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 明け、高校最後の一年が来た。僕らの部活に人は来なかった。このままでは廃部かもしれないねとしいちゃんは笑んだ。この頃彼女は髪を黒く染め戻した。僕らは部室に集い受験勉強と向かい合った。進路指導部の先生が「経済学部なら数学が必須不可欠」と僕を脅す。春先の一斉模試でしいちゃんはB判定をとり、僕の前でふふふんと掲げて見せた。志望先を決めかねる僕はしいちゃんと同じ大学を書いて出した。Dときた。母が煩いだろうからこの時の結果表は学校に捨ててきた。やることはいくらでもある。毎月の小テスト、中間試験、期末試験、模試、補講、予備校。しいちゃんは以降なかなかBの壁を越えられなかった。僕は何度も面談を重ねた。先生はいつも同じことを言う。「志望先を見据えねば成績も上がらない」「経済は大学によって必須科目も違うんだぞ」「なんで経済学部なんだ。言語化できないなら目指しても挫折するだけだ」

 二人きりの文芸部は秋でもって閉じる。文化祭を終えたら部室の鍵も返さねばならない。文芸部誌に「Eternelle」などと名付けておいてたったの二代で潰えるのか。部誌を興すたび数代で廃刊しちゃうんだと顧問の先生は笑い、あの時先輩達と僕らとは歴々の部誌の前で「もう二度と絶やさないように」と願を掛けた。しいちゃんは言う。「ごめん、私書けても短編一つだわ」僕は応じた。「大丈夫、超大作のプランがあるから」と。

 僕にとっての文芸部は高校生活の全てだった。そこにはいつもしいちゃんがいた。がっちゃんも無く、きょうちゃんも無く、僕としいちゃんとがいた。朝はバス停で一緒になり帰りもそのまま共にする。幼少の頃に囲繞した二人があるわけだ。僕もヒーローになりたかった。三振を連発する無力の自己が嫌いな割に打破する気概も無く、他者を巻き込むだけの力も無ければ、何者でもありはしない。僕は「夜半、何らの音もせぬ時節にあれば、」と書き出した。昨年そうしたように身近なものに准えればきっと遂げられると考えたのだ。僕にはこの町がある。心にはがっちゃんきょうちゃん二人への憧れがある。僕の側にはいつだってしいちゃんがいる。そして僕には僕こそがある。

 志望先は祖母の地元とした。祖母がどのように育ち、どうしてこの千歳で手を腫らすのか知ってみたいと思った。母も先生も「数多ある経済学部の中からなぜここなのか」と問う。僕は家族にだけは真意を打ち明けた。夏、進路を決めるにはギリギリの時期だった。祖母は湯呑みを見つめるばかりで何も言わない。怒り金切り声を発す母を制し、父が「妥協の産物では無いんだな」と僕を見る。頷く。

 僕は脇目も振らず勉学に集中した。その甲斐あってか早々にA判定にまで辿り着く。僕はふふふんとはしなかった。この頃のしいちゃんは本当に辛そうだったから。千歳の夏は気がつけばあり、意識した途端に走り去る。受験生の夏はこうして僕らを振るい落とす。

 就寝前の二時間は執筆に充てた。書きたいことならいくらでもあった。何を思いがっちゃんやきょうちゃんを見ていたか。しいちゃんの隣で僕が何を感じていたか。締めの一文は「遠く地表の白と溶け合い新たな標となった。」と記した。僕のこれまではここ千歳で、みんなと共にあった。「どこまでも途切れ無く続く空は静寂なれど多様な色をはらみ、遠く地表の白と溶け合い新たな標となった。」とした。たぶん誰もが気がつく。僕の恋心の有りし様に。

 編纂は全て僕が担った。秋口、ようやくとA判定をもぎ取ったしいちゃんは推薦入試へと臨んだ。僕はしいちゃんの出してきた作品に目を通す。私小説だった。いかにこの町が好きでどれだけ部を大切に思っていたかと。だから私は外へ行くのだと綴られる。何だよ、しいちゃんだって同じなんじゃないか。僕は本棚からバンに齧られた書を取り出しページを繰る。隙間から白詰草が落ちてきた。僕はそれをしいちゃんに渡す部誌に挟み込んだ。部室の隅に積まれる部誌の束だが、しいちゃんには文化祭の日までどうか開かないでほしいと厳命していた。「無理、なんでよ、意味わかんないて」抗議を寄越すしいちゃんに、校正のため生原稿を読了した顧問の先生が口添えをくださる。僕は目礼した。しいちゃんは約束をしっかり守ってくれたようだ。当日朝、おはようの代わりに「部誌、もう読んでいいでしょ」としいちゃんは言う。僕は無言で差し出し、バスへ乗り込んだ。原稿用紙にして二百枚はあるそれを僕はほとんど推敲しなかった。ぶつけた衝動をそのまま見てほしかったのだ。僕らはそれからしばらく何も喋らなかった。部室にはこっそり鍵を掛けておいた。たった二人の時間がほしかった。昼前になりやっとパタリと音がし、隣から小さく「馬鹿」と聞こえた。しばらくは前だけを見ていた。

 しいちゃんの合格も決まり十二月、僕らは集ってきょうちゃんを応援した。きょうちゃんも進路は決まったと聞く。がっちゃんはここ千歳で就職を決めていた。きょうちゃんが高校記録を打ちたて「やっぱきょうちゃんには敵わんなぁ」と坊主頭のがっちゃんが漏らす。「したっけきょうちゃんは無敵かな」「敵無しだろうよ。俺らのきょうちゃんなんだから」「変な話、がっちゃんはきょうちゃんになりたいって思ったことある?」がっちゃんはからからと声を上げた。「意味分かんねて。俺はがっちゃんとずっと競ってたい。きょうちゃんはきょうちゃんだけさ」

 二月、僕も第一志望に受かった。僕はしいちゃんの家まで駆けた。深く重なる雪の中を体全体でもって泳ぐようにし、辿り着けば、しいちゃんは外に立っていた。耳の先まで赤く火照る彼女を抱きとめ、歯の根の合わぬ僕らはキスの代わりに鼻先を擦り合わせた。体の熱に服が重く湿りゆく。無敵だと思った。僕は僕のままで無類だった。そしてこの日に初めてセックスをした。冷え切った体を二人湯船で癒やし、しいちゃんは恥ずかしいからと顔を覆った。露わとなる乳房に手を添えそのまま交わった。僕が「もうそろそろ」と漏らすと彼女は目線をくれる。「このままずっと見ていたい」僕だってそうだ。「広島と福岡とならきっと近いね」「新幹線で一時間半て」「札幌へ行くようなもの。ね、来て」

 ある日のしいちゃんが言う。

「雪って本当は青いんだよ」僕はその問いかけの真意が分からず生返事をする。「雪は青い波長だけ突き通しちゃうから、ほら、覗いて」しいちゃんが雪壁にスコップを突き立てくり抜く。しゃがみ顔を捩る僕の頬にしいちゃんの髪が触れ、僕は千歳の何も分かっていなかったのだと思い知ったのだ。

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