第2話 第二書架 —コクマ・ライブラ—
パタンと慎ましい音を立てて閉じられる扉。
話も聞かず出ていってしまった婚約者に、シエルはたまらず頬杖をつく。
「はぁ……」
「そうため息をこぼすものではありませんよ」
少女が消えた後の室内に、シエルのものではない声が響いた。
落ち着いていて、それでいて芯の通った声音。
アントン・アルトーラ
完全に染まりきった白髪をオールバックにまとめ、柔和な顔立ちに厳格な表情を携えたシエルの従者だ。
齢百を優に超えている彼は、歳不相応なほど真っ直ぐ伸ばした背筋のままシエルの脇に立つ。
「いくら王が決められた婚約とはいえ、婚約者なのです。そう無下に扱ってしまっては彼女が可哀想ですよ」
そう言葉が降ってきて、シエルの目の前にカップが置かれる。
注がれていた紅茶からは湯気と共に香ばしい香りが揺らめき立ち、シエルの鼻孔を通り抜けていった。
シエルの好物である紅茶。
しかし、浮かべる表情は逆に苦いものだ。
「そもそも、俺は婚約者なんていらないんだよ。結局は俺を国に繋ぎ止めるための道具でしかないし、ただの生贄じゃないか。ティアだってそれが分かっているからこうして毎日顔を出すんだろ?」
「そう口に出すものではありません」
優し気ながらも、その声にはたしかな叱責が含まれていた。
だが、彼が否定しないのが何よりもの証拠であり、それこそが少し前にシエルが感じた罪悪感の正体だ。
——ティア・ソフニールは王国に不要である。
王国は、かの帝国に次ぐ実力主義だ。
司書による急成長の背景には、たしかな実力が必要不可欠だった。それ故に、次代の王国を担うものにはそれ相応の力が求められる。
「全てを兼ね備えた次期国王確定の兄。姉二人は力と知恵をそれぞれ……これも、すでに嫁ぎ先は有力な貴族の元に決まってる。でも、ティアだけは何も持ってなかった」
「何も持っていないというのは言い過ぎな気もしますが。事実、剣術は誰よりも秀でています」
「ティアが努力しているのは知ってる。でも、知識は兄にも姉にもまだ届いていないし、最も必要な魔術の才能からは見放された。こればっかりは後天的に伸ばせるのも限度があるから……それに知ってるだろ? 重要度でいえば王国で剣術は魔術に勝てないってことは」
「…………」
黙すアントン。
分かりやすい肯定だ。しかしシエルも彼も、決して剣術を軽く見ているわけではない。
剣術という努力のみで積み上げる技術と、魔法という知識を前提に才能さえあれば最低限の能力が約束される技術。その二つを天秤にかけた時、どうしたって王国という国では魔法に傾いてしまうというだけだ。
「……どれだけ努力を重ねても、王国の基準でティアの重要性は上がらない。血筋は最高でも、持ってる素質のせいで他の貴族には嫁げない。なら、知識さえあれば最低限の活躍が出来る司書を繋ぎ止める鎖にするのは合理的な判断だと思うよ」
実の娘に下す判断としては、最低だとしても。
国の頂点から下す判断としては、最高だろう。
「子を成すための道具……たしかに、俺と彼女の間に子供が出来れば王国は本当の意味で司書を手に入れることになる。こんな王から直接依頼をされても受けるかどうかわからない不安定な兵器より、どこでも運用できる兵器の方がいいよな」
アントンは何も語らない。ただ、シエルの愚痴を聞いているだけだ。
そんな実直な従者に肩をすくめてシエルは続ける。
「それで俺はお役御免。司書の力は子供に継承され、従者が一人しかいない、自分の領地すら持ってない名ばかりな貴族は王国から名前を消すっていうわけ。そして、残された子供は王国に従順な兵器として適切な育成、運用がされる」
大陸で覇を唱えるのか?
それとも、このまま変わらないのか?
大陸北西に位置する帝国。北東に位置する聖国。かの二国との緩衝地帯となっている数国を挟んで王国は大陸南西部を制覇している。これ以上勢力を伸ばすのであれば東方向に伸ばすしかないが、そうすれば聖国が黙っていないだろう。
武力でいえば帝国が危険ではあるが、最も歴史の長い聖国は得体が知れない——
……いや、どうでもいいか。
思考する途中で、シエルは考えを放棄した。
「人間の一生なんて短いのに、なんでそんなに生き急ぐんだろうな」
「それは私にも分かりかねますな」
「はぁ……俺は毎日本を読んで一生を終えられればそれでいいのに」
「ははは、あなたが本気で読み続けると、次に出て来る時には知り合いは皆いなくなっています。それすら、王国も存続しているかどうか」
アントンの笑い声が木霊する。
彼が冗談で言っているのかはシエルには分からない。が、シエルが本気でそれをしようとすれば、本当にそうなることを彼は知っている。
「……まあ、アントンがいなくなってるのは嫌だから、少しは我慢するよ」
「お願いします」
「さて、休憩も済んだし……そろそろ戻るかな」
紅茶を空にして。
シエルは軽くなったカップをアントンに渡すと、腰掛けていた椅子に力なく背をもたれさせる。
「すぐにお休みで?」
「いや、気分転換に本でも読んでから休むよ。レグランド侯爵が訪ねてくるまでは——」
「ええ。呼ばせていただきます」
「よろしく」
集中なんていらない。
もはや呼吸をするように、シエルは己に宿る魔法を行使した。
「
暗転する視界。
一瞬に満たない暗黒は、次の瞬間には違う世界へと変換された。
そこは、永遠に続く書庫だった。
中央にある空間を除いて円形に列を成す書架の群れは永遠に続き、空中には無数の本が浮かんでいる。
蒼穹は暗い闇に沈んでおり、本と共に浮かぶ光球が辺りをぼんやりと照らしていて。
「さて、と」
違う世界に移ったシエルはおもむろに手を伸ばし、無造作に宙に浮かぶ本を手に取った。
「■魔外■……古の魔女も恐れた禁術書か……」
すでに読み終え、内容すら完全に頭に入っている本だ。
しかしそれは他の、この空間に浮かぶすべての本で同じことがいえる。
——この空間に存在する本は、全てシエルの持つ知識なのだから。
「まあ、何でもいいか」
知識が有ろうと無かろうと、どうでもいい。
本は良い。知識は永遠で、消えることは無い。置いていくのはいつだって読み手で、読まれる側が置いていかれるだけだから。
本を開き、
数秒ほど経つ頃には、シエルの意識は本に吸い込まれていた。
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