第20話 弟の仕返し


 「はぁー……もう一回トイレ行って来る」

 「大丈夫?」

 「ん……落ち着いたら戻るよ」

 弟から離れ、重く熱を持った目元を抑えながら深く息を吐いた。

 「眠そう」

 「……まぁ、完徹だし」

 ぼんやりとする視界をどうにかすべく、ぎゅっと目を閉じる。焦点が定まらないのだ。

 数秒して目を開くも、焦点定まってなかった。

 「つかさー……ミヨさんヤバくね? 聞いててイライラしたわ」

 「イラついてたのね、お前」

 声を潜める弟は、眉間に皺を寄せて不快な感情を露わにしている。それに少し驚けば、「当たり前じゃん」と返された。

 「万が一でお母さんが悪かったとしてもよ? その子供にお母さんの悪口言うのは違うじゃんか。しかもお母さん悪くねぇし」

 「いつも通りすぎて全くわからんかったわ」

 「いや、俺最初から居たわけじゃないし。さっき話聞いたばかりだから、とりあえず全部聞いとこうって思った」

 弟は、罰が悪そうな表情で「俺が言えたことじゃないけど……」と続けて言う。

 「お母さんに迷惑かけんでほしいわ。俺、いっぱい迷惑かけてるけど。あの人大人よ? しかも五十過ぎの。もうちょっと考えてほしいよな」

 「そ、れ、な! ほんとそれ! もう……正直、さっき『心ある?』って思ったもん。なんで悪口とか平気で言うかわからんし、何も知らんのにアレコレ言うのもわからんし…」

 「サクラ泣いてるのに意味わからんって顔しててビビった……俺、後で言い返したよ」

 「え、なんて言ったん?」

 「なんだっけ……あー、確か、『なんで側に居らんかったミヨさんがそう言うこと言うの? お母さんずっと話そうとしてたし、離婚のこともちゃんと理由話してるじゃん。それに、おじさんの火葬の時だってお母さん話そうとしてたのに、ドタキャンしたのはそっちでしょ』みたいな感じだったかも。他にもいろいろ言ったけど、覚えてないわ」

 おじさんとはじいの弟さんのことである。一昨年の夏に重篤な肺炎を起こした末亡くなったのだ。母は亡くなる数日前から本土にある病院へ通い、ずっと声をかけ続けたそう。伯母も本土にいたのだが、何故か火葬の時だけやってきたらしい。その際、将来的なことについて相談するため、母と居酒屋で落ち合う約束をしていた。

 しかし、予定時刻前に「行けなくなったわー」と連絡が入り、話すこともできなかった。弟曰く、「リュウが言ってたけど、その時別に用事とかなかったって。多分めんどくさがったんだと思う」らしい。

 そのことを指摘し、苦言を呈したらショックを受けた様に泣いたようだ。どうにも、第三者視点である弟からの言葉が刺さったとみた。

 泣きたいのはこちらだし、それを聞いたところでなんとも思わなかった。冷たいと自分でも思うが、自業自得だろう。話す機会は自分でつぶしているのだから。

 それに、母が話す機会を設けようとしたのはその時だけでない。電話越しじゃなく、直接話したいと言う考えは理解できるのだ。だからこそ、今回は飲み会の席で話したのだ。

 それはそうと、弟はよくやってくれた。悔やむべくは、一連の流れを傍観できなかった点である。

 弟の成長に、思わず笑みが浮かんだ。

 「見たかった……というか、よくやったハル!」

 「まあ、やるときはやる男の子なので」

 わざとらしい仕草で照れてみせる弟は通常運転だった。

 私は、乾燥してカピカピとする目元を摩る。

 「じゃあ、とりあえず先戻っといて。トイレ行くから」

 「了解。無理せんでね」

 その言葉を受けて一歩踏み出すと、よろりと体制が崩れた。どうやら、足元がおぼつかないようだ。

 体を動かすのも億劫になるほどの倦怠感に全身を包まれながら、大きく息を吐く。

 泣く行為は、想像を超えるほど体力が消耗される。心臓は忙しなく鼓動するし、肺は痙攣したように、不規則なテンポで収縮する。

 過呼吸にならなかっただけいいだろう。

 息を整えながら、そんなことを思った。

 再びトイレのドアを開けて中に入る。個室には入らず、洗面台に手をついて前のめりになった。

 目元だけでなく、頭も熱い。発熱したのか、はたまた泣きすぎなのか、頬は火照り、うっすらと汗をかいていた。

 ガンガンと痛みを訴えるこめかみに手を添えて、深呼吸を続ける。

 すぐ泣いてしまう様では、話をすることもままならない。冷静に、感情的になってはダメだ。

 

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