第16話 ル??ンの教育②
北西の行政区にあるミーリス家の屋敷を出たルシアンは、すっかり歩き慣れた様子で南西の居住区にある教育施設に向かった。
のどかなラクシャクの朝の空気を肺に吸い込み、仕事に向かう市民達と挨拶を交わしながら歩く日常は、何ものにも変えがたい幸福である。
そして教育施設には
いつも通り大部屋へと入ったルシアンが目にしたものは——笑顔のアーシェと少し困り顔のベルとウルスラだった。
「おはようございます。ルシアン様」
「お、おはよう! 三人とも揃ってどうしたの? 珍しいね?」
穏やかなアーシェの挨拶にルシアンは、できるだけ明るい挨拶を返しながら、三人の対面へと腰掛けた。
「先生ごめん……全部話しちゃった」
「ッ……ぇ……」
ウルスラが小声で申し訳なさそうに発した言葉を、ルシアンの脳が理解するまで時間がかかった。
(え? ぐちゃぐちゃにされちゃう? まだ三人に教育を施してから、七日も経ってないんだけど)
ルシアンは黙り込むしかなかった。この場を支配しているのは、アーシェであると理解していたからだ。ご褒美制度という謎の制度によって、アーシェだけが不公平な扱いを受けているのは事実だ。
しかしルシアンも阿呆ではない。この一連の策略の
「ルシアン様とウルスラちゃんの教育を邪魔するわけにはいかないので、今日は一言だけお願いするために待っていました」
「……僕にできることなら、できる範囲で叶えてあげるよ」
アーシェはいつものように快活な笑顔ではあったが、その喋り口は十六歳の少女のものではなく、落ち着いた大人の女性のものだった。
しかしルシアンも負けてはいなかった。アーシェのお願いに対して、あえてこちらが上であることを示すように『叶えてあげるよ』と二十五歳、元騎士の意地を見せていた。
「……私はルシアン様の体を
「……!?!?!?!?」
ある程度の覚悟はしていたが、声が出なかった。
人は本当に驚いたときは声が出ないことを、ルシアンは初めて教えられた。
ルシアンは三人の生徒と関わるようになってからは、耳が腐ってしまった可能性を何度も考えたり、阿呆のような声を出してしまったりと色々な方法で驚いてきたが、声が出なかったのは初めてだった。
アーシェの提案にはベルとウルスラも思うところがあるのか、ガタンッと音を立てて立ち上がり、椅子を倒してしまっていた。
「ア、アーシェ……それはちょっとぉ」
「あたしもそれはやりすぎだと思う」
(いけっ! ベル! ウルスラ! アーシェはとんでもないことを言っているぞ! お願いだから……アーシェを止めて……)
ベルとウルスラの思わぬ加勢により、ルシアンは心の中で二人を応援していた。ルシアンもここが勝負所と見て、畳み掛けようと口を開いた瞬間——
「二人はいやらしいですから、ルシアン様の匂いを嗅いだり、舐めたりしたいのでしょう? 私はただ触診をするだけですよ? 触って撫でるだけです。」
「ほんとぉ? 私は裸の先生にぎゅうってされたいけど。アーシェはそれで満足できるの?」
「あたしは、その…………いや、なんでもない。でもアーシェが本当に触るだけでいいなら、あたしも問題ない」
ベルとウルスラは勝手に加勢して、勝手に負けた。しかも瞬殺だった。あまりにも弱すぎた。
(終わってる……ウルスラの中では勝手に裸にされてるし、なにより一番終わってるのはベルだよ。顔赤くして、いや、なんでもないってなに? 僕になにをする気なの?)
ベルとウルスラが敵だったことを思い出すと、なぜかアーシェが常識人に見えた。
「ね? ルシアン様……私が安全ですよ? 私は薬師ですから、ルシアン様の古傷を診てあげたいのです」
「アーシェ……」
ルシアンは
ルシアンは元騎士であるため、大量の古傷が体にある。そして触診することによって、アーシェは薬師としての薬の扱いを練習することができる。古傷が治るとは思わないが、傷を見てどの薬が効くのかを考えることは勉強になるだろう。
『薬師が触診をすることは、おかしなことはないではないか?』そんな思考に染まっていた。『これはもはやご褒美ではなく教育ではないか?』そんなことすら思っていた。
なぜアーシェがルシアンの体に古傷が大量にあることを知っているかなど、大して気にもならなかった。
「アーシェ……本当に触診だけだよね? 古傷を見て勉強するってこと?」
「え? 触って、撫でて、眺めるだけのつもりでしたけど、確かに勉強になるかもしれませんね!」
いつも通りの太陽のような笑顔から放たれた言葉は、ルシアンの予想とは少し違っていた。
アーシェも狂人だということを忘れていた。薬草を取ってきたルシアンの腕の傷を見て、暗い愉悦に浸っていたアーシェの笑顔を思い出した。
「ルシアン様? 良いお返事はいただけませんか?」
困ったような表情のアーシェを見つめながら、ルシアンは脳をギュルギュルと回転させていた。
(……触診はウルスラと同じくらいに簡単なご褒美だと思う。僕の中で一番抵抗があるのはベルのご褒美だし……でも懸念すべきはそこじゃない)
ルシアンが感じていたのは、このままご褒美の要求が上がっていくことへの恐怖だった。
今はまだベルが飛び抜けているが、それに合わせるようにアーシェとウルスラが要求を上げてこられては身が持たないのだ。
ミーリス男爵家の嫡子が奴隷を買って、腹を殴り、上半身を晒し、抱きしめている。部分的事実を並べると終わり散らかしているのだ。
もはやミーリス領を発展、改革どころの話ではない。特に戦乱の世が終わり、平和な世の中へと切り替わったこの時期に、奴隷にそのようなことをしている貴族がいるなどあってはならないことだ。
しかしルシアンには『教育者』や『幸福製造機』としての一面もある。かわいい生徒達が本気で望むのであれば、自身にできる範囲でその望みを叶えてあげたいという気持ちもある。問題はどこまで自身を捧げるか?という話である。
「ルシアン様、これをどうぞ」
「……これは?」
考え込むルシアンに、アーシェは一枚の紙に包まれた何かを渡した。受け取ったルシアンはおそらくこの紙は薬包紙であり、中身は粉末状の薬だと推測した。
「魔物を捕獲すると聞いていたので、麻痺薬を持ってきました!」
「ア、アーシェ、いつのまにこんなものを……」
「あ、あたしそろそろ鍛錬にいきたいかも」
「先生? 早く返事をしたほうがいいと思うよぉ?」
麻痺薬という調合をできなければ、作れない薬をアーシェが持っていたことにルシアンは驚いたが、なぜかベルとウルスラは露骨に焦っていた。
「最近メリックさんに、麻痺薬のことを詳しく聞いてるんです! それでその薬は私が作りました!」
「えぇっ! すごいじゃないかアーシェ! もう調合もできるようになったの!?」
ルシアンは今までの思考が、全て消し飛ぶほどに喜んだ。ルシアンから少しのコツを教えてもらい、メリックの手伝いをしていたアーシェは、たった七日足らずで調合までできるようになっていたのだ。
しかしその感動は次のアーシェの言葉で消え去った。
「その薬——人間にも効果があるんです」
「え?」
脅迫だ。これは間違いなく脅迫である。
ルシアンの遅い返事に対して痺れを切らしたアーシェは、物理的にルシアンを痺れさせようとしている。
それはアーシェの笑顔を見ればすぐに理解ができた。宝石のような青い瞳の奥には、確かな暗闇が蠢いていた。
『あんまりチンタラしてっと、一服盛っちまうぞ?』おそらくそう言われている。
「あ、ありがとうアーシェ。本当に天才だね! それでご褒美の件だけど叶えてあげる。かわいい生徒のためだもんね!」
「はい! 嬉しいです! ルシアン様が私の先生で本当によかったです!」
『だってぐちゃぐちゃにできるから』
そんな言葉が聞こえてきそうだった。
「では! お時間を取らせてすみませんでした! 私はメリックさんの手伝いがあるので、お先に失礼しますね?」
「あ、あたしも槍の練習があるから……ルシアン様、いつでも
アーシェとベルが去っていった後の大部屋には、ルシアンとウルスラだけが残されていた。
「先生……元気だしてぇ?」
つい先日、三人と戦うと決めたルシアンは心が折れそうになっていた。
(負けた。アーシェ一人に好き勝手された。これじゃあ三人が本気で協力したら、ほんとうにぐちゃぐちゃにされちゃうよ……)
どさくさに紛れて抱きついてくるウルスラのサラサラの黒髪を撫でながら、ルシアンは頭を切り替えるまでの時間稼ぎをしていた。
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