額縁の世界に物語を

 真澄の部屋にはベッドがあったけれど、折角のお泊まりだからと布団を2組並べてくれた。

 風呂上がりの艶の増した黒髪を丁寧に乾かすのを眺める。こういう姿を見られるのは幸せなことなのかもしれない、と陽翔は口元をむずむずさせた。


 シックなパジャマですぐ隣の布団に潜ってくれることに、どうにも落ち着かない気持ちにさせられる。なのに、こっちの気持ちなんて知らないとばかりに大きな手が伸びてきて、陽翔の髪を梳かしてくれる。


 電気を消しても、月明かりに照らされてお互いの顔はそこそこ見えた。相手がどんな表情をしているかぐらいは、余裕でわかる。カーテンを閉めきってしまってはサンタがここを見逃してしまうかもしれないという、ありがたい配慮によるものだった。


「陽翔は何頼んだの?」

「ゲーム」

「ふふ。ゲームばっかり」

「だって自分じゃなかなか買えねーんだもん」

「来年には中学生でしょ。お小遣いアップしてもらえるかもよ」


 うん、と頷く。さっき真澄の両親に感謝しておいてなんだが、もう1年だけでも遅かったらなぁ、とも思う。

 来年からはお札でお小遣いを貰えることが決まったのだ。

 それから、お年玉も全額使っていいことにしよう、とも。


 親は信頼を前提で、ある程度の金額を渡してやりくりを覚えさせようというつもりで言ってくれたようなのだが、もし先述のことが叶っていたら陽翔は全てを貯め込み、クリスマスで一気に放出させていたことだろう。

 

 椎の送ってきた候補は多かった。

 真澄が過去にサンタから貰っていたハードカバータイプのノートや万年筆を除外しつつ、結局陽翔は1つのものしか買わなかったので、明日の朝に向けての緊張でどぎまぎしているのだ。


 喜んでくれたら、またクリスマスを楽しみにしてくれたら、いいけれど……。


「…………」

「……陽翔、起きてる?」

「はッッ!」

「い、いや寝てていいんだよ、ごめんね起こして」


 あ、危ない、真澄より早く眠ってしまうところだった!


 普段早寝早起きを習慣づけているせいで、まだ22時なのに睡魔が襲ってきてしまった。いけない、とぶるぶる首を振って、目を意識してかっぴらく。

 なんだよそれ、と真澄がくすくすとした。


「ちょっと……オ、オレもサンタに会いたいからさ。なんか、目の醒める話してよ」

「でも、そんなに眠そうなのに。いっぱい遊んで疲れたんじゃない?」

「お願い、真澄。オレ、真澄の物語が好きだから」


 むずがるようにして頼むと、真澄は言葉に詰まったようだった。緊張を潜ませたような呼吸に、あれ、と思う。


 真澄がいつもノートを見せてくれるときには、こんな間はない。シンとした空気が流れて、やがて、低音の心地よい声が鼓膜を撫でる。 


「……物語でいいの? ……聞いてくれる?」


 どこか改まった様子の真澄に、陽翔は小さく首を傾げながらも頷いてみせた。


「うん。真澄の作る話は、なんだって好き」


 真澄の作るお話はどれも優しくて、ままならない世界でも純粋で希望がある。陽翔は、学校にいるとき、1人で部屋で眠るときに思うことがある。


 真澄の物語が、此処にあったらと。


「じゃあ……どうか聞いてほしい話があるんだ。実は……この夜に伝えたいと思っていた話が、ひとつだけ」


 今夜じゃなくちゃいけない、と祈るように呟く真澄に、陽翔は頷く。それを見て微笑んだ真澄は、一度強く目を瞑って、すう、とひとつ深呼吸をした。


 

「空を泳ぐ、クラゲの物語」


 

 広大な海のずっと沖の方。透き通った1匹のクラゲが、水面にたゆたう光のクラゲに恋をしました。ゆらゆらと輝く彼女は無口でしたが、雨の日以外は大抵そこに浮かんでいました。決まって夜に細かい光の粒子を連れて、クラゲの話に黙って耳を傾け、きらきら踊るようにして応えてくれるのです。クラゲは恋しい気持ちを抱えながら、何度でも水面を訪れました。愛の歌を、囁き続けました。

 ある日、クラゲは彼女が空にいる月というものであることを知ります。遠く離れて尚、彼女は美しくありました。もしかしたら、より一層。すっかり魅了されてしまったクラゲは、遥かの夜空を泳ぎたいと願うようになりました。

 愛しい月の傍らで生きたいと、祈りを捧げて。


 

「空でふたり並ぶにはどうしたらいいのか。そう思い悩む、恋のお話」


 真澄の目はこちらを向いていなかった。月光に淡く照らされる、クラゲを見ていた。額に入れられて、この部屋の壁に飾られた、1枚の絵。


 ──陽翔が昔コンクールで入賞した、夜空を泳ぐ海月の絵。


 出品するにあたってタイトルを付けてくれたのは、当時の真澄だった。海月を『かいげつ』とも『クラゲ』とも読むのだと教えてくれたのが懐かしく、あのときの感動を忘れたことはなかった。


「真澄、いつ、考えてくれたの……? この物語って」


 あの絵を描いたのはもう何年も前のことだ。真澄は薄く笑って、そうだねぇ、と相づちを打った。


「あの絵を見た瞬間から。いつか文章に起こすならブラッシュアップがしたくて、辞典だとか色々探してさ。……でも、書けずにいる」

「……なんで?」

「俺のところに、サンタはもう来ないから」


 昏い声だと思った。こちらを向いた目は、光に潤んで優しいのに。


「陽翔の言うことを信じていないわけじゃないよ。俺にも、別のサンタが来るかもしれない。でも、俺を見守ってきてくれたサンタは、オレの理解者だった。真の意味で、お願いを聞いてくれるなら彼だと思っていたんだ」


 薄い闇に溶けていくようだ。そう思って手を伸ばし、柔らかな頬に触れる。


「……こんなに焦がれているのに、勇気が出なかった。会場に飾られた陽翔の絵は、みんなに愛されていた。講評と賞状を貰って、壇上でお辞儀をする陽翔は輝いていた。俺はまだそこに行けない。力が全然足りなくて、物語を添えさせてくれだなんて言えなかった。俺はね、陽翔。陽翔の絵で、本を作ってみたいとずっと思っている。児童書でも、絵本でも、漫画でもいい。陽翔が絵を添えたいと思うような物語を生み出したい。……なのに」


 真澄がずっと悲しい顔をしていた理由がわかった。


 夢の終焉は、理解者の喪失で、背中を押してくれる友を失うことだった。きっとこれほどまでに愛してくれるあの絵を、いつか語るための準備をしてきたはずでも。

 肝心な最後のひとつを、後に取っておきすぎたのだ。


「終わりが来るのなら、頼めばよかった。それだけが心残りで」


 頬に添えた小さな手に、ひと回り大きな手のひらが重なる。温かくて、少し震えている。


「だから、陽翔がクリスマスに会ってくれるなら、ひとつだけ我儘を言わせてほしいと思っていた。……こんなの、俺がいいこであるわけがない。でも――我慢が、できなくて」


 真澄が眉を下げて微笑んだ。それがあんまりにも胸の奥をきゅうと窪ませるので、思わず息を飲む。


「パーティーに行ってきたんだ。23日に、友達とさ」


 知っている。かすみと椎たちが企画していたあれだ。報告と共に写真が数枚送られてきたので、楽しめていたらしいことは承知していた。


「かすみがさ、陽翔と最近どうなのかって訊いてきて。どういう意味だろうとは思ったんだけど、まあ、仲良くしているよって返事したんだ。それで、言われたんだ」

「な……なんて?」

「『幸せって身近にあるものだよ』って。急に青い鳥? どういう意図で言ってるの? って尋ね返したんだけど、それには答えてくれなくてね。陽翔と身近な幸せかぁ……それって遠回りすんな、ちゃんと掴んでおけってことなのかな……って。かすみは俺の願いなんて知らないんだけど、俺なりに考えたんだ。サンタの助けもなく、陽翔の心を掴むとしたら……やっぱり、俺には物語しかない。拙くても、うまくいかなくても、このまま腐らせてしまうなら、せめて聞いてもらいたかった。ずっと言えなかった、この言葉と一緒に」

 

 そこで、真澄は言葉を切る。



「陽翔の絵に、俺の物語を付けさせてほしい」


 

 不安を孕みつつも、凛とした声で、真剣な目で見つめられる。息が止まりそうだった。心臓が激しくポンプして、全身が熱くなっていく。


 好きな人に求められた。

 その嬉しさは否定しないけれど、好意と評価の切り離し方がよくわからない。

 

 頭の中がぐるぐるとする。

 

 神童とうたわれることがあったって、そういう点でも自分は未熟だと陽翔は思う。


 けれど、ふと学習机に積まれた真澄のノートが目に入った。


 ――簡単でいいから、自分の言葉で。


「……オレからも、言ってもいい?」

「……うん。聞かせて」


 審判を待つような表情に、陽翔はそっと真澄の冷たい手を両手で握った。体温を分けるようにしながら、ぽつぽつと話し出す。


「オレは……真澄がオレのあの絵を大切にしてくれてんのが嬉しい。今見ると下手っぴなんだけどさ、でも……中学にあがって、高校生になって、好きなものだってきっと増えたのに、ずっと変わらず飾ってくれていて、嬉しいんだ。あれ結構大きいじゃん? なのに、部屋の1番目立つところを、真澄はくれたよね」


 ドアを開けて真っ先に目に飛び込んでくるところ。壁のど真ん中の広いスペースに、海月の絵は飾られていた。


 いつ見ても額が埃を被っているときなんかなくて、物を出しっぱなしにする癖がある真澄があれだけはきちんと手入れをしてくれているのがわかった。


 そもそも額だって用意するのは大変だったはずだ。ああいうものの相場は画材屋に行けばわかる。もしかすると、それもサンタに頼んだのかもしれない。秋のコンクールを経て、手元に作品が返ってきたのは冬だった。時期としてもちょうどいい。


 年に1回きりの、蓄積した“いいこ”を消費したのかもしれない。


「真澄はもう、欲しいものを、自分で掴みに行けるようになったから、だから、今までのサンタはもう来ないんだと思う。もう大丈夫だよって、そう言いたいんだと思う」


 バイトができるようになったからということだけじゃない。

 陽翔は、真澄が真摯に文字を綴ってきた歴史を知っている。

 楽しい反面で、思うようにいかない日だってあったはずだ。創作とは、そういうものだと陽翔は理解している。 

 その積み重ねも何もかも引っくるめて血肉になっていることも。


「オレは、さっき語ってくれたお話、すごく好き。オレが真澄と仲が良いからってだけじゃない。……いや、ええと、真澄のことは好きだし、その要素が全然ないとは言えないんだけど……。でも、それだって全部含めて、オレは……オレだって、真澄の物語が欲しい!」


 真澄の双眼がうるりと潤む。でも、さっきまでとはちがう感情が溢れ出したのだとわかる。なんだか伝播してきてしまって、陽翔は動悸と呼吸の苦しさを感じながら、言葉を紡いだ。


「ま、真澄は、本にしたいって、言ってくれたじゃん? じゃあ、ちゃんと、しっかり話し合って、真澄とオレの、納得いく形に、したい。しようよ!」


 輝かしい提案だと思った。それは、それこそ夢のようなお話だ。


 真澄のストーリーと、陽翔の絵。


 それで1冊の本が出来上がるなら。しっかりと綴じられた冊子の中で、踊る文字と海月。


 ありがとう、と溢れた声が何とも水っぽいので、陽翔も鼻水を啜って笑ってやる。泣くことなんかないじゃん、と言いたいのに、自分だってぐすりと音を立ててしまう。


 夜が更けていく。月の光は眩しい。ティッシュで目と頬を押さえて、赤らんだ顔で真澄がやっと笑う。


 カーテンを開けていたって赤い服を着たおじいさんはやってこない。ソリの音も聞こえないし、窓が開くこともない。


「いいこじゃなくたっていい。真澄に、素敵なことは降ってくる」


 この部屋で、すぐ隣で、ちゃんとサンタクロースは手を握っている。

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