第2話 結局、丸め込まれる
「……えっと。
自分の未来を思わせる、へしゃげたアイスカップから目が離せない
もはや杜季の手中だが、まだ食べてはいない――と、あきらめ悪くも最後の綱に
「やっぱりあんたはものわかりがよくってイイわぁ。……実はさぁ、再来週の土日なんだけど、あたしが入るはずだったバイト、急に行けなくなったんだわ。だからさ、あんたが代わり行って来いよ!」
――――『行って来いよ』ときたか!
勢いにのまれ、詩津は呆然とする。断わるという選択肢を与えるつもりはないらしい。
そこでふと、詩津は二、三秒おいて、重要なことを思いだす。
「……え、ぇえ? ちょっと待って……その週はあたし、ウインターカップの予選が……」
「どうせあんた、レギュラーじゃなくて、補欠っしょ? うちのバイトのほうが儲かるし、絶対お得だって。――ああ、ちなみに、紹介料として給料の三割はもらうから」
「待ってよ! 大事な試合だし、絶対無理!」
給料うんぬんはさておき、詩都は再び猛獣に噛みついた。補欠でも選抜に加えてもらい、きつい練習を頑張ってきたというのに、寸前で辞退なんてとんでもない。
たとえ今後、杜季の陰湿な
だがそんな詩津の反応も想定内だったらしく、杜季の目が怪しげに光る。
「大丈夫だって。ちゃんとあたしが三日前、あんたの顧問に連絡しておいたから」
「は、は? ……どういうこと?」
「実は
「練馬のおじいちゃんって誰!」
両親は家族の反対をおしきって結婚したため、祖父母や親戚関係とは疎遠だった。健在かどうかも知らない祖父の話を持ち出されて、詩津も反応に困る。
「あたしが練馬のじいちゃんって言ったら、そういうじいちゃんが存在するのよ」
「……状況が飲みこめないんだけど」
「あんたのじいちゃんが危篤ってことで休みとったのよ。作り話に決まってるっしょ。そんくらい察しなさいよ」
「な、なな――なんてことするのよ! もう、やめてよ! ……今からでも先生に電話を――」
詩津は慌てて一歩踏み出して――前のめりに崩れる。
「ごめーん。あたしの足長くってぇ。ひっかけちゃったあ?」
フローリングに突っ伏す詩津の背中に重みが加わる。杜季に踏まれている。
「もうヤダこの人……」
詩津は杜季の足を押しどけてふらふらと立ち上がる。さほど高くはない鼻を涙目で押さえる詩津に、杜季は無情にも再びアイスを押しつける。
「せめてスタメンだったら邪魔しない(とは思わない)けど? 補欠なら――諦めろ、妹よ」
「補欠でもうちの部ではすごいことなのに」
「知ってる。あんたんとこのバスケ部人気あるわよね――倍率だけ。でもどうせ補欠ならクジ組っしょ? 他にも
「大会を間近で見られるメリットがあるの!」
「見るだけならMBAでも行ってこい。――いや、今回のバイトなら、MBAは無理でも……あんたを中途半端なバスケ道に追いやったドラマのブルーレイBOXなら買えるわよ。たった二日のバイトで」
「え? ほ、ほんとに――――?」
不覚にも、詩津の目が一瞬輝く。だが慌ててかぶりを振った。
長く一緒にいるだけに、
「べ、別に追いやられたわけじゃないけどさ……でもいくらなんでも……ブルーレイBOXなんて、ねぇ? ……簡単に買えるものじゃないでしょ?」
「マジマジ。姉はあんたで遊ぶのは好きだけど、嘘はつかない」
「……そうかな……」
「疑うなら、これを見ろ!」
杜季がテレビボードから引っ張り出したのは、『乗船契約書』の表紙をつけた書類の束だった。持ってきたバイトが『船上』であることも驚きだが、その仰々しい書類の量に眉をひそめた。たかだか二日のバイトに山ほど契約書を書かせるのは、あきらかにおかしい。
「……履歴書に、契約締結書と船上保険の加入はなんとなくわかるけど……商品の守秘義務概要とか乗船者の秘匿について? ――って、一体どんなバイトなわけ? 情報漏えいを気にする書類ばっかだけど」
「富裕層向けの船上オークション――そのスタッフよ。仕事は商品管理補助やら船内清掃やらホールスタッフやら……まあ、その他諸々? 人数がある分、仕事はそんなに苦労しないけど、拘束時間は長いわよ。四日間だし」
「ちょっと待って、さっき二日って言ってなかった?」
「船旅は一泊二日。でもその前に研修が二日あるのよ。今週の土日にね。休憩中は客に紛れて船旅を楽しめる最高のバイトよ。しかも日給二万五千円。研修期間は五千円だけど」
「ぜ、全部で六万円?」
「そうよ。あたしが三割とるけど。――ね? どうよ、すごいでしょうが」
高校生の身分で高給なバイトは珍しい。いや、成人アルバイターでも四日で六万は破格だ。そんな金額をちらつかされれば、いくら詩津でも揺れた。
詩津自身、無駄遣いをするほうではないが、六万円もあればおやつを何度とられても苦にはならない――そんな小さな幸せを想像して酔い、落ちそうになった涎をパジャマの袖で拭った。
同じ年頃の少女なら、服や装飾品に使うところだが、そういった物への興味が薄い詩津は、胃袋の願望が先に立った。日ごろから美味しいものは片っ端から姉に取られているだけに、甘味に対する飢えとストレスは絶頂なのだ。
杜季はさらに甘く囁く。
「そんだけあれば……一般客のブッフェにも混ざれるわねぇ。あんたの好きなスイーツでもなんでも、好きなだけ食べられるわよ? 一流ホテルのシェフが作るチョコにケーキにマカロン……さぞ美味でしょうね……」
蜜の囁きに、詩津のプライドや疑念などはあっさり頭の片隅に追いやられた。
詩津はどうしても緩んでしまう口元を押さえながら、杜季がミニテーブルに広げた契約書を眺めた。紙の上にごちそうが乗っているようにさえ見えた。これほど食に執着があるとは、自分でも驚きだった。
「ほーらほら……あんたが行かないなら、
「――――ま、待って!」
「どうする? 始終ベンチで応援組の二次予選に行くか、あんたにはもったいないくらいのセレブディナーを口にするか……」
詩津はたとえ秋予選が観戦のみでも、それを決して無駄だとは思わない。ベンチでも、他人のプレイから得られるものは大きい。仲間チームを応援するのだって爽快だろう。
ただ正直なところ、バスケは好きだが学生生活を捧げたいほどのめりこんでいるわけでもなかった。流行りのドラマに流され、勢いでバスケ部に入ったというのが本当のところだ。
そんな根のはった意欲もない詩津が、誘惑に勝てるはずもなく――チームプレイヤーとしての誇りは、六万円の前にあっけなく砕け散る――。
「……やっぱ行く」
「うっし。それでこそあたしの妹だわ」
詩津がようやく出した答えを聞いて、杜季は満足気に個性の強い顔を輝かせ、カップアイスを詩津の掌にひょいと乗せた。
「……ところでさ、なんでそんな割のいいバイト……杜季ねぇが行かないの?」
さっさとリビングから出ようとしていた杜季の背中がギクリと硬直した。妹の素朴な疑問に、姉は「彼氏がややこしくってぇ」と言い置き、逃げるようにして部屋を出ていった。
詩津は首を傾げながらも、杜季の言い訳じみた言葉に疑問は持たず、目の前にある幸福の証――少し溶けているかもしれない、チョコクッキーアイスのふたを取る。
「……あいつ……」
妙に軽いと思っていたカップの中身は空で、かわりに『ウイングス・アロー号』と書かれた乗船チケットと飴玉が三つ入っていた。
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