夕日と虹と芯

天野詩

第1話

「おっきろー!寝坊助君!」


目覚ましのアラームみたいに、威勢のいい声が部屋中に響く。

あまりの騒々しさについ先程まで寝ていた僕は逃れるように、朧気な意識の中目覚めたばかりの体を動かして、モゾモゾと布団の中へ沈んだ。しかしこちらの様子なんてお構いなしに、ズカズカ遠慮なく彼女は部屋に入ってくると、ベッドの隣に立った。僕は強引に布団を剥ぎ取られ、強制的に起こされる。

体を包んでいた柔らかな温かい空気に逃げられたが、冷房のひんやりとした空気が、夏の猛暑に連日さらされ、クタクタになった体には案外心地良かった。


「ふあぁ。夏休みなのになんで起こすのさ。君は僕の母親だっけ?」


布団を奪い取られた意趣返しで「おはよう」の挨拶ではなく、しれっと嫌味を言ってやる。でも残念ながらそれは不発に終わり、代わりに彼女はわざとらしく両頬にキャっと手を当て、体をクネクネと動かす。


「もう、いくら私が天使のように優しくて面倒見が良くて、大人っぽいからって」

「僕の話聞いてた?あとどこに照れる要素があったの?」

「照れちゃってー。朝から美人が見れて嬉しいくせに」


…別に僕は照れてないんだけど。

まあでも、彼女の外見が並外れて整っていることだけに関しては、僕はそこらの天使よりも心が優しいから認めよう。でも絶対調子に乗ることが手に取るように分かるし、なんか癪だから本人には教えてあげるつもりはないけどね。

特に、ぱっちりと大きく開いた二重幅の目は子供のように自由奔放だけど、掴めないミステリアスな雰囲気を醸し出している。魔性の女とまではいかないけれど、自分の心を見透かされているようで、不快というわけではないが変な気分になる。気を抜くと底なしのブラックホールまで吸い込まれてしまいそうだ。


「お姉さんには君のツンデレなんてお見通しだぞ」

「…別に僕の姉じゃないでしょ」


茶化しながら僕の肩を人差し指でツンと押して、ニヤニヤ笑う姿を横目で見ながら、僕は眉を寄せた。

ところで、彼女が母親でもなければ姉でもないなら、どんな関係だと疑問に思う人がチラホラ出てくると思うので先に言っておこう。決して僕らは恋人だとかそんな甘い感情は持ち合わせていないし、かと言って親戚や友人というわけでもない。一言で表すなら、赤の他人。ざっくりとした他人行儀な説明だけど、それ以外はどうしても複雑になってしまうから、広い心での理解をお願いしたい。

順を追って話していくと彼女に出会ったのは、遡ること二ヵ月前。それは衝撃的なものだった。


。。。


「うわっ、冷たっ」


雨を直で受け止めながら、傘のない僕は独り言を呟いた。

ワイシャツは水を含んで重くなりピッタリと体に纏わりついてるし、靴は水たまりにうっかり浸かってしまったからぐっしょり濡れてて気持ち悪い。控えめに言って、最悪。

辺りにこだますのは、ザアアアアという雨と地面が衝突する音。そして湿気を含んで重くなったブルーな空気が、僕の両肩に腰を下ろしていた。

早く帰りたいのに、雨足は強くなるばかりだ。帰りを急いで仕方なくいつもは通らないであろう住宅街に続く道へ進んでいった。

角を曲がり、最近新しくできたばかりの公園の前を通り過ぎていく。なんとなく目線をそちらへずらすと、飛び込んできた光景に目を疑い、足を止めた。

御機嫌斜めな空の下、軽やかにバレエを踊っている強者が一人。もちろん傘をさしながら踊れる訳ではないが、僕とは比べ物にならない程彼女は、全身雨でびっしょり濡れている。空にある黒い雲とは対照的な爽やかな白いTシャツと短パンで身を包み、時折どこか一点を見つめるように自分の心が赴くまま、しなやかな体を自在に操っている。

まわってー、はねてー、ジャンプっ。まわってー、はねてー、ジャンプっ。

天気なんてなんのその。軽やかに踊るその柔軟な体には大きな白い翼が生えているような気がした。湿気を纏う僕とは違う七色の虹みたいな、それでいて夜空を照らす残照みたいな、ありとあらゆる美しいものが詰め込まれたバレリーナ。あるいは天使?あまりに僕と似ても似つかないその存在に、今の状況を忘れて見惚れてしまう。それこそ周りの雨音なんか聞こえないくらいに。それは至って純粋な好奇心だった。


「なんで雨の中踊って──」


なんで雨の中踊ってるんだろう、この言葉が最後まで発されることはなかった。

突然、彼女が上半身をひねってこちらに顔を向けたのだ。ゾクリとする、怪物のように美しい瞳が僕を見た。僕は蛇に睨まれた蛙のように体が石化したが、それはほんの一瞬のことだった。なぜなら、次の瞬間にはその瞳は大きく見開かれ、彼女は翼を失ったからだ。バシャンと大きく水が跳ねる音がした。

その音が石化の魔法を解く合図だってようで、僕は反射的に瞑ってしまった目をそろりと開けた。そこにはバランスを崩して水溜りに倒れ込んだ女の人が、一人座り込んでいた。まだ状況が飲み込めていないのか地べたから立ち上がる気配はなく、ただ呆然と僕を見ている、気がした。確信が持てないのはその前に僕が視線をずらしたからだ。いつの間にか、また騒がしいくらいに雨音が自己主張を始めている。

何かしなきゃいけない気がした。

だから僕は公園の方へ小さく一歩踏み出し、そして──体の動作が今度は自主的に止まった。

…この後、どうしたらいいんだ?

人との付き合いは浅く広く、決して深追いはしない。それが僕の掲げるモットー。当然、友達と呼べる人間は片手で数えるくらいしかいないし、親友なんてもっといない。でも今の生活で困るようなことはないし、正直言ってどうでもいい。

ここであの人に何か気の利いたことの一つや二つができれば良かったが、そんな僕には例えその一つや二つが具体的に思いついたとしても、行動に移せる自信はなかった。

そして、僕は気まずさに耐えかねてクルリと方向転換し、先程と同様また大きく足を動かし始めた。今度は雨ではなく彼女から逃れるために。つまり、前進ではなく逃げるための後退。流石にあの人をそのまま放置しておくのは、良心が咎めたけど途中からそんなのどうでもよくなった。道中、僕は早く家に着くことだけを願った。


。。。


その次の日から僕は公園の前を通って帰宅するようになった。どうしてかって?実は自分でもよくわかっていない。でも、気づけば雨粒が宙に舞うあの光景を思い出し、気づけば公園がある方向へと足を動かしていた。

人はその理由に恋、興味、あるいは後悔なんて意味もなく名前を付けたがるけど、今の僕はまだそれをするつもりはない。なぜなら、僕はそんな感情なんてよく分からないから。

駅から続く比較的大きな道路に沿って進み、タワーマンションのある住宅街が広がる道に入り込む。僕の住んでいる街は人がごった返す駅と、そこに隣接する流行の先端を歩くショッピングモール、これぞ都会っていう感じのオシャレなカフェなんかがあり、それに加えて緑化都市として有名だ。地球ファーストでクリーンな街づくりが世間で注目されている今、早くに緑化政策が始まったこともあって他と比べると至る所に青々とした木々がある。無表情のガラスや白いコンクリートに囲まれつつも緑の温かみがある場所。僕は意外とこの生まれ故郷を気に入っている。

早まる心臓のリズムを感じながら更に道を進んでいくと目的地が見えて来た。しかし、公園にはお目当ての人物どころかスズメ一羽さえいなかった。いるとすれば青空を照らす太陽のみ。


「また来ればいいか」


少し残念だけど、待ち合わせをしていたわけでもないから仕方ない。

それに昨日初めて会ったはずなのにまた会える気がしてならないのは、きっとあまりにも強烈な光景だったからかもしれない。


それから二週間続けて通ってみると、あの人は雨の時のみに現れることがわかった。

この科学が発展した世の中で、雨乞いでもしてるのだろうか。

帰りのホームルームの話をうっすら聞きながら、ちょうど席の真横にある教室の窓から見える曇り空を見て思わず溜息をつく。


「おい」


そもそも気まずいはずなのに、どうしてまた会おうと思ったのか。


「おーいユーヒ!」


自分で言うのもなんだけど、ここまでくるとストーカーみたいで気持ち悪い。


「返事をしろ!」


スパコーンと頭を軽くノートで叩かれた。


「痛っ。何?」

「ったく、何回も呼んでんのに。ノート、見せろよな」


そう言って僕を叩いた光は、いつの間にかひったくられていた僕の英語のノートをヒラヒラ見せる。それはさっき僕の頭を容赦なく叩いたノートでもある。僕は叩かれた後頭部を手でさすりながら、さてはまた授業中寝てたなと予想した。


「もう少し真面目に授業聞いたら?」

「ユーヒに言われたくないんだけど。さっきまで上の空だったくせに」

「僕は大丈夫」

「ふはっ。なんだその自信」


先生の地獄耳に入ったら大変だから口に出さないけど、別に授業と成績に関係ないからホームルームくらいは良いと思う。なんたって学生の本分は勉強だからね。

ノートを見せてる間特にやることがないので、なんとなく残りのシャー芯の本数をかぞえながら、横にズレていく光のシャーペンの動きを追っていく。

この七瀬光という男は変わり者だ。入学初日、コイツは僕に向かってなんて言ったと思う?正解は「黒瀬悠陽って夕焼けみたいな名前でカッケーな」だ。口説き文句みたいなことを恥ずかしげもなく言うもんだから、戸惑ってしまったのをよく覚えている。彼がそう感じた理由は、悠陽の音が夕日だからだと思う。僕的には七瀬光っていう名前の方がキラキラ輝いてて格好良いと思うけど。それから毎日「昨日食べたカレーが絶品だった」やら「自分は漫画より小説派」、「宿題見してくれる?」という調子で一方的にグイグイ話しかけられて今に至る。高校に入るまであまり経験がないから分からないけど、多分これを友人というのだろう。


「ユーヒ、傘二本持ってない?」

「え、なんで?」

「外」


光は視線をノートに固定したまま、文字を写しているペンが握られた右手と違い、空っぽな左手で窓の方向を指差した。

頬杖をついて窓の外の世界を見ると、シトシトと雨が降っていた。僕はガッツポーズを決めた。


「よしっ」


目を閉じるとまだ、空からの雫を散らすバレリーナの姿が瞼の裏で動いていた。名前も知らず顔だって朧気なのに、あの姿と瞳だけは鮮明に覚えている。

カバンにあった折り畳み傘を手渡し、帰り支度をする。その時勢い余ってシャー芯を床にぶちまけたけど、気にしてる暇はなかった。


「ノートは明日返して。あとシャー芯拾っといてっ」

「あ、おいっ」


僕は要点だけ言い残して教室を後にした。今日もあの公園に行くために。

学校から電車に揺られ駅から長傘をさして歩き、あっという間に公園に着いた。

そこにはベンチに座り空を見上げる、心ここに在らずな彼女がいた。

そして僕はすぐ彼女の異変に気づき、人形みたいにベンチから動かずいつもと正反対の雰囲気の彼女に胸がざわついた。

だからなのか、僕は勇気から生まれた小さな自信を糧に、躊躇いなく傘を彼女の頭上に差し出した。

いつもと同様に全身で雨を受け止めた彼女は、傘と僕を数秒見比べた後ヘラっと笑った。


「ありがとう。今日は話しかけてくれるんだね」

「…今日は雨乞いしないんですか?」

「んー、雨乞い?傍から見ると変人じゃん。まあいいや。そうだね、疲れちゃった」


我ながら良いポーカーフェイスだったと思う。正直言ってびっくりした。バレてないと思ったけど毎回見ていたことを知ってるようだ。まあ、そりゃそうか。気づかない方がおかしい。


「傘持ってないんですか?風邪ひきますよ」

「残念だけどお金以外何もないよ」

「これ貸しますから帰ったらどうです?」

「イヤ」


そっぽを向いて駄々をこねる姿は子供そっくりだ。


「…子供かよ」

「イヤったら、い、や!そうだ君の家に泊めてよ」


僕の発言で更に意地を張った彼女は、近くにあった僕の腕を引っ張って立ち上がり、家までの案内を促す。


「早く!」


いやちょっと待て。


「あっ。私はね、コノハっていうの」


そうじゃない。


「あと、歯ブラシとか買いたいんだけど良い?」

「…もうなんでも良いよ」


雨乞いの変人コノハvs僕の勝負は、僕の負けだ。カンカンカーン。あっけなく試合終了のゴングが脳内に響き渡る。光の時と同じような状況にがっくりと肩を落とした。そう、デジャヴだ。どうやら僕は押しが強い人に弱いらしい。

不幸中の幸いは親が仕事が忙しくて家にいないことだった。

…風邪でも引いてしまえ。

心の中で彼女についた悪態は、一層強くなる雨に馬鹿にされている気がした。


。。。


「キャーっ!たっかぁい、すごいすごい」

「いや近所迷惑」


ここは三十三階だから当然だ。

ベランダからの景色に驚嘆するコノハの声を聞きながら、夕飯の野菜をカットしていく。

その間にいつの間にか見物を終え、室内に戻ったコノハは僕の隣にひょっこり現れた。驚くからやめて欲しい。


「手伝いたいんだけど何作ってるの?」

「カレー」

「りょーかいっ」


トントントン。コノハは慣れた手つきで残った食材達を切り、肉を炒めていった。あっという間に鍋にルーを投入し、かき混ぜると家中が食欲をそそるスパイシーな匂いで満たされる。


「「いただきます」」


手を合わせひとすくい口に運ぶと、まず始めに味わい深い香辛料が舌を刺激し、噛み締めれば肉の旨みと野菜のほのかな甘みを感じた。そしていつもと違い、何故か塩味もきいてる。


「隠し味入れた?」

「もちろん」

「何入れたの?っていうかそんな素振りなかった気が」

「ふふっ、ひみつー。だって隠し味だよ」

「ふーん」


答えを開示する気はないらしい。食べられればなんでもいいので僕は正面からの「当ててみなよ」というウザったい視線を無視した。

この時呑気に食事していた僕は、それから彼女に振り回される事になるとはまだ知らなかったのだ。


。。。


「コーヒーと紅茶どっちにする?」

「コーヒーで」


タダで居候は申し訳ないので家賃を払うとコノハに言われたけど、流石にそれは断った。しかしコノハはそれを良しとせず協議の末、当番制で家事をやってもらうことになったのだ。

僕はインスタントコーヒーを片手にテレビを点ける。


「只今、私はNANAIROパークの虹の塔にいます。ご覧ください、この辺り一面に咲いた向日葵の花を。こちらの場所なんですが、実は名前の通り虹が見えやすい場所としても有名なんです」


虹の塔の屋上からクローズアップされた大きくて黄色い花から、虹と向日葵畑の写真に映像が切り替わった。


「NANAIROパーク?」


ガシャン。振り向くとコップを落としたコノハが、呆然とテレビを見ていた。床にガラスの破片は散らばってなかったが、紅茶が広がっている。


「わ、溢れてる。大丈夫?」


僕は急いで雑巾で濡れた床を拭いた。視線を投げるとコノハは我に返り慌てて謝った後、突然ベランダに出て行った。遠くに広がる青空を眺めているようで幻を見ている感じの彼女にまただ、と思った。彼女はよくベランダに出てはどこかを見つめ、何かと戦っている。


「ねえ。コノハは、何を見てるの?」

「ふふ。知ってる?大切なものほどどこか遠くに行っちゃうんだよ。想い出があったって胸にしまっておくだけじゃ意味ないんだよ」


聞いた問いの答えは返って来ず、代わりに哲学じみた返事が来た。

ベランダで隣に並んだ時に見えたコノハの横顔は、いつものように茶化しているが逆に、何かを隠そうとしているように見える。


「残念ながら僕にはそんな大切なものないんだよね」

「えー?友達くらいはいるでしょ」

「誰が僕みたいな根暗となりたいと思う?いるとしたら変人だね」

「いや自己肯定感低いな。自信なさ過ぎでしょ。皆見る目ないな、悠陽は近づくなオーラ出てるけど周囲をしっかり観察してるし責任感だってあるのに。何よりイケメンだよ、優良物件じゃん。」

「…コノハは変人だね」

「あはは。それなら、悠陽は夕焼けみたい」


それは前に光から言われた言葉と酷似していた。「唐突に何言ってるんだこの変人は」と思ったが心が軽くなったのも事実だった。

コノハの大輪の向日葵を思わせる横顔を見て、僕は心臓が高鳴るのを感じた。

…もしかしたら、不整脈かもしれない。


「コノハは友達の七瀬光みたいだね」

「えっ?あ、そうなんだ」


コノハは何故かまた動揺して、それから「閃いた」とスマホを取り出し何かを打ち込んだ。

ピロン。鳴ったのは僕のスマホだ。コノハから送られたものだと思いメールを開く。どうせくだらない内容だと思いつつ突拍子のないことを期待してる僕が胸の内にいる。

予想通りスマホに表示されたものはおかしな内容だった。


「『“夕日と虹と芯”をあげる』?何これ」

「ふふっ。じきに分かるよ。まあもしかしたら、あげるどころかドン底に落とすかもしれないけど…君に私の命を預けるよ」


最後の一言は聞こえなかったが、不穏な空気を察知した。僕はすぐ聞き返そうとしたが躱される。


「何言って──」

「あっつ。部屋戻ろっか」


クーラーの冷気を求めて部屋に入ったコノハに僕も続く。窓を閉めた時に見えた街並みは、光を反射して鈍く輝いていた。


。。。


それから一週間が過ぎた頃、僕は光に呼び出されて学校に登校していた。

白を基調とした教室に、二人分の声と紙が擦れる音がよく響く。そして不意に光が溜息を漏らした。


「なあ。姉さんがずっと家に帰って来ないんだけど、どうしたらいい?」

「突然だね。どんな人?」

「美人で優しくて頭がよくて、カレーに味噌入れる人」


…うん。最後のカレーのところはよく分からなかったが、光が姉を尊敬していることは理解した。だが、光が見せてくれたスマホの中にいた人物を見て、僕はそんなことなんてすぐに忘れた。


「…コノハ?」

「姉さんを知ってるの⁉︎」


椅子が倒れるほど勢いよく立ち上がった光は、すごい剣幕で僕に詰め寄る。ちょっと怖い。


「知ってるっていうかうちに住んでるけど」

「はぁ⁉︎」


ヤバっ、言葉のチョイスミスった。僕は一歩ずつジリジリ後退していく。いつも上機嫌な光にしては珍しく荒ぶっている。


「いや落ち着けって」

「うるさい!姉さん“は”両親を亡くしたばかりなんだ!傷つけたら悠陽でも許さないっ!」


ここで僕は違和感を感じる。

姉さん“は”?だとしたら、コノハは光とは親が別にいるのか?


「姉さんの両親が亡くなったのは四月なんだ」


光はポツポツとコノハ、七瀬虹乃葉について話してくれた。彼女は現在大学一年生で、彼女の両親は今年の三月に交通事故で亡くなっており、虹乃葉の父親の妹である光の母たち親戚に引き取られたらしい。なるほど。僕の名前のことだったり破天荒な性格が似ていたのは、きっと二人が従兄弟同士だからだろう。

その時ちょうど様々な衝撃に襲われている僕のスマホに、虹乃葉から電話がかかってきた。


「もしもし」

「…ねえ。私、どうしたらいい」

「え?」


電話越しでも分かるほどか細い声に、彼女の生い立ちを聞いた直後だからかドクンと心臓が嫌な音を立てる。


「天国の両親に会いたい。でも、会いにいくにはこの体を捨てなくちゃいけない。だからね、君に委ねようと思う。私の運命を。この前のテレビの場所で待ってるから」

「え、待って」

「タイムリミットは夕日が落ちるまで。…ごめんね」

「っ死ぬな!」


プツリ。電話が切れる音と僕の何かが切れる音がした。黙ってこれまでのやり取りを聞いていた光を見ると、イマイチ状況が掴めないのか呆然としている。


「姉さん、死ぬのか?」

「光」

「どういうことだよ」

「光」

「っなんでそんな淡々としてるんだよ!」

「光っ!」


もう一度強く名前を呼び、視線を真正面から絡ませる。興奮した光の息遣いが響く空間を切るように僕は口を開いた。


「誰が死ぬって?しかも僕に託す?ハッ、ふざけてるね」


自分でも驚くほど低い声が出た。きっと、この感情は自らの生を諦めようとしている虹乃葉への怒りだ。怒りを露わにする僕に驚き、涙を堪える子供のような表情をする光に早口で用件を伝える。


「自転車の鍵貸して。早く!」

「あ、ああ。頼んだぞ、姉さんを救えるのはお前だけだっ!」


僕は必死に自転車のペダルをこぎながら、頭に上がった血を抑えつけようと試みた。

それからの事は、無我夢中になり過ぎてよくわからない。自転車の後は電車に乗ってタクシーに乗って、虹乃葉がいるであろう場所を目指した。

この前のテレビの場所──それはあの『“夕日と虹と芯”をあげる』という謎のメッセージを送られた日に、テレビで紹介されていた“NANAIROパーク”の向日葵畑のことを言ってる気がした。明確な根拠はないが、僕の本能がそう告げている。


そして、やっっと見つけた。

コノハがいたのはやはりNANAIROパークの向日葵畑、ではなく厳密にはその隣にある十五メートル以上の高さがある虹の塔の中だった。

窓の側に立つ虹乃葉の表情は、ここからだと分からない。でもその後ろ姿は、ベランダからどこかを見つめるあの姿と重なった。

それを見てストンと僕は腑に落ちた。

ああ、そうか。虹乃葉が見ていた何かは、今は亡き両親との想い出だったんだね。突然の別れと新しい環境。そんな冷酷な世界の中で一人戦って戦って、耐えてきたのかもしれない。現実から逃げるように、何一つ事情の知らない僕を頼ってしまうくらい。

ポツリと、オレンジ色になりかけた空から一滴の雫が落ち、やがてバケツをひっくり返したように夕立が外で降り始めた。


「雨、もっと降ればいいのにね」


虹乃葉はそっと窓に触れ、そのまま手を滑らせる。


「それは涙が目立たないから?」


虹乃葉はぴたりと動きを止めた。それが僕の導き出した結論が正しいことを、物語っていた。

何故彼女は雨が降る時しか踊らないのか、始めからずっと不可解だった。裏を返せば雨でなければならない、ということになる。最もらしい理由として浮かんだのは木を隠すなら森の中。つまり、涙を隠すなら水の中というわけだ。

虹乃葉が公園に出現した時期も、彼女の両親が亡くなった時期の約二ヶ月後となるから時期もまあまあ合う。


「その様子だと、私の事情も光から聞いた?」

「まあ」

「そっか。そうだよ、私にとってバレエは両親と私を想い出の中で繋ぐためのものだから、やめるなんて選択肢はなかった。ここも、小さい頃に家族で来たことがあるの。そうやってみっともなく過去の軌跡を辿っていくと、まだお母さんとお父さんは生きてるんじゃないかって思えた。でも、家に帰るとそこには私を愛してくれた人は居なくて、残酷な現実に引き戻された。そんな事を繰り返して、もう自分でも訳わかんなくなっちゃった」


言葉が出なかった。虹乃葉の口から零れ落ちる胸の内に秘められた悲しみは、僕が想像しているよりもずっと大きくて、何故彼女が今まで壊れなかったのか不思議なくらいだった。

何も話せずにいる僕を見て、焦らすように虹乃葉は歩き出す。


「ねえ。せっかくだから向日葵見ない?」


先程とは打って変わって明るい声色。なのに、いつものお調子者で呆れるくらい馬鹿でお人好しな微笑みが、なかった。あったのは、彼女の従兄弟によく似た、迷子の子供と同じ表情だったと思う。


「タイムリミットは日没だよ?」


違和感を感じさせない自然な足取りでエレベーターに乗った彼女は、そう言い残し屋上へと消えた。


「待って!」


くそっ、もう少しだったのに。僕は急いで階段を駆け上がる。っていうか、なんだこの鬼ごっこ的状況は⁉︎


屋上に辿り着くと、僕はほのかなオレンジ色の光に包まれた。それは、まもなくの日没を告げる夕日の光だ。夕立はいつの間にか止み、ここから見える向日葵たちはより感情的に赤く染まっている。


「ねえ、もし私が死にたいって言ったら、どうする?」


心臓を鋭利な刃物で突き刺すように、揶揄っているように見えて、ひどく真剣味を帯びた黒い水晶玉が僕に問いかけた。──鬼ごっこ延長戦の始まりだ。


「勿論止める」


今度は迷いなく答え、僕はその真意を探ろうとしてただ虹乃葉を見つめた。

時間が刻々と過ぎる中、僕は彼女の瞳が微かに揺れていることに気がついた。そこには、不安と深い悲しみ、そしてほんの僅かな期待、とにかくいろんな感情が混ざっていた。

読み取った感情からなんとなく、彼女が望んでいることがわかってしまった。


「その心は?」

「虹乃葉と同じくらい馬鹿だから」

「うん?」

「虹乃葉は脆くて本当は人に頼ることが苦手なのに、自分より他人を気遣うウザいくらい優しい馬鹿だから」

「ちょっと、本当は私に死んで欲しいんじゃないの!さっきから悪口しか言わないじゃん」

「それに無意識かもしれないけど君は、死ぬか迷ってるでしょ。じゃなきゃ僕に連絡なんてしてこない」


すっかり伸びた影が雲に覆われてあっという間に消えて無くなる。

虹乃葉は大きく目を見開いて、ハクリと声にならない音を出した。そして、黒水晶から大粒の透き通った美しい一滴の雫を頬へ伝わせる。


「確かに虹乃葉が愛した人はもういないし、僕はそれを背負って生きろなんて言うつもりもない」


僕は慎重に、幼子をあやすように語りかける。願わくば強がりな彼女の心を、溶かせたらと思いながら。


「僕が君に死なないでくれ、なんて言う資格がないことも分かってる。でも、それでも僕は君に生きていて欲しい」


何故彼女はこうやって鬼ごっこをするのか、始めは分からなかった。僕は彼女の僅かな期待が見え隠れした瞳を思い出す。あの感情は、生きることへの執着だ。


「もし生きることを諦めないなら、僕の手を取って。絶対後悔なんてさせないから」


人は他人の死に関してはあまり興味がないから、死にたいならさっさと死ねばいいなんて冷酷なことを言える。けど、自殺する人の心中はそんな単純じゃないはずだ。誰だって痛いのは嫌だし、自殺したからと言って死に対する恐怖が完全に無くなったはずがない。


「これは、僕の我儘だから軽い気持ちで聞いて。雨じゃなくても思いっきり泣いて。あと、死ぬなよ!」


我慢しないで、もっと正直に生きなよ。

また、彼女の瞳から涙が溢れた。今度はポロポロと雨みたいに拭っても沢山流れていく。


「ふっ、ひっく。ああやっぱり悠陽は夕焼けみたい。太陽が照らす景色は同じ恒星なのに、眩しい昼間より夕焼けの時の方がずっと温かい光で、心に沁み渡る感じ。そんな正反対な二面性は人との交流が苦手なのに、人を嫌いになりきれない不器用な悠陽に似てるよ」

「それは別に夕焼けに比喩しなくても」

「ううん、夕焼けなの。ミステリアスで綺麗で落ち着いているものなんて、それ以外思いつかないから。悠陽の言葉だから心に響いたんだもん」


クシャリと笑って虹乃葉は向日葵畑を眺める。


「私は、生きるよ。大切な人たちと一緒に、少しずつだけど懸命に」


心臓の辺りを掴みながら言うその横顔には迷いなんてなくて、真っ直ぐに想い出が詰まった場所を眺めている。

僕はそれに安堵し、空を仰いだ。そして目を見張る。


「虹だ」


空には七色の淡い橋が架かり、夕日に照らされてほのかに赤く輝いている。


「…ん?夕日と虹?なんか忘れてるような」

「もしかして『“夕日と虹と芯”をあげる』ってやつ?」

「それだ」


あの謎めいたメッセージはじきにわかると言われたが、さっぱり分からなかった。しかめっ面で考え込む僕をみて虹乃葉はクスクス笑った。


「いやメッチャ単純だよ。“と”を消してみて」

「えーと“と”を消すと『“ユウヒニジシン”をあげる』で、だから…」

「『“悠陽に自信”をあげる』」


虹乃葉は僕を指してを微笑んだ。

なんだそれ。僕はどんだけ頼りないと思われてるんだ。無言で見つめると、僕の不満気な視線に気づいた虹乃葉は慌てて弁解をする。


「ほ、ほら悠陽って何気に自己肯定感低いから」


あまりの慌てように口を抑えて笑ってしまう。


「ねえ虹乃葉、前から思ってたんだけど」


真っ直ぐに僕より背の低い虹乃葉の瞳を見つめる。いつの日か得体の知れない怪物のようだと思った、愛しくて美しい黒水晶を。


「やっぱり馬鹿だね」

「はあぁー?ケンカならゼロ円で買うよ」


今度こそ僕は大声で笑う。

自信?自己肯定感?そんなのとっくに、君から貰ってるよ。周囲と距離を置いているはずの僕が、どうして何度も君を見に行ったと思う?君があまりにも美しかったからだよ。愛する人たちの死と向き合おうとする君の直向きな姿に勇気を貰えたから、僕はあの日君に傘を躊躇なく差し出せたんだ。自己評価が低いのはむしろ虹乃葉の方じゃないの?

この生きているだけでホッとして泣いてしまうような、身体中が幸福で満たされる柔らかで尊い感情は、他でもない君がくれたものだから。多分人々はこういう感情に恋という、こそばゆい名前を付けたのだと思う。

柔らかな曲線を描く虹の下に咲く辺り一面の向日葵の花々は、上から見ても分かるほど夕日の色に染まり、美しく金色に輝いている。


ほらね、この光景を美しいと思えたのは君のおかげだよ。

──きっと、君が“夕日と虹と芯”をくれたせいだ。

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