束の間の休息〜ポータ〜
ルシアンを師匠と
師匠を取り巻く人物や環境は、ポータの
身分や血筋にこだわる者が、全くといって良いほど存在しないのだ。
『高貴だから貴族なのではなく、貴族だから高貴なのだ』
長らく染み付いている民の常識。
そう伝承されてきたから、民は特に考えることも、異議を唱えることもなかった。それが常識だからだ。
ではこのラクシャクに生きる者達はどうか?
領民の一人一人が生きている。
ラクシャクに移り住んで、間も無く感じたことは、そんな阿呆のような感想だ。
皆が思考し、意見を出し合い、自分たちのこれからに正面から向き合っているのだ。
人間なのだから一人一人に思考があり、感情があり、欲望があるのは当然であるが、ミーリス領に住む者達は、それらと上手く向き合っているように感じた。
——新人類。
そこまで大袈裟な呼び方をしてもいい。
ルシアンは度々、「強く美しくあれ」と皆に教えを説いていたが、ナクファムにいた頃のポータは、その言葉の真意が掴めずにいた。
強さとはなんなのか?
美しさとはなんなのか?
では弱いことは罪なのか?
しかし師匠は「己の弱さと向き合うことも強さだ」と教えた。
ラクシャクを知ったことで、ようやくその言葉の真意が少しだけ理解できた。
全く敵わない……届かない。
一体師匠は何を見て、何を知り、何を経験してきたと言うのか。
——早く師匠の横に並び、同じ景色を見たい。
理不尽に押し潰されそうになっていた弱者ポータは、すでに過去を悲しむことなど忘れて、次の目標に駆け出していた。
今日もルシアンのそばに張り付き、強くなるためにミーリス家の屋敷——師匠の寝室前で待機していたが、そこには最も大きな衝撃が待ち構えていた。
『アーシェ……だめだよ……もうポータがきちゃう』
『あなた? 今日くらい良いではないですか……すごく溜まっていらっしゃいましたから……もう少しだけ癒されていきませんか?』
『あぁ、そんなところまで……アーシェ……愛してる』
『私も愛してます。私はあなたの太陽ですから』
師匠、実はもういます……と心の中で泣きながら謝罪をしたポータは、足音を立てぬよう休憩所へ向かい、ソファに力なくもたれかかる。
ポータにとっての最大の衝撃は、ルシアンの妻の一人である——アーシェにあった。
アーシェ・オルタ——リルベス子爵領の貧しく小さな村、オルタ村の出身であり、奴隷となったポータと同様に、現在はただのアーシェ……いや、いずれは、アーシェ・ミーリスとなる人物。
アーシェのことは同郷であること以外、何も知らなかった。
オルタ村では特に仲が良かったわけでもなく、二、三度会話を交わしたことが、あるかないかくらいの浅い関係性だった。
そのことから、このラクシャクで初めて顔を合わせた時も、「流石は師匠の奥様……お綺麗でいらっしゃる」と尊敬の念を込めた視線を飛ばしていたくらいだ。
『もしかしてポータくん?』
そんな綺麗な奥様に、突然声をかけられた時は、意味がわからず、即座にルシアンに土下座をした。
盛大な勘違いをしたであろうルシアンの笑顔が、言葉にできないほどに怖かったからだ。
『アーシェ? 僕の部屋に行こう。拒否権はないよ』
『ふふっ……あぁ可愛らしいルシアン様……ですが私はベルちゃんではありませんよ?』
『この機会にベルの趣味も理解させてあげるよ』
『あら? 私にそんな怖い瞳を向けるのですね』
急激に周囲の温度が下がったような感覚に襲われ、凍える中、綱渡りのような会話をする二人に、見惚れていることしかできなかった。
結局その場はルシアンの反応を楽しみつつ、優雅に説明するアーシェによって収められたが、聞かされた真相に戸惑いを隠せなかった。
ポータの知るアーシェは、少し笑顔が明るいだけのガリガリの少女だったからだ。
遠慮のない言葉を使うのなら、いつ死んでも不思議ではないような少女だった。
そんな少女が妖艶で美しく、夫となるルシアンすらも、手玉に取れるほどの強者に変貌しているとは、思ってもいなかった。
そのような出来事があり、ポータはラクシャクで過ごせることを尚更、喜んだ。
あの死に取り憑かれたような少女を救い、育て上げたルシアンの偉大さに敬服し、薄い関わりではあったが、同郷のアーシェとも上手くやっていける……そう思っていた。
——しかしアーシェの「上手くやっていける」はポータとは異なった。
それを知ったのは屋敷の薬を補充するために、アーシェの薬局へと、お使いに出た日のことだった。
◇
「こんにちは! アーシェさん、今日は屋敷の分を取りに来ました!」
「こんにちは、ポータくん。そこに置いてある分です」
特に当たり障りのない会話を交わして、倉庫に案内され、薬が詰められた小箱を抱える。
お礼を告げて屋敷へと帰ろうと、足を動かした瞬間、鈴のような綺麗な声が鼓膜を震わす。
「ポータくんは、一番には成れませんよ」
「え?」
突拍子もなく告げられた言葉の意味がわからず、間抜けな声が出てしまったが、なぜか声の主であるアーシェの瞳を見ることができなかった。
「ポータくんは、ルシアン様の一番に成ることはできませんよ? 全てにおいてです」
「……ッ……な、なにを!」
アーシェの声は綺麗で美しく、そして——心臓を突き刺すように鋭い。
ようやく目を合わせれば、彼女の澄み渡った空のような青色の瞳には、静かに暗い夜が訪れていた。
それは明らかな敵意——人を憎んだことも、殺したこともないポータですら、感じ取れるほどの確かな敵意だった。
「私はわかるんですよ。ルシアン様の一番を狙っている人間の顔が」
「……おかしいよ」
「何がですか? ルシアン様の一番は例外なく、妻である私たち三人のものです」
「そんな決定権は君にはない! それは師匠の意思だ!」
ポータは確かにルシアンの一番の弟子——生徒に成ると心に決めていた。
そんな決意や思いを彼女は感じ取り、それすらも渡さないと宣戦布告してきたのだ。
「えぇ良いことを言いますね? その通りです。だからこそ譲れないのです。ルシアン様の意思で私達を選んでもらうためにも、大人しくしていてもらえませんか?」
「……僕が頷くと思う?」
ルシアンは自身のほとんどを、ミーリス領とそこに生ける人々に向けている……それは彼に近しい者達なら、誰もが感じていることだ。
——ルシアンという存在そのものが尊いのだ。
だからこそ欲しくなる。どんなことでも良い。
残りの彼の一番が欲しい……と狂わされてしまうのだ。
「はぁ負けました。許可します。生徒としての一番はポータくんに差し上げます……なので一つお願いがあります」
「……なに?」
わざとらしくため息を吐いて、あっさりと引き下がったアーシェの姿に、強烈な違和感を感じる。
まるでここまで誘導されていたような……そんな感覚に襲われる。
そしてその直感が正しかったことを思い知らされた。
「私の夫に近づく女がいたら殺して欲しいのです」
ポータは全てを理解した。そしてこう思った。
——コレは人なのか?
彼女はなんの感情も感じさせない無機質な声で言ってのけた。
愛の化け物、正気を保った狂人、ルシアンを飲み込む闇。
浮かび上がった言葉のどれもが正しく、どれもが彼女の全容を表すには足りていない。
「お願いを聞いてくれますか?」
「ッァ……は、はぃ」
返事をしてしまった。
体が言うことを聞いてくれなかった。
十五年間、ポータの心と共にあったはずの体が、アーシェへの畏怖を目の前にして降伏していた。
冷や汗が背中を伝う感触が気持ち悪い。
ガクガクと震える膝が止まってくれない。
「私の願いによく応えてくれました。それでこそルシアン様の弟子です!」
願い……願いとはなんだ。これは支配だ。
そんなポータの心の叫びは、すぐに霧散する。
アーシェが恐ろしくてたまらなかった。
自分は一体、何というモノに噛みつこうとしていたのか? と後悔すらしていた。
「これで少しは安心できます。ポータくんはしばらくルシアン様のお側で、勉強することになるでしょう? ちょうど良かったのですよ!」
「……その……もし他の女性の接近を許してしまった時はどうしたら……」
「……私は薬師です」
「……ッ……そ、そろそろ時間なので戻ります。薬、ありがとうございました。奥様」
殺されるのではないか?
おそらくポータか、その女性のどちらかはわからないが、何かしらの薬で最終手段を取ると言われた。
——師匠に他の女を絶対に近づけない。
それだけを強く決意して、ポータはアーシェから逃げるように、薬局から立ち去った。
こうしてポータはアーシェ流の「上手く
◇
「ポータ、ごめん。少し寝坊しちゃって……待ったよね?」
「師匠、おはようございます! 僕もさっき来たところです!」
「ふふっ……ポータは本当に優しいね。でもたまにはわがままを言っても良いんだよ?」
「そんな……僕は師匠の元で勉強できるだけで幸せなんです」
アーシェを伴って休憩所を訪れたルシアンは、今日も聖人のように尊い。
聖人の隣では【ミーリスの太陽】が輝いていた。
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