第3話 どこか姉に似た人
土曜日の早朝
十一月上旬にしては暖かい日が続くもの、朝の涼風が服越しに刺さる。
重ね着の長袖にデニムパンツの
足下を続くコンクリートの船着き場には一定のリズムで低い波が叩きつけられ、水滴と一緒に潮の香りが飛散する。
地元から滅多に出ない詩津は密かに高揚していた。遠地に一人という状況に、不安もあるが、好奇心が勝る。
ただ詩都は方向感覚がないため、知らない土地では困ることが多い。
体内に方位磁針を備えていないのかもしれない。地図を回さないと読めない上、港でバイトの集合場所に到着するまで三十分もかかった。
目的の波止場には三隻の客船が接岸していた。
乗船予定の船を間近で確かめるまでもなく、一番奥にある船がそれらしい。
手前二隻が子供に見えるほどの巨船。白い体に書かれた『Wings Arrow』という金文字が一目瞭然だった。
今回のオークショニアツアー主催社であるウイングス・アローコーポレーションの所有船舶だそうだ。
ウイングス・アローコーポレーションとは、今でこそ古美術商の中でも大手だが、元は『
三代目が若手陶芸家を発掘し、飲食店舗などの顧客を大量獲得したことから急成長を遂げた後、
会社概要を棒読みで語る研修教員を思い出しながら、詩津は眩しい純白の船を仰いで歩く。
客を乗せての出港は夕方だが、スタッフにはそれまでの仕事がある。
脇を見れば、同じように大きな荷物を抱えた人間が、まるで甘いものに向かって列をなす蟻のように道を作っている。
乗船アーケード手前ではチケットを確認する作業員が見えた。
詩津はボトムのポケットに手を伸ばす。
――が、そこにあるべき感触がないことに気付き、足を止めた。
最寄駅で確認した時は確かにあった。なのに、どういうわけか乗船チケットがポケットの中で見つからず、詩津は立ち止まったまま、反対側のポケットも探る。
「邪魔なんだけど」
「――す、すみません!」
人の流れをせきとめて右往左往するうち、詩津は後ろから通行人にせっつかれ、慌てて乗船の列から外れた。
だが道をそれたはいいが、慌てたせいか勢いあまって足元を崩す。
しかも場所が悪かった。
体が大きく傾いだ先はちょうど岸が途切れている。
詩津の頭は、紺碧の海面へと吸い込まれるようにして落ちてゆく。
――――ヤバイ、落ちるぅ!
防衛本能で懸命に何かを掴もうとする両手が虚しくも空を切り、快晴を仰ぎながら半泣きになる詩津。
と、その時だった。
「――ふんぎゃッ」
体を半分ほど海側へ投げ出したところで、頭皮が引っ張られる感覚とともに港へと引き戻された。
冷たいコンクリートに座りこんだ詩津は、目の端に玉の涙を浮かべ頭皮を押さえる。
髪をごっそり抜かれたような痛みに声も出ない。
咄嗟のことですぐには判断できなかったが、どうやら誰かに助けられたらしい。
「――馬鹿の長い髪も使いようだな」
ふいに高いところから声がして、詩津は頭を押さえたまま、おそるおそる顔をあげた。
背後では薄いフロックコートを羽織った長身の青年が、切れ長の双眸を細めて冷笑していた。
二十代半ばくらいだろうか。段を入れた肩までの髪は
肌は東洋人にしては白すぎるくらい白く、高い鼻梁に切れあがった瞳は芸術的に美しい――ただ、表情はどこか固く、繊細かつ厳しそうな印象があった。
「な……な……」
氷の彫像を思わせる鋭利な美青年の手には、詩都の長い髪の先が握られていた。
海に落ちるのを止めてくれたらしいが、そのやり方はかなり強引で、一歩間違えれば詩津の髪がむしられていたに違いない。
「うぅ……す……すみません……」
詩津は怒りに顔を強張らせながらも謝罪する。
助けられたとはいえ、かわりの被害もさんざんだったが、男の不遜さが
男は呆れた顔で詩津を一瞬凝視するが、握っていた髪を放り捨て、どうでもよさそうに無言で去っていった。
その歩き姿も見た目を裏切らずスマートで美しい。長身でほどよい体格だが、まるで羽があるかのように、重みを感じさせない足取りだった。
詩津はしばしの間、頭皮の被害も忘れ、青年の後ろ姿に呆然と魅入った。
だが失くしたチケットのことを思い出し、慌ててポケットというポケットを探る。
そして情けなくも――ないとばかり思っていた乗船券は、最初に探ったポケットから見つかった。
ハプニングに見舞われながらも、どうにか
乗船して最初に通されたのは、従業員用の更衣室だ。
制服として深緑のワンピースの他、フリルがふんだんにあしらわれた白いエプロンが支給された。長髪はお団子にするのが決まりだ。
混雑したスタッフルームで身支度を整えた後は、船の中腹にある大ホールに集められ、大雑把な仕事の説明を受けた。
朝は船内いっせい清掃から始まり、その後は区画別、個別に仕事が割り振られる。
船内ではマジックショーなどの催しもあるが、メインイベントはオークションだ。そのため、出品物の管理に一番人員が割かれた。
オークションの出品物は三つの区画に分けて管理された。
中世から残っている衣服のボタンなど低価格商品もあれば、希少価値のブランドバッグや、さらには国宝級の古美術品もある。
商品価値のレベルを三段階に分け、それぞれ厳重な警備の下、管理されている。
ちなみに防犯上、管理責任者とオーナー以外は、自分がどういったレベルの商品を管理しているのかを、知らされてはいない。
詩津は五十代半ばくらいの女性スタッフとともに、商品B区画の清掃に振り分けられた。商品に触れずに清掃するのがスタッフの仕事だ。
説明会の後、詩津は清掃用具のワゴンを引き、担当する倉庫に入った。
船内どこもかしこも深紅のバラを敷き詰めたような、赤絨毯が敷かれており、倉庫部屋も同じだった。
そして倉庫の最奥には黒い布で中身を隠した四角いケースが無数に陳列されていた。
「あんまり高額な商品の部屋じゃないといいけど……」
詩津が肩を竦めて呟くと、仕事で組むことになった恰幅の良い
「あの
「えっと……
「はい、大丈夫です」
「じゃあ、照明お願いしてもいい? 私、脚立がどうも苦手なのよ。足が少し悪くって」
「わかりました」
「ごめんなさいね。嫌なこと押しつけちゃうみたいで」
「いえ――私、家でもこういう仕事はよくやるので、平気です」
「そう? じゃあ申し訳ないけど、お願いするわね。賀川さんみたいに若い人がいてくれると助かるわぁ」
詩津が照明を引き受けると、
他の部屋からも次々と同じような騒音が流れてくる。
手押しワゴンから雑巾とスプレー洗剤を取り出した詩津は、折りたたみ脚立を組み立て、スズランのシェードが五つぶらさがった照明に手を伸ばす。
三つ目のスズランを拭き終えた頃には、
「照明終わりました」
「そう。こっちもあと少しだから待っていてくれる?」
詩津に振り返りそう言った槌田が、再び窓に向いた、
――——その時。
ふいに槌田の肩が近くにあった黒い布をひっかける。
「だめ! 槌田さん!」
「――え?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます