束の間の休息〜ナイラ〜
王都ナクファムで、十一年という時を過ごした偉大な研究者ナイラは、変わりゆく景色と民の姿を直視できず、研究所に引きこもっていた。
しかしラクシャクに帰還してからの彼女は、その日々が嘘かのように、都市内を練り歩くお転婆娘に戻っていた。
今日も昔からのお気に入りの場所、ミーリスの森中層部の草原地帯へと足を運んでいた。
ミーリスの森は昔とは比べものにならないほど、綺麗に整備されている。
最深部の山岳地帯まで道が敷かれ、道中には休憩所として六角屋根の東屋が設置されている。
もはや自然公園と化した草原部の東屋で、一人の可憐な女性がナイラを迎え入れてくれる。
「今日はぁ、ナイラさんに教えてもらったサンドイッチを作ってきたよぁ」
「……ウルスラちゃん……本当にいいお嫁さんになるよ。もうボクと一緒に暮らそー」
「ブライスさんに聞かれたら浮気だぞーって怒られちゃうよぉ?」
「んーどっちかっていうとルシアンの方が怖そー」
可愛いものに目がないナイラは、ラクシャクに帰還してから、簡単にウルスラに心を奪われた。
ゆったりとした話し方、肩までのふわふわの黒髪とクリクリの黒目、
そんなどこかのお姫様のような彼女が、妹のように慕ってくれる状況を作ってくれたルシアンに、感謝したくらいだ。
「あーウルスラちゃんほんとにかわいー。めちゃくちゃ癒されるよーう。お姉ちゃんって呼んでー」
「ふふっ……お姉ちゃん? 口元がすごいことになってるよぉ?」
ウルスラの作ったサンドイッチを食べながら見る桃羊の群れは、ナクファムで溜まった疲労を浄化してくれる。
ラクシャクに帰還してからの日々は、ナイラを癒してくれた。
のどかでありながら、活気があり、愛に溢れる人間が多くいる安心感に包まれた。
遠くから桃羊を眺めているだけだったこの場所も、今ではモフモフ達と触れ合うことができる魔物牧場になっている。
「でもルシアンもやるねー。ウルスラちゃんの他に、アーシェちゃんとベルちゃんも妻にするだなんて! 美女三人に囲まれて……あの子可愛い顔して……エロガキじゃん」
「……エロガキ?」
ナイラの何気ない言葉で始まった男女の秘話。
ナイラは弟や賢人としてのルシアンは、高く評価しているが、夫としての評価はどんなものなのか気になっていた。
「昔の言葉でー変態子供ってことー」
「へんたいこども……先生が……ぷっ……そうだねぇ、先生はエロガキだよぉ!」
おせっかいお転婆娘ナイラは、このミーリス領都ラクシャクにまつわる噂を、耳聡く聞きつけている。
まずはシビネ料理と魔物喫茶のことや、騎士帰りの『賢人』の優秀さ『英雄』や『考古学者』までもがミーリスに集結しているなどの噂。
これに関しては、領民のほとんどが認識していることであり、大したものではない。
最も気になっているのは、ミーリスの『太陽』『大地』『花』についての話だ。
どういった経緯でこの話が広まったのかは、わからないが、ミーリス領民はルシアンの三人の婚約者を、そう表現しており、大層な表現をされる三人の美女を一目見るために、外領から訪れている者も多くいるようだった。
「姉としてはルシアンの評価って高いんだけどー、実際どう? うちの弟の夫としての評価はー?」
三人の美女を侍らせておきながら、狂ったように働き回るルシアンに寂しい思いをしていないか……そもそも三人同時に婚約者にするなんて、傲慢にも程があると思っていた。
もし不満があるのなら、姉としてビシッと——
「最高だよぉ?」
「……最高? 寂しい思いとかしてない? 三人同時に婚約者にしたって聞いたけど……だらしなくない?」
まさしく花が咲くような笑顔で、即答したウルスラに、首を傾げたナイラは、遠慮なく心の内にある疑問を吐露した。
「……先生を襲ったのは、私たち三人の方だよぉ?」
「……え? ど、どういうこと?」
「……先生が私たちのことを煽ってきたから、我慢できなくてぇ……私たちが薬を盛ったの……」
「……ぅぇ?」
く、狂い散らかしとる……。
混乱することを許してくれない賢い脳みそが、最初に弾き出した感想は、そんな一言だった。
——やっぱりウルスラちゃんもかー。
次に湧き上がってきたのは、そんな感想だ。
ナイラが特にウルスラを気に入っていたのは、単純に後ろめたさがなかったからという点もある。
アーシェとベルには、ここ数日で経験したことによって、一方的な気まずさがあった。
◇
『ヤッホー! ルシア……ん?』
『ナ、ナイラ……ど、くぅ……どう、したの?』
『な、何でもない……また来るねー』
仕事をするルシアンを驚かそうと、足を運んだ執務室の様子は、明らかにおかしかった。
顔を真っ赤にして荒い呼吸を吐くルシアン、微かに鳴り響く水音、机の陰から見える青い髪。
すぐに察したナイラは、気まずさに耐えられず、走り去った。
『ルシアン……私は負けてしまった……夫の前で負けてしまった』
『ベル……』
『し、躾けてくれ……弱くて馬鹿なあたしを、また……愛しい夫の手で鍛え直してくれ……』
ブライスとの模擬戦で負傷したベルのお見舞いに来た時、そんな会話が耳に入り、扉を叩くことができなかった。
それから間もなく、獣のような下品な鳴き声と媚びるような甘い声が、微かに聞こえてまたもや走り去った。
◇
たった数日でそのような経験をしてしまったナイラは、まるで性癖の調味料にでもされたような感覚に陥り、気まずくて仕方がなかったのだ。
「そ、そっかー。ウルスラちゃんが満足してるならいいんだー」
「うんうん。私は先生の『花』だからねぇっ。大満足だよぉ!」
(ルシアンの疲れを癒すアーシェちゃんは『太陽』。ルシアンの苛烈さを受け止めるベルちゃんは『大地』。じゃあ……『花』であるウルスラちゃんは?)
ルシアンから最も強く賢い女と称されるナイラは、その優れた脳みその無駄遣いをしていた。
ウルスラがミーリスの『花』であることは、理解できる。
彼女の周りには、とにかく生物が集まるのだ。
ウルスラがラクシャクを歩けば、彼女を慕う多くの市民が集まり、草原を歩けば桃羊が集まってくる。
——まるで美しい花に群がる虫のように。
それはナイラも例外ではなかった。
世界を進化、もしくは退化させることもできるナイラの心には、いくつもの厳重な鍵がかかっている。
ウルスラはいとも容易く、それを突破してくる。
少女のように無邪気で、甘えるのが上手な彼女は、いつのまにか心の中にスルスルと侵入してくる。
「んーお姉ちゃんは、先生が離れていくのが寂しいんだねぇ?」
「……ッ……さすがにウルスラちゃんでも、触りすぎだよー?」
気づくのが遅かった。
ルシアン狂いのアーシェや、変態戦士ベルに気を取られすぎて、ウルスラが健気な少女に見えていた。
——最も恐ろしいのはウルスラだった。
これは心に厳重に鍵をかけているナイラだからこそ、気づけたことでもある。
ウルスラはまるで自分の物かのように、人の心にベタベタと触ることができる。
多くの人は触られていることすら、気づいていない。
あどけなく、可憐で、美しい。
そして心を奪われる。
だからこそ『花』なのだ。
「わかるよぉ? いいよねぇ? 先生の一番って。私もいっぱい持ってるからわかるよぉ!」
「はぁ……ほんとにやられた。ウルスラちゃんが、一番のクセモノだったんだねー」
姉離れするルシアンに寂しさを感じていたのは、正しい。
マリーダの手紙でルシアンに、婚約者ができたと聞いた時は、「どうせまた変な女に付き纏われているだけでしょー」などと楽観的に考えていた。
しかしナクファムで再会したルシアンを見れば、すぐにそれが事実であることがわかった。
「いつかは訪れることだったんだけどねー? いざ目の前にするとねー」
「……お姉ちゃんって少し羨ましいかもぉ」
「ふふっ……だってこの一番は、ボクの特権だからね」
「うわぁ…….なんかナイラさんが敵に見えてきた」
厳密にはバルドルに妻ができた時に、この特権も無くなってしまうが、それも仕方がない。
ルシアンとバルドル……同じ貧民街を知り、世界の醜さを知り、苦しみと痛みを乗り越えてきた同志。
少しの寂しさはあるが、二人が幸せになることは、喜ばしいことだ。
ナイラ自身もブライスからたくさんの幸せをもらった。
(うわぁ……なんかこれが大人になるってことなのかも……ルシアンに子供ができたら、ボク叔母さん? うわぁ……でもまぁそれも楽しみな幸せの一つかな? ボクが先の可能性もあるし……あぁそっか……)
これからのナイラは、世界を背負う必要もない。
痛みと苦しみ、不安と恐怖に立ち向かう必要もない。
ようやく本当の意味で、自身の幸せに向き合うことができるのだと気づかされた。
「……ルシアンのことよろしくねー」
「もちろんだよぉ——ルシアン様のためなら、神だろうと悪魔だろうと、滅ぼして見せます! アーシェならきっとこう言ってるよぉ」
「ふふっ……ベルちゃんなら?」
「……ベルはいやらしいことばっかり考えてるから、恥ずかしくて真似できない」
ベルのひどい扱いに、吹き出したナイラは涙が出るほど笑い転げた。
(あーおもしろ……っていやいや、てかルシアンが殺されでもしたら、ミーリスは終わりじゃん。この子達どうなっちゃうの……うわぁ……ルシアン頑張れ。めっちゃ頑張れ!)
フとよぎった最悪の物語に、背筋がゾッとしたナイラは、心の中でルシアンの健闘を祈った。
『太陽』に照らされ、『大地』に根付き、華麗に咲き誇る『花』。
この三人が狂ったように愛しているルシアンは、ミーリス——いや、大陸の希望なのだ。
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