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 部の卒業生が文芸同人誌の即売会に出品するからと、ある日僕らは札幌まで出た。その人は在学中しいちゃんと同じ賞を獲ったのだと先輩は語り、僕はそんなことより、連れ立って街へ出ることの方に興奮していた。しいちゃんの私服だなんて久々に見る。黒色のぴっちりとしたパンツに白いシャツ。お洒落に疎い僕ではこのスタイルの呼称は分からない。大人びて見えるしいちゃんを、先輩は「かわいいね」と評していた。先輩すら一言なのだから僕にそれ以上の語彙が無いのも仕方がない。電車が北広島駅を通過したころ「がっちゃんもう部活出れてるんかなぁ」としいちゃんが発した。日中というのに日は弱く、そろそろ雪虫が冬を連れて来る。僕は思わず漏らしてしまった。

「しいちゃん、きょうちゃんと付き合ってるんだろ。きょうちゃん元気?」

 しいちゃんは慌てたように頭を振った。彼女の顔は見るがうちに赤く染まる。長い指を大きく拡げパタパタとやるしいちゃんの姿にかつてのオトコ女は見えなかった。

「何、違うってば、もう」

「ちょっときょうちゃんて誰」

 座席の端から身を乗り出すようにして先輩が覗き込む。

「違うんです、違うんですよ先輩。単なる幼馴染ですて」

「えぇ何その焦りよう。てかてっきり二人くっついてんのかと」

 しいちゃんはそれきり黙ってしまった。もちろんこの時の僕らは付き合ってなどいない。けれどこんな言葉が口をつくのだから僕の方は既に好いていたのだろう。僕はがっちゃんやきょうちゃんみたくぐいぐいと進んでいける人物に憧れていた。憧れるわりに主体的な行動をしない。どうせ僕はこれきりの人間だからと諦観して自己を見やる。この夜の僕はしいちゃんを想って陰茎を握った。彼女は僕を見て顔を赤くしてくれるだろうか。潤む瞳に僕は映るだろうか。主体的に求めないから乞うばかりの人間ができあがる。この気色の悪さにやっと気づけたから今の僕は大人になれたのだ。

 件の卒業生は本の代金をとらなかった。僕らの部誌を手渡したら「後輩たちからお金はもらえないし。私のと交換ね」と。僕らは今年も部誌を作っていた。この年、僕は野球部が甲子園に出場する中編ものを執筆した。がっちゃんをモチーフにしたら筆が乗りいくらでも書けた。僕にとってのがっちゃんは身近な主人公だったのだ。

 ……あれは卒業間近、しいちゃんと肌を重ねた時だったはずだ。彼女は僕の前髪をかき上げながら「覚えてる? おばあちゃんにすごく怒られたよね」と口にした。しいちゃんの瞳が真っ直ぐ僕にぶつかる事後、僕はきちんと僕でいられた。僕はぶら下がるコンドームを括りながら「何」と正視できぬまま応じた。

「小さな頃のこと。がっちゃんのバットが飛んでっちゃって、きょうちゃんの顔に当たったでしょ。ベースに鼻血がついちゃってさ。すごいね、きょうちゃんあの時泣かなかったよ」

「覚えてる」

「ちょうどおばあちゃんいて、みんなして怒られたね。おばあちゃん怖かったなぁ。なんか女の子まで一緒に怒られてさ。私ら別に野球してたわけじゃないのに」

「そうだっけ。そこまでは覚えちゃ無いや」

「そうだよ。でもね、違うの。あの時きょうちゃんにハンカチを貸して、小川でベースを洗ってあげたでしょう。私、あの頃から好きなんだよ」

 そう発したしいちゃんをよく覚えている。上気した頬に朱が差し、まるで我が家の寒椿のようだと思った。しいちゃんは僕の背によく腕を回した。口を尖らせた。臆する僕が見ない振りをすれば自ずから唇を寄せた。こんな時だ。受動的な僕が愛を実感したのは。しいちゃんはちゃんと好意を示す。僕はどうだったか。僕は何を与えたろう。

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