40話 フィンブルウィンター



「ただいま戻りました。父上。話したいことがたくさんあります」

「おかえりルシアン。積もる話はあると思うけどまずは夕食にしよう。そのときに話を聞かせてくれ」


 ラクシャクへの二度目の帰還を果たしたルシアンは、エドワードの執務室で、いつかの日を再現するように全く同じやり取りをした。

 騎士の任を解かれた時と違うのは、ルシアンを待つ人が増えたということと、独りでの帰還ではないことだ。


「エドワードさん! かわいいかわいいナイラが帰ってきたよーん!」

「……お義父さん! お元気そうで何よりです! この虚槍ブライスが、これよりミーリスの槍となります!」

「ポ、ポータと言います! ルシアン様の弟子にさせていただきました! よろしくお願いします!」


 賑やかな三人は、五日間の馬車の旅の疲れなど、微塵も感じさせないほどに元気に挨拶した。


「あ、あぁ三人ともよく——

「ルシアン様!」

「ルシアン!」

「先生!」


 エドワードは帰還組の挨拶を返そうとしていたが、それを遮るように勢いよく扉が開き、三つの影がルシアンに飛びかかった。


「うわぁっ! ここ父上の執務室だよっ!? あっ……だれっ……耳に舌入れてるの! ちょっと!」

「んーるひあんひゃまぁ……」

「あぁルシアンッ! もう置いていかないでくれ!」

「せんせっ……匂いすごぉい……」


 久しぶりに包まれた愛する婚約者の甘い匂いと柔らかい体に、段々と理性が溶かされていく。

 身体中をまさぐられ、胸を押しつけられ、耳にぬるりと温かな舌の感触を感じる。


 ——幸せだ。


 ぼんやりと思考が鈍くなっていく中、そんなことを思った瞬間——頭を石で殴られたような衝撃が走る。


「い"っ……たぁ……な、なんで僕が……」

「お前達は何をしておるかッ!? アーシェ、ベル、ウルスラ! 仕事はどうした!? そもそも皆が見ている前で何をしてるんだッ! ルシアンも少しは抵抗をしろッ!」


 心地良い沼から現実に戻ると、目の前には拳を握ったエドワードが、顔を真っ赤にして憤慨していた。

 

 当然だった。

 突然現れた婚約者達が、エドワードの執務室でルシアンに襲いかかったのだから。

 愛に飢えていたルシアンも快楽に身をゆだねて『賢人』とは、程遠い知能の低さを披露した。


「お父様? 愛とは何よりも勝るものです!」

「お父様! あたしのルシアンです!」

「お父様ぁ? モチコもきっと先生に会いたいよ?」


 狂気に包まれた婚約者達は、いつのまにかエドワードにすら動じない化け物になっていた。

 

 ルシアンは帰還組の三人の表情を盗み見た。

 ナイラとブライスは空笑いをしながらも、とんでもなく引いており、まともな反応で安心した。

 

 問題はポータの方だった。

 

 師匠の奥様方……すごい……と呟きながら、憧れの人物を見るかのように、キラキラと瞳を輝かせていた。


(え、これ何……いや懐かしいといえばそうだけど、僕の婚約者達……力持ちすぎじゃない? このままじゃ父上の面目が……てか父上って元々王太子なんだよね? なんか雑魚扱いされてない?)


 このままでは、エドワードの沽券こけんに関わると判断したルシアンは、なんとかこの場を収めようと、口を開いた。


「アーシェ達は後で、僕のこと好きにしていいから、とりあえず仕事に戻って?」

「……お父様申し訳ありませんでした。皆様もおかえりなさいませ。私は仕事に戻りますね?」

「……言ったからな。簡単に言ってはいけないことをルシアンは言ったからな!」

「……明日お休みもらっちゃうからねぇ? 逃げないでねぇ先生?」


 一気に室内の温度が上がり、フーッフーッと荒い呼吸をする三人の婚約者達は、ルシアンを脅すように暗い瞳を向けてから、執務室を退出した。


「ね、ねぇルシアン……君の奥さん達すっごく綺麗だけど、本当に大丈夫な人? 元は殺人犯だったりしない? お姉ちゃん心配だよ?」

「……あの牛獣人の娘、何者だ……強いな」


 ナイラとブライスは珍しく焦っているようだった。

 彼女達のことを良く知らない二人からすれば、当然の反応かもしれないが、ルシアンは夜のことを楽しみにしていた。


 ——どうせ勝つのも蹂躙するのも僕だ。


 彼女達を幾度となく煽り、幾度となく戦ってきたが、ルシアンは負けたことがない。

 とりあえず生意気な煽り方をしてきたアーシェだけは、一番キツく当たって、二日ほど仕事の休みを取らせようと考えていた。


「え……えっ? ポータくん……ルシアンの顔見ちゃだめだよ! こんな悪い顔真似しちゃだめだよ!?」

「師匠……すっごく下品な笑顔してる……」


 お祭り騒ぎの執務室は、ルシアンに二度目の正義の鉄槌が振り下ろされたことで、落ち着きを取り戻した。


 


 

 ミーリス家の食卓は、未だかつてないほどの賑わいを見せていた。

 ミーリス家の面々と、ナイラとブライス、弟子のポータの九名がナクファムでの話や、留守の間のラクシャクの話に花を咲かせていた。

 ルシアンは全員の顔をチラリと覗き見て、心が満たされていくのを感じていたが、バルドルがこの場にいないことに、寂しさも感じていた。


「そういえば、エドワードさんの正体についてそろそろ話しておいた方がいいんじゃなーい?」


 思い出話がひと段落ついた頃に、ナイラが軽い口調でそう言った。


「ふむ……話すも何もゼナードから聞いているのだろう? それ以上でもそれ以下でもないよ」

「そうねぇ……ルシアン達は何か気になることがあるかしら?」


 エドワードとマリーダは、困ったように笑いながら、そう返したが、ルシアンはあまり興味はなかった。


 強いて言うのなら——


「では一つだけ……父上はどこまで先のことが見えているのですか? 僕たちのことも、リルベス併合のことも、まるで父上の描いた通りに、進んでいるような気がする時があります」


 ルシアンは自身の選択や思考が、エドワードの思い通りに制御されているような感覚がして、気持ち悪かった。

 ただその一点だけが気がかりだった。


「あら……ふふっ……ルシアンのそれはわざとかしら? いい歳のくせに、本当に甘え上手なのねぇ?」

「……流石にそれはあざとすぎるぞ、ルシアン。いい歳してかわいこぶるのは、やめなさい」

「えぇっ……なんか僕すごく馬鹿にされてない?」


 ルシアンは全く意味がわからない状況だったが、両親だけでなくナイラや婚約者達まで、生温かい視線を向けてきたので、黙り込むしかなかった。


「もしそのような力が私にあったら、セグナクト王国はとうの昔に、平和な世界が訪れていただろうな」

「……賢いルシアンならわかるでしょ? 他人を思うままに制御できる人間なんていないわ」


 全くその通りだった。

 これまでの人生の中でそのことは、よく理解していたはずだったが、エドワードの適性の異質さにそんなことも考えられなくなっていた。

『適性の呪縛』の恐ろしさを、再認識させられた気がした。考えればすぐにわかることでも、本質を見失ってしまう、それが『適性の呪縛』なのだ。


「じゃあ、この違和感の正体は一体……」

「ルシアン……それはお前が私の意志を大切にしてくれていることの証明だろう。自分で言うのも恥ずかしい話であるがな」


 困ったように笑ったエドワードの、言葉の意味を理解したルシアンは、急激に顔が熱くなるのがわかった。


 ——エドワードの意志を大切にしているのだから、彼の描いた通りに事が進んでいるように感じるのは、当たり前だろう?


 つまりそう言うことだった。

 理解してしまうと、先ほどの両親の言葉や、皆の生温かい視線の意味も、恥ずかしくて仕方なかった。


(僕が父上のことすっごい好きみたいできちぃ……何が『賢人』だよ……大ばかじゃないか……うっわぁ……どうしよう……みんなニヤニヤしてる。『賢人』の脳味噌! 力を貸してくれ!)


「ち、ちょっとお手洗いに行ってきます!」


 全く愚かな脳味噌だった。

 どんな人間も愛する者の前では、クソ雑魚なのだ。


「……逃げるのか」

「えぇ逃げるみたいですね」


 立ちあがろうとするルシアンに、わざと聞こえるように両親が笑う。


「ルシアン様、可愛らしいです」

「あたしにはあんなにかっこいいのに」

「私にはあんなに包容力あるのにぃ」


 立ち上がったルシアンに、婚約者達が追撃する。


「ルシアンって変なとこでポンコツだよねー」

「ナイラにバブバブしてっからだぞー?」

「師匠の完璧じゃないところも、尊敬できます!」


 背を向けて歩き出したルシアンに、帰還組が最後の追撃をする。


 しかしルシアンは、すでに恥ずかしい思いをしたことを忘れ去っていた。その理由は幸せな気持ちが溢れて、泣き出しそうになっていたからだ。


 ——孤独なはずだった。


 親も知らず、自身の歳も知らず、満腹を知らず、愛を知らず、人として生きることを知らず、人間が醜いことだけは知っている、孤独な子供のはずだった。


 しかし今はこんなにも多くの愛に包まれている。親がいて、婚約者がいて、姉夫婦がいて、弟子がいる。そして更なる強欲すら望んでいる。


 ——兄だ。兄がいないのだ。


 未だ独りで戦い続けるバルドルも、この幸福な空間に沈めたい。ボロボロになるまで戦い続けた偉大な騎士アウルも沈めたい。

 リルベス併合がその決戦場だ。ミーリス領の皆とルシアンの策で、二人をこの幸福の理想郷へと沈める。


 新たなる目標が明確になったルシアンは、溢れる涙を両手で雑に拭い去って、窓の外を眺めた。


 日が落ちるのが随分と早くなった。


 ——もうすぐ冬が訪れる。


 

 

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