第6話 人助けと御守り
見おろす先では、高くから降り注がれる陽光が、海に煌めきをもたらしている。
船上バイトで初めて貰った長い休憩時間。
詩津は、私服の重ね着とデニムパンツに着替え、乗船客として
次の休憩はとうぶん先のため、今のうちに羽を伸ばしておきたいところだが——未成年お断りの遊技場が多い船内で、詩津はひたすら暇をもてあますしかない。
本来、船上バイトは高校生不可だった。
それは引き受けてから知った事実で——履歴書の内容は
仕事を勝手に交代するのは契約違反らしいが、高給なバイトを蹴るのは惜しいと思ったのだろう。
強欲な
まさかそんなややこしい話になっているとは知らず——乗船後、杜季の友人だというスタッフに事実を聞かされた時は、
「でも……もう戻れないし……」
詩津は高い柵に腕を乗せ、船尾から太平洋をパノラマで見渡す。
よく働いた体をほぐすように、大きく伸びをし、身を翻したところで——。
胸を押さえてうずくまるスーツの男が、目に飛び込んでくる。
シルバーグレイの髪をなびかせたその人は、うまく息が吸えないらしい。過呼吸もしくはなんらかの発作をもよおしているようだった。
周囲に人はいない。
詩津はひどく狼狽えながらも咄嗟の判断で、その老齢で広い背中に駆け寄った。
「——あの、大丈夫ですか? 今、人を呼んできますね」
男の目線まで屈み声をかけて、詩津はすぐに立ち上がる。
だが男は、離れかけた詩津の腕を思いのほか強い力で引きとめた。
「……お待ちなさい、お嬢さん。こういった発作は……たまにあることだから……人は呼ばなくて結構だ」
「でも」
「いざとなれば薬という手段もある……だが今回はそこまでひどくもないから……できれば、少し……少しの間だけ、付き添ってもらえないだろうか……?」
「……それは構いませんが」
老人の辛そうに眉尻を下げた表情を見て、詩津は迷いながらもゆっくりと頷いた。
どうせ暇なのだ。付き添うくらいは、わけない話である。
詩津がどこにもいかないとわかると、男はようやく手を離す。
年配にしては綺麗な白い手をしている——と、思いながらも、詩津はその人にひたすら寄り添っていた。
ただ沈黙し待ち続けて、十分が経過する。
じっとするだけというのは、もどかしくもあったが、なんと声をかけてよいのかわからず、耐えるしかなかった。
しばらくして——楽になったのだろう、老人の表情が緩んだと同時に、その視線がゆっくりと詩津に向いた。
ずっと俯き加減だった男の顔を初めてまともに見る。
六十代前半だろうか。口元や額の皺は深く、後ろになでつけた短髪は白に近いシルバーグレイで、初見の印象よりも若く思えた。
回復したのか、男は立ちあがる。
詩津も同じように並び立つと、男は見あげるほど高い。屈んでいる時にはわからなかったが、一八◯センチはありそうだ。
男はやや吊りがちな大きな
「ありがとう。とても助かったよ。……本当にずっといてくれるとは、思わなかったな」
男に言われて、詩津は「とんでもない」とかぶりを振る。
「よければ誰か……お知り合いを探しますが」
「いや……せっかくの船上バカンスで、周りに気を使われるのは嫌なんだよ。今の出来事は君の胸中にとどめておいてくれないかな?」
「……いいんでしょうか」
「優しい子だね。どうだい、これも何かの縁だ。一緒にお茶でもどうかな? ——ああ、君の連れを待たせてしまっては悪いか」
「あ、いえ、私はバイトでここにいるので……一人ですが……」
「そうかいそうかい。なら、ひとり者同士、バカンスを楽しまないかい?」
発作の時とは別人のように明るい男に、詩津はなんとなく
緊急事態で近づいたもの、初対面の人間と長くいるのは苦手で、食事なんてとんでもなかった。
詩津はなんとか断る口実を考えるが——。
「えっと……せっかくのお誘いですが……私、このあと仕事があるので……」
「仕事? 次の交代時間まで、一時間はあるだろう? ほんの少しでいい、寂しい老人の相手をしてはくれないだろうか?」
————スタッフの入れ替え時間なんて、なんで知ってるの? この人。
詩津は思わず出しかけた言葉を、慌てて飲み込む。
スタッフの入れ替えは管理者以外、いっせいに行われる。それを把握しているのは、関係者だけだ。
だが、こうして船上でのんびりしている様子を見ると、直接的に仕事をしているわけでもないのだろう。
————スタッフの行動を把握しつつ余裕をもって動ける立場といえば? ——と考えたところで、詩津は胸騒ぎをおぼえた。
そうなると、目の前の男がとてつもない肩書きである可能性が高い。
ただでさえ
詩津はきっぱり断ろうと決意する、が。
男は眉尻を落とし、いかにも寂しげな面持ちで詩津を見おろしていた。
捨てられた子犬のような顔を見てしまうと、詩津はどうにもすぐに返事が出来なくなってしまう。
詩津が黙ると、男はさらに詩津の右手を両手で包み、哀愁を漂わせて言った。
「……さっきは君がそばにいてくれて本当に心強かったよ。最近は調子が良かったから、まさかこんなところで発作がおきるなんて思わなかったんだ。苦しみに耐える時間というのは、とても孤独だね。だが誰かがそばにいてくれると気持ちが楽になることを知ったよ。だから君は恩人と言っても過言ではなくて――どうか……ささやかだが、お礼をさせてはもらえないだろうか」
「……え、えっと……」
「ああ、すまない。こんな老人といても楽しくないだろうしね……無理にとは言わない」
「い、いえ! そういうわけでは——」
「じゃあ、一緒に来てくれるかい?」
男の真剣かつ熱いアプローチにノーとは言えず。
詩津は顔をひきつらせるが、もう頷くしかなかった。
「本当にいいのかい?」
「は、はい……少しなら」
「ありがとう」
詩津が承諾した途端、男の顔は一変して晴れ晴れとしたものになる。寂しいと死んでしまうウサギのようだった男が、急にしゃんとして歩き出す。
詩津はいきなり元気になった男に腕を掴まれ、引きずられるようにして歩いた。
「あ……あの、なんだか雰囲気が変わってませんか?」
「いやあ、若者と一緒にいると、老人も若さを取り戻すものだね!」
「……そうなんですか」
「君の了承も得たことだし、さあ行こう」
「————あ、すみません、ちょっとだけ待ってください!」
「どうしたんだい?」
「お守りを落としてしまって……」
詩津は頭だけで振り返り、ボトムのポケットからこぼれ落ちた巾着形のお守りを見やる。それを男が代わりに拾う――が、小さなお守りを手にした瞬間、なぜか男は肩をビクリと震わせる。
「……君の母親はわりと心配性なんだね」
男は一瞬、痛みをこらえるような顔をするが、すぐに表情を柔らかくして詩津にお守りを手渡す。
詩津はお守りを受け取りながら苦笑する。
「いえ、これをくれたのは姉なんです」
「え? お姉さん? お母さんじゃなくて?」
「はい。普段は私に厳しいですが、これだけは持って行けってうるさくて」
「——そりゃ、これだけ可愛くて純朴な娘だったら、心配もするだろうね……じゃあ、行こうか」
優しく笑いかける男に、詩津もつられるようにして笑いながら、お守りをデニムパンツのポケットへと押し込んだ。
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