声が近づいてくる。


「――なぁにが、『沖高さん』だよ、おっちゃんの名前勝手に使ってんじゃねぇよ」


 言って、目が覚めるほど赤い髪に焦茶セピアの瞳をした少年は、断りもなく新徳の隣に座った。


 少年はロングパーカに腰ばきジーンズ、それに袖のないジャケットという格好だが、華奢で上品な顔立ちのせいか、粗野な感じはしない。


 中学生くらいだろうか。リスのような丸く大きな瞳が詩津を見るなり、「チワ」と屈託ない顔で笑った。笑うと愛嬌がある。


 赤髪の少年は詩津から視線をはずすと、今度は疑わしそうに新徳を凝視する。


「女の子ひっかけるにしたってさあ、ちょいやりすぎじゃねぇの? その恰好もさ。色んな意味で気合い入れすぎっしょ」


 少年がまるで同世代と喋るような口ぶりで言葉を投げると、新徳も当然のように笑顔で返した。


「出会いが肝心なんだよ。運命的なシチュエーションを用意したなら、相応のドレスアップだって必要だろう?」


「コスプレの間違いじゃね?」


「伯父貴に頼まれたことなんだから、彼の格好をするのは当然だろ」


「よくわかんねぇ理屈――つまり、沖高のおっちゃんにこのコを連れて来いって頼まれたわけか?」


「ああ」


「へぇ……――てことはさ、おっちゃんもあのこと知ってんの?」


「どうだろう。七生ななおがあのことを人に話すとは思えないけど」


「俺もそう思うけど……ま、いっか。いずれバレることだし――なぁ、あんた、賀川かがわ詩津しづだよな?」


 存在を完全に無視されていたかと思えば、いきなり赤髪の少年に顔を近づけられて、詩津は思わず背中をのけぞらせる。


「あ……はい……でも、なんで私の名前をご存じなんですか? 社長さんのご親戚の方ですか?」


 詩津が訊ねると、赤髪の少年は椅子の背もたれに背中を預け、困惑気味に新徳を見あげる。


「このコ……大丈夫か……? なんだよこのトリ頭っぷりは」


「どうだ、絶滅寸前の天然危惧種だろ?」


「絶滅寸前っつーか、世の中に二人もいねぇだろ。ここまですごい天然は。俺たちの話を聞いても、まだ兄貴のことを沖高のおっちゃんだと思ってるぜ」


「僕が食事に誘ったら、なんの深読みもなくついてきたくらいだからね。今まで無事だったのが奇跡的な天然ぶりだよ」


 内容はともかく、真面目に話し合う新徳と少年を詩津は目を白黒させて見比べた。


 今の会話で、詩津もようやく目の前の男が新徳沖高しんとく おきたかという人物ではないということがわかる。


 だが、そうなると聞きたいことがあまりにも多すぎて、何を聞けば良いのかもわからない。


 ちょっと癖のありそうな男たちの向かいで詩津が狼狽えていると、さらに彼らのうしろから新しい影が現れる。


「――あ!」


 黒緑ダークモスの髪に、同色の切れ上がった瞳。鋭利かつ繊細な美貌を前に、詩津は目をみはった。


 彼には二度助けられた。海に落ちそうになった時と、オークション品に紛れていたパンジーの処理で困っていた時だ。人を見下みくだすような態度は好まないが、助けてもらったには違いない。


 だが千崎は詩津の存在を気にもとめず、向かいにいる二人を冷めた目で見おろした。


「お前たち、またくだらない遊びをしているのか?」


 貴族然とした横柄な態度は、そのいかにも上流らしい姿のおかげでお高くとまっているというより、むしろ様になっている。


 千崎せんざきが割って入ると、自称・新徳と赤髪の少年は顔を見合わせて笑った。


「いやだなぁ、七生ななお兄さん。僕は新徳氏しんとくしに頼まれて、そこの彼女を迎えに行っただけだよ。それに僕がする遊びは、くだらないものばかりでもないし」


「くだらない時もあるって、認めんだな」


 自称・新徳の発言に、赤髪の少年はすかさずつっこむ。


 七生と呼ばれた青年は物憂げにため息をつく。


「伯父貴が賀川詩津との接触を試みるとはな……まさかとは思うが、誰か『魔女』のことをチクッたのか?」


 自分の話題がのぼっているようだが、何の話をしているのかわからず、詩津は聞いているしかない状態だった。


 詩津が戸惑いがちに彼らをぼんやり眺めていると、そんな詩津を安心させるように自称・新徳は柔和な笑みを浮かべる――が、すぐに真面目な表情にきりかえ、七生に返した。


「そんなわけないだろ。『他言無用』って、魔女に言われた以上、言うわけがない。あとが怖いしね……僕は別件で、賀川さんの接待を頼まれただけだよ」


「あのタヌキジジイが、ただのスタッフごときをもてなすわけがないだろう。しかもわざわざお前を使うとは……」


「さあ、どうだろうね。とにかく僕は『迷惑をかけてしまった人』を連れてきてほしいと頼まれただけだから、その件に関してはなんとも言えないよ」


 自称・新徳は言いながら、自身のシルバーグレイの髪を突然――つるりと頭からいだ。


 詩津は一瞬ぎょっとなるが――シルバーグレイの髪はウイッグだったらしい。中からは瞳と同じ青銅ブロンズの髪がこぼれ落ちる。


 おまけにしわが刻まれた顔を片手で拭うと、染みひとつない滑らかな肌が現れる。


 まるで手品のように鮮やかな変身だった。シャープな美貌は七生ななおに似ているが、青銅の髪をした青年の方が明るく優しい顔立ちをしていた。


 常に張り付いている笑顔のせいだろう。綿菓子のように甘く柔らかい空気を背負っている。


 度胆を抜かれた詩津は唖然としつつ、とろけるほど甘い顔立ちを凝視する。




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