第5話 不穏の足音

 ***


 ————詩津しづがパンジーの倉庫を出た直後。


 入れ替わるようにして、倉庫の通路を颯爽と歩く一人の男がいた。


 男の纏う明るい灰色スーツは上質で、シルバーグレイの髪は上品に整髪料で固められている。


 やけに身なりのよい老齢の男は、ウイングス・アロー号の所有権を引き継いだ、新徳しんとくホールディングスの実権を握る傑物だった。


 だが事業を拡大していく手腕とは裏腹に、社長自身は物腰が柔らかく、精神的ゆとりがうかがえる。


 その気さくさと寛容さから部下からの信望も厚い。


 縁側で茶を濁す老人とはまた違う聖職者のような穏やかさを醸す老人は、倉庫の警備員に優しくも凛とした声で話しかけた。


「警備ご苦労様。——どうだい、この部屋で何か変わったことはなかったかい?」


 まるで親戚のように気安く話しかけられて、頼りなげな青年はどう返事をして良いのかわからず、目を白黒させる。


 しかも、さきほどまで社長のパンジーを巡ってひと騒動あったところだ。


 その場に居合わせた警備員の彼は、千崎に口止めをされている手前、どうにも気まずい顔になる。


「……はい」


 警備員はパンジーの話を飲み込んで、なんとか声を絞り出した。


 だが人として半人前の青年の嘘が、賢老に通じるはずもなかった。


 新徳の大きな下がり気味の瞳は一瞬剣呑けんのんな光を称えるもの、青年はそれに気づかない。


 鷹を内包した老人は、獲物を罠にかけるごとく、いかにも焦燥しょうそうしている風を装って話しかけた。


「——君はどこかで花を見なかったかい?」


 新徳が唐突に出した言葉はさまざまな意味でとれる。


 対して警備員は「いえ」と言葉を濁した。


 新徳の口元がわずかにゆるむ。


 新徳はその部屋に何があるのかを知っていた。そして警備員の反応は新徳が求める花が何であるかを知っていると告げたも同じだった。


 新徳はあえて問いつめることはしなかった。混乱させて吐かせるよりも、油断しているほうがよりスムーズに内心を吐露すると、世事に長けた老人は知っている。


 新徳は弱者を演じ続けた。


「ここだけの話なんだが……実はオークション品に私物が紛れこんでしまってね……少し大きなパンジーの花なんだが、どこにあるのかわからなくなってしまったんだ。このままオークションに出されると困るんだが……これだけ品数が多いと、どこから探せば良いのやら……」


「————」


 肩を落として話す新徳を見て、警備員はかける言葉を躊躇うが――目の前の老人が気の毒なあまり、彼は槌田つちだや詩津のことを素直に話した。


 さきほどまで落胆していた老人は、光明を見つけたようにみるみる笑顔になる。


 青年は老人を連れて警備中の倉庫部屋に立ち入った。


「ありがとう。もう見つからないかと思っていたよ」


「いえ、お役に立てて良かったです。ですが……」


「ああ、触れるくらいなら構わない。うちの甥っ子——七生ななおも言っていたのだろう? これは私物なんだ。君達に怪我がなかったのなら、それでいい」


「恐縮です。本人たちも以後じゅうぶん気をつけると言っていました」


「そうかい。なら問題ない」


 警備員に導かれ、窓際のテーブルにある、ガラスケース前に立った新徳は、暗幕のような黒い布をさらりと剥がした。


 瑞々しく佇むパンジーが窓から差し込む光にさらされる。


 新徳はハッと息をのむ。


「……とても元気なようだね。よかった」


「そういえば皆、花瓶に水がないことを不思議に思っていました。動かしても水の重みも音もなかったとか。花瓶の底に湿らせた綿でも入っているんでしょうか?」


「それは企業秘密なんだ。それよりも……これを扱って怪我をした人は本当にいないんだね?」


「怪我ですか? 女の子が指に棘が刺さったと言っていましたが……それくらいで、怪我らしい怪我をした人はいません」


「……そうか」


「どうかなさいましたか?」


「いや……色々とありがとう。本当に助かった。君は持ち場に戻ってくれても構わないよ」


「とんでもありません。では、失礼いたします」


 警備員は素直に退出する。


「……ようやく見つかった——私の『看守warder』」


 新徳は淡く桃色に色づくパンジーを見据え、堪えきれない喜びで口元をほころばせるが、空っぽの部屋にはもう、その声を拾う者など一人もいなかった。


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