第4話 小さな事件
黒い布が滑り落ちたところで、中から現れたガラスケースが傾く。
颯爽と
「————せ——ぇふッ!」
持ち前の反射神経で、五十センチ四方のガラスケースを支えた
一歩遅れて状況を把握した
「——まあ! 私が倒してしまったのね。ごめんなさい——
「だ、大丈夫です……たぶん」
ガラスケースを支える詩津の視線は、自然とその中身に向いていた。
仰々しくかぶせられた黒い布に反し、中身は意外とこざっぱりしたもので——細い一輪挿しに生けられた白い花だけだ。
うちわ形の花弁が五枚綴られた、パンジーにしか見えない花だった。
色は漂白したかのように白く、大きさは掌ほどあった。
ひっかけた拍子に倒れた花瓶が、傾いた状態でガラスケースの隅にもたれかかっている。
今すぐにでも元の状態に戻したいところだが、商品に触れる権限を持たない詩津と槌田は、どうすることもできずに狼狽した。
「――どうかなさいましたか?」
詩津たちが対処に困っていると、室外で控えていた警備員がやってくる。
経緯を話すと、細く頼りない風貌をした警備員も困った顔をする。
「……僕にも商品に触れる権限はないんですよね……どうしましょう。上を呼びましょうか?」
〝上〟と言われて、詩津と槌田は顔を見合わせた。
商品が無事とはいえ、危険にさらしたことを咎められるに違いない。最悪クビになるかと思うと、詩津の胃がぎゅっと縮こまった。
ガラスケースを支え続けている腕も、緊張で心なしか重くなる。
「ハハ、そんな顔をなさらなくても、大丈夫ですよ。上を呼ぶとはいっても、商品を片付ける際に立ち会っていただくだけですから。いつもなら管理チーフがその辺をうろうろ——」
「なんだ?」
楽観的な警備員の言葉を、よく通る低い声が遮った。
開放中の出入口から、濃い灰色のスーツを着た青年が頭をのぞかせた。
段をいれた肩までの
一度会えば忘れない繊細な美形だ。
だが詩津は、別の理由で忘れようもなかった。海に落ちそうだったところを助けてもらったはいいが、髪を引っ張られた痛みは強烈だった。
詩津は最悪な恩人の顔を見た途端、自然としかめ面になるが、さっきまで軽い調子で話していた警備員は顔色を悪くし目を泳がせた。
まるで会ってはならない人物に会ってしまったような——。
「お、おはようございます……せ、
「何かあったのか?」
取締役支社長と聞いて、詩津と槌田の顔が強張る。
ウイングス・アローコーポレーションの取締役は十数名いるが、まさか目の前の青年がそうだとは思わず、詩津は口を大きく開けて美貌の青年を凝視した。
昭和中期まで財閥として名高かった
そのため、傘下に入ったウイングス・アローコーポレーションの役員も新徳ホールディングスの関係者で再構成されたという。
すなわち、
嫌なタイミングで現れた上役に尻込みする警備員は、詩津や槌田に気まずい視線を送りながら言いにくそうに説明した。
「……はあ。その、清掃スタッフがオークションの出品物にぶつかり、傾けてしまったようでして……」
警備員は片手でこっそり拝むような仕草をする。
ことを大きくするつもりはなかったようだが、超上層部の人間に見つかっては、どうすることもできない。
「またお前か。鈍くさい奴だな」
千崎は詩津を認識して、口角をわずかに上げた。
詩都が助けられたのはつい数時間前なので、さすがに顔を覚えられていたらしい。
だが上層部の青年が気さくに接する様子を見て、周りは知人だと勘違いしたらしく——槌田と警備員はぎょっとした顔で詩津を注視する。
「さ、さきほどはありがとうございました……」
だが詩津の声が聞こえているのかいないのか、
「なんだ——この程度のことで慌てていたのか? 片づけたいなら、とっとと片づければいい」
「そんなわけにはいきませんよ。彼女たちスタッフは商品に触れてはいけないと、徹底した教育を受けていますから」
「それは商品の話だろう?」
「……そうですが」
「だったら問題ない。これはオークションとは無関係だからな」
きっぱりと告げた千崎に、警備員は目を丸くする。
「は? 違うんですか?」
「これは取引先から預かったパンジーだ。考えてもみろ。切り花——それも生花をオークションに出すわけがない」
「僕はてっきり花瓶のほうが出品物かと……では、花はなぜここにあるんでしょう。ここにはオークションの商品しか搬入されていないはずですが」
「そんなこと俺が知るか……どうせ何かの手違いだろ。だがまあ、ここにあるほうが都合はいいかもしれん。出品物ではないとはいえ、大事な花だからな、伯父貴——新徳社長がわざとここに置いた可能性もある。……この花を『引き受けた』のはあの人だからな」
言葉とは裏腹に、千崎は目を細めて形の良い顎に指を添え、何かを探るように白い花を見つめる。
どうして花が倉庫にあるのか、一番知りたそうな顔をしていた。
「……あの、じゃあ、私の手で元に戻してもいいんでしょうか?」
痺れをきらした詩津が訊ねると、千崎は思案顔を崩し、意味深に笑った。
「元に戻すのは構わないが、花そのものには絶対触れるなよ?」
「——わかりました」
同じ体勢でいるのも限界で即答する。
詩津は傾いたままのケースに手を突っ込み、ガラスに寄りかかる花瓶をいったん立て直す。
そしてガラスケースは脇に置き、中にある花瓶の位置をさらに整える。よく見れば、花瓶の後ろには物々しいお札のようなものがセロハンテープで貼られていた。
「————ッ……たっ」
ふいに、花瓶の場所を正していた手がチクリと痛んだ。
絶対に触れまいと思っていたもの、花がしおれるように頭をさげ、詩津の手に触れた。
まるで花が自分から触れてきたかのようで、詩津は瞠目する。
指先には玉のような血が滲んでいた。
「だから触れるなと言っただろう……お前の頭は幼児並みか」
千崎はどうも険のある物言いしかできないらしい。それとも詩津が何でも言い易い雰囲気なのか——どちらにせよ言われたほうは気分が悪い。
詩津は嫌な顔を隠さないもの、相手が上司だけに反論まではしなかった。
「大丈夫?
ガラスケースを磨く
詩津は表情を和らげ、傷ついた指先を口に含みながらかぶりを振った。
「……だいぼうぶへふ。——ふは、花の棘がささったみたいで……」
「……本当に? ガラスで怪我とかしてない?」
「ええ。問題ないです」
「本当にごめんなさいねぇ。先輩なのに迷惑かけちゃって……それにしても、パンジーに棘なんてあったかしら?」
槌田は首を傾げるが、詩津はさほど気にせず、苦笑しながら花瓶をようやく元の位置に戻した。
「このまま黒いカバーをかぶせていいんですか? 間違えて出品されませんか?」
切り替えの早い詩津は、千崎の指示を仰ぐ。
これ以上印象を悪くしては、この先の仕事がやりにくい。
詩津はその場を繕うように愛想笑いを心がけた。
「そうだな。布はかぶせてくれ。そいつの目は隠した方がいい」
「でもお花って陽に当たったほうが、元気になるんじゃないですか……?」
詩津はおそるおそる訊ねるが、千崎はキッパリと退ける。
「そいつは少々陽に当たらなくても大丈夫だ。今もしゃんとしているだろう?」
「……そうでしょうか——あれ? ほんとだ」
千崎の指摘通り、花はまるで鉛筆のようにしっかりと芯を伸ばしていた。
さっきまでしおれるようにおろしていた花弁も瑞々しく開いている。
「あれ? さっきはもっと元気がなかったような気がするけど……。あ、この花、よく見るとピンク色だったんだ」
純白だと思っていたパンジーはほんのり桃色をしていた。淡いので気付かなかったのかもしれない。
「あら、このパンジー……こんな色だったかしら?」
槌田も同じような感想を述べる。白い花だと錯覚していたのは詩津だけではなかったらしい。
「オークション品と一緒に保管されているくらいだから、珍種でしょうか? 色の変わるパンジーだったりして……」
真剣に花を眺める槌田につられて、詩津も花を見つめる。
こんな機会でもなければ拝めないような貴重な品なら、目に留めておきたいと思うのは、庶民ゆえの好奇心だろう。
「——仕事はいいのか?」
物見遊山で花を囲む詩津たちに、千崎が笑いを含んだ声をそそいだ。
「あッ! もうすぐホールに移る時間だ。まだ清掃も終わってないのに!」
詩津は腕時計をちらりと見て、予想以上のタイムロスにショックを受ける。
夕方までスケジュールが埋まっているというのに、パンジーの処理で思いのほか時間を使っていた。
「仕事があるなら早く行け。——ああ、それとパンジーは商品じゃないからな、管理責任者に報告する必要はないぞ。私物を持ち込んだ新徳氏が悪い」
千崎は厳しそうな顔に反して、大雑把な性格をしているらしい。微妙に論点はズレているが――些末なこと、とばかりに言って、何を咎めることもなく立ち去った。
若い役員が退室し、緊張の糸がほどけた一同は揃って大きく息を吐く。
「――大事にならなくてよかったですね。では僕も持ち場に戻ります」
「ありがとうございました」
詩津と槌田は、警備員に礼を言って、掃除用具を片付ける。
「この後だけど、賀川さんは先に行ってくれる? 残りの二部屋は私一人でも大丈夫だから」
「私も手伝います。少しだけど、時間がありますし」
「でも賀川さん、休憩もとらないと」
「早く終わらせて一緒にとりましょう、休憩」
「そんな、私のせいで悪いわ」
「そんなことありません——ほらほら、行きましょうよ!」
詩津は槌田から清掃用具のワゴンを奪い、次の部屋へと走った。
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