REMANEPY
「死ぬほど洒落にならない怖い話を集めてみない?」に投下された話へのオマージュです。
※直接的な性行為に関する描写が含まれますのでご注意願います。
*
わたしは夢を見ていた。
小高い丘の上にある公園のベンチ。双子座の流星群を待っている。
隣にいるのは背の高い、名前も知らない男の子。
横顔しか見えないけれどそれなりにハンサムで女の子には困らない風貌。
わたしは相手にされないんだろうな、と思っていると彼はわたしの右手を握った。
「もうすぐ22時になる。
13日から14日にかけて運が良ければ1時間に20から30個くらいは流れ星が見えるらしい。
一つの星につき1個の願いごとができるとしたら叶え放題だ。
ハルは何をお願いするの?」
弟のバンドが上手くいくように、かな。あとは今ちょっと思い浮かばない。
あ、素敵なカレができると嬉しいな。
「それはもう叶っている。俺がいるじゃないか」
それが本当なら素敵だろうけれど。あなたは一体誰なんだろう。
でも不思議と嫌な感じはしなかった。
傲慢に思えるくらいの自信家で、それに見合うルックス。しかも賢そう。
少し寒くなってきた。彼の腕に抱かれながら夜空を見上げる。
極大を迎える流星群は月明かりよりもっと強く光り輝いて、闇夜をいくつも横切った。
これはいつの出来事なのだろう。遠い遠い未来のような気がする。
*
同棲生活は3ヶ月目を迎えた。
仕事で都内にいることが多い高崎のために平沼橋と星川の間にある賃貸マンションを借りた。
初期費用は折半でなんとかやりくりしたが月に12万円の家賃と水道光熱費、管理費や食費などを合わせるとギリギリだった。
パチンコ店で働くハルは、彼氏には内緒で箱ヘルで働き始めた。
性欲が旺盛な彼女は朝晩に1回ずつ必ず性交を求めたが、高崎は最初こそ応じたものの日に日にそれに応えることが難しくなってきていた。
仕事を理由に求めを断ることが多くなった。
高崎を責めることはできない。
どれほど魅力的な女性でも、平均的な成人男性にとって毎日朝と晩の性行為を続けることは難しく感じるだろう。
それが射精を伴う場合はなおさら。
そのような経緯から性風俗店で働くことは、現実的な資金繰りのためだけでなくハルの手っ取り早い性欲解消方法としても機能した。
*
”何者にでもなれることを確信する”
それはこの世界を生き抜く上で崇高な理念であり、高崎の座右の銘でもある。
何かを志すには強い決意とその裏には同じくらい強い動機が必要だ。
高崎は高校を卒業する1年前に俳優の道を志すことを決意して、そのための資金や具体的な生活設計をしていた。
両親は概ね賛成の意を示してくれた。大学をきちんと卒業することが条件だった。
高校を卒業したのと長女が子どもを出産したタイミングがほとんど同時だった。
19歳で晴れて高崎は叔父さんとなり、両親は祖父母になった。
大学の演劇部で腕を磨いた。都内にあるミニ・シアターでいくつかの役柄を演じた。
高校時代の友人たちも舞台を見にきてくれて、冷やかし半分の激励をくれた。
大学を(単位はギリギリだったが)無事にストレートで卒業し、それなりに名の知れたプロダクションに所属した。
1年ほどアルバイトを掛け持ちしながら仕事をこなす日々が続いたが、比較的仕事に恵まれた状態で実家を出た。
ハルと出会ったのは偶然の成り行きからだった。
池袋で行われた小さなイベント。
ローカルなアニメファンのコミュニティのような団体が主催するイベントで、知人がゲストとして招かれていたから着いていった。
関係者と観客のちょうど中間に位置する中途半端な立ち位置。
コスプレイヤーとそれを撮影するのに群がるオタク。
異様な空気感に気圧されながら顔はやや引き攣っていたと思う。
ハルは弟に連れられてそのアニメイベントにきていた。
弟はシンガーソングライターとして活動しており、アレンジャーの仕事も単発で引き受けていた。
アニメイベントには二次創作本や同人音楽を販売するブースがあり、ハルの弟はそこにつきっきりだった。
高崎とハルは会場の端で手持ち無沙汰。
なんとなくお互いが似たもの同士だと思っていたところ、ハルの方から高崎に声をかけた。
お互い出身地が同じ横浜市ということにはじまり、会話は弾み意気投合した。
2人で会場を抜け出して近くのカフェに行き、居酒屋に場所を移して夕食をとってその日は別れた。
その後も定期的に連絡を取り合って、何度かデートして付き合うようになった。
ハルが25歳の誕生日を迎えるタイミングで同棲する話が持ち上がり、今の賃貸マンションで暮らしはじめた。
*
ある春のよく晴れた休日。
みなとみらいで生活に必要な細々としたものを購入した。
2人ともお腹が空いたので山下町にあるカフェ88に入り、コーヒーとパスタを二人分注文した。
「元町に小さな雑貨屋?アンティークショップがあるみたい」
ハルがスマホを操作して高崎に見せる。ここからそれほど遠くではない。
「おもしろそう。これを食べたら行ってみよう」
パスタを完食し、グラスに一杯水を飲んだ後勘定を支払って店を出た。
中華街の朱雀門の方まで歩いて向かい、橋を渡ってアーケードまで。
元町ユニオンを通り過ぎたあたりで裏道に入ると、一軒の寂れた店が目に付いた。
「おぉ!意外とこんな店にラストワン賞のフィギュアが眠ってたりするんだよな」
浮かれる高崎を冷めた目で見る彼女と共に、2人は店に入った。
コンビニ程度の広さの小ぢんまりとした店だった。
主に古本が多く、家具や古着はあまり置いていない。
ゲームソフトなど「遊戯王4-バトルオブグレイトデュエリスト」が嫌がらせのように1本だけ埃を被って棚に置いてあるだけだった。
高崎がもう出ようか、と言いかけた時「あっ」とハルが驚嘆の声を上げた。
ぬいぐるみや置物などが詰め込まれたバスケットの前に彼女が立っていた。
「何か掘り出し物あった?」
「これ、すごい」
そう言うと彼女は、バスケットの底に埋没していた正二十面体の置物を、ぬいぐるみや他の置物を掻き分けて手に取った。
今思えば、なぜバスケットの1番底にあって外からは見えないはずの物が
彼女に見えたのか、不思議な出来事はここから既に始まっていたのかもしれない。
「何これ?プレミアもん?」
「見たことないものだけど、すごく惹かれる」
確かに一目見て良質なものだとわかる、煌びやかな色合い。
白蝶貝のような乳白色の材質でできていて、精巧な作りのベースボール大のオブジェ。
新居に飾るインテリアとしては悪くないかもしれない。
高崎は安かったら買っちゃえば、と言った。
レジにその正二十面体を持って行く。
しょぼくれたじいさんが古本を読みながら座っていた。
「すいません、これいくらですか?」
じいさんが古本から目線を上げたとき驚愕としか表現できない表情を顔に浮かべた。それはほんの一瞬の出来事で、すぐに職業的で中庸な表情に戻った。
「えーっと、いくらだったかなちょっと待っててくれる?」
そう言うと奥の部屋(おそらく自宅を兼ねている)に入っていった。
奥さんらしき老女と何か言い争っているのが断片的に聞こえた。
やがてじいさんが1枚の黄ばんだ紙切れを持ってきた。
「それはいわゆる玩具の一種。リマネフィという名前。この説明書に詳しい事が書いてある」
丁寧に折り畳まれた羊皮紙を広げた。随分と古いものらしい。
紙には例の正20面体の絵に「REMANEPY」と書かれており、
それが「魚」→「蟹」→「蠍」に変形する経緯が絵で描かれていた。
見慣れない外国語も添えてあった。おそらく英語とラテン語だ。
「この様にこの置物は色んな動物に変形出来るんだよ。
まず両手で包み込み、おにぎりを握るように撫で回してごらん」
ハルは言われるがままに、リマネフィを両手で包み、握る様に撫で回した。
すると「カチッ」という音がして、正二十面体の面の一部が隆起したのだ。
「その出っ張った物を回して見たり、もっと上に引き上げたりしてごらん」
言われた通りにそうすると、今度は別の1面が陥没した。
「すごい!パズルみたいなもんですね!」
この仕組みは「トランスフォーマー」と言う玩具に似ている。
カセットテープがロボットに変形したり、拳銃やトラックがロボットに・・・という昔流行った玩具だ。
正二十面体のどこかを押したり回したりすると、サカナやカニ、サソリなどの色々な動物に変形していく。
もはや、彼女は興味深々だった。
「それでおいくらなんでしょうか?」彼女が尋ねると、
「それは結構古いものなんだよね。でも、私らも置いてある事すら忘れてた物だし・・・よし、特別に1万でどうだろう?
ネットオークションに出したら好きな人は数十万でも買うと思うんだけど」
そこは値切り上手の彼女の事だ。結局は半額近くにまでまけてもらい、ホクホク顔で店を出た。
次の日は月曜日だったので、早めに帰宅することにした。
家に帰って簡単な夕食をとってからシャワーを2人で浴びた。
ベッドで”運動”を行ってからもう一度シャワーを浴びて眠りについた。
*
月曜日。
高崎の仕事が終わり、先に家に着いた。朝の情事で乱れたベッドを直しているとハルから電話があった。
「あれから夢中になって、家を出るのが遅れるところだった。超複雑な知恵の輪パズルって感じ。
仕事中もそればっかり頭にあって、手につかない。下手なTVゲームより断然面白い」
と一方的に興奮しながら彼女は喋り、21時には家に帰れると思うと言い電話を切った。
ダイニングテーブルの上に乗っているオブジェを手に取ってみた。
歪な多面体は姿を変えて魚のヒレのような物が隆起していた。LEDの照明を受けて乳白色の本体が神秘的な輝きを帯びていた。
高崎は良く出来てるなと感心して、オブジェをテーブルに戻した。
パスタを出来合いのソースに絡めるだけの簡単な夕食を作っていると、ハルが帰宅した。
彼女はただいまと言って彼にキスをしたあと、テーブルの準備を手伝った。
食べながらリマネフィ・パズルを組み立てていくうちにとうとう魚の完成形が姿を現した。
2人で歓声を上げて、記念にスマートフォンで撮影会をした。
そのままベッドに雪崩れ込んで、真夜中すぎにシャワーを浴びて眠りついた。
その次の日、火曜日。
高崎が仕事の帰り道をタクシーで移動していると、ハルからメールの着信があった。
>今日はずっと例のパズルをいじってたらカニが出来た
>とてもよくできてるよ
>あとで手に取って見てみて
高崎は苦笑しながらも返信を打った
>今日は仕事は休みだったの?
>急遽シフトの変更があって休みになった
>夜に出勤して締め作業だけだけ手伝うから
>今日は先にごはん食べて寝ててね
それを読んで高崎は安堵した。連日の朝晩の性行為で体力が回復しなかった。
今日の朝はさすがにキツい、と断ったところハルはやや不機嫌になった。
ハルは火曜は終日非番だったが、風俗店に連絡をいれて20時から24時までの4時間だけ控室で待機していた。
その日は3人の新規客が彼女の元を訪れて、3回の射精を口で受け止めた。
彼女は合計7回の絶頂を迎えて、心地いい余韻に浸りながらバイクで星川のマンションまで帰宅した。
箱ヘルの控室に持ち込んだ例のオブジェはカニの形になり、一度彼女の手で写真におさめられたあと別の形状へと変貌しつつあった。
元々が光沢のある白い滑らかなオブジェだが、今は二つのハサミが両手を広げたように左右に伸びていて、
下半身はサソリの尻尾のようなものになりつつあった。
その奇怪な異形もどこか神秘的に見えた。まるで前衛アーティストが新解釈した堕天使の姿みたいに。
水曜日。
高崎は仕事の合間の移動時間に、ネットで正二十面体の玩具について調べていた。
これと酷似したアイテムが体験談の投稿サイトで見つかった。
その物語では古物店で入手したオブジェが「熊」→「鷹」→「魚」にするらしい。名称がアナグラムになっており”地獄の門”を意味するようだ。
彼は妙な胸騒ぎを感じたが、個人的な印象としてはハルが買い求めたオブジェにそのような禍々しさは感じなかった。
確かに珍しくて不思議な玩具だが、それが元で何か災厄に巻き込まれることはないだろうという直感に似た確信があった。
もし何か現実に高崎とハルに何らかの影響を及ぼすものがあるとすれば、それは彼ら自身が内包する問題や課題のようなものが要因だろう。
何らかのきっかけで表に問題が出てくるのであれば、結局のところそれは避けることができない未来だ。
仕事が終わったあと今度は高崎からメールした。
>事務所の先輩と飲み会で帰りが遅くなる
>昨日の夕食の残りだけれどドリアが冷蔵庫に入っている
>よかったら電子レンジであたためて夕食にどうぞ
「送信」を押す前に着信があった。ハルからだ。
「ねぇさっき電話した?」
「いや、ちょうどメールを書いていたところ。どうした?」
「ううん、なんでもない。知らない番号から電話があったから、もしかしたらとおもって。
今日は夕ご飯どうする?」
「そのことでメールを送ろうとしていたんだ。事務所の先輩と飲みにいくことになって、今日はひとりで済ませてほしい。
それより知らない番号って?」
「うーん、よくわからない。よく見ると電話番号にしては桁数が多い気がするし。
海外から発信されたのかもしれない」
「なにかの詐欺かもしれないし、折り返しはしないほうがいい」
「うん、そうする。そういえばあと少しでサソリができる。あのオブジェ」
「リマネフィだっけ?そうだ俺の方で少し調べてみたんだ。バッテリ残量が少ないから帰ったらゆっくり話すよ」
「わかった。それじゃまたね」
そのようにして通話は終了した。
バッテリを節約するためiPhoneの電源をオフにして、中野から新宿方面に向かう電車へと乗った。
飲み会は場所を変えて日付が変わるまで続いた。
実質的には先輩が連れてきた業界の大御所をもてなす会としての側面が強く、高崎はもっぱら酒を切らさないように絶えず横で気を遣う担当だった。
深夜2時頃にお開きになり、大御所をタクシー乗り場まで送ったあと近くのカプセルホテルに泊まった。
けっきょくそのまま電源が入らなくなったiPhoneを片手に、あまり深夜の街を歩き回りたくなかった。
新宿の区役所前にあるカプセルホテルは電源を使うことができたので、充電器を挿してiPhoneに電気を供給した。
ハルから着信とメールが一通届いていた。
本文は何も記載されていなかったが、添付ファイルがあった。
それを開いてみると、完成したサソリのオブジェがダイニングテーブルの上に鎮座している様子を撮影したものだった。
白蝶貝のような乳白色がLEDの照明を受けて神秘的な光を帯びている。
鋭利な尻尾が攻撃的で、妖艶な踊りを舞う遊女の姿を連想させた。
>連絡が遅くなってごめん。飲み会が長引いた。
>明日は始発で帰る
>おやすみ
それだけ送るとすぐに睡魔が襲ってきて眠りに落ちていってしまった。
*
俺は夢を見ていた。
断片的で象徴的な夢だった。目が覚めたらきっと細部まで思い出せないんだろうな、と夢の中で思った。
天女のような女性たちがたくさん登場していた。
彼女たちは皆衣服を身につけておらず、白い大蛇やトカゲのような生き物で乳房や陰部を部分的に隠していた。
中には胸に般若のタトゥを入れている女性もいたし、舌や鼻にピアスをつけているぽっちゃりとした女性もいた。
やはり彼女たちは皆と同じように裸だった。
その中にハルがいた。
彼女は他の女性たちと同じように裸で、美しい羽が背中から胸にかけて覆うように生えていた。
色素の薄い瞳の色。大きすぎず小さすぎない形のいい胸。薄い陰毛。
そのどれもが見慣れていて、感触もリアルに思い出せる生身の体だった。
ここでは現実以上にリアルで美しく、さらに肉感的に見えた。
(あら、来てくれたのね)
いつの間にかハルと高崎はふたりだけの空間にいた。
とても狭い空間で、ベッドとシャワーブースが詰め込まれるように収まっている。
部屋の照明のスイッチやゴミ箱、枕元に置かれたティッシュなどが手が届く範囲に置かれている。
(会いに来てくれてありがとう。でもこれが最後だね)
彼女はそれ以上なにも言わず、そっと高崎の下半身の服を脱がして硬くなった部分を口に含んだ。
高崎は声をあげることも抵抗することもできず、ただその流れに身を任せた。
すっぽりと奥まで咥えている口内はあたたかく、適度な締め付けと僅かに当たる歯が複合的な快感をもたらした。
彼女の頭がゆっくりと上下に動き、その動きは少しずつ激しさを増した。
普段手や乳房や膣内で行われる刺激より数倍、何十倍もの快楽が全身に走った。
体感にして数分ほどで快楽に抗うことができず、彼は彼女の口内に激しく射精した。
何度も何度も放出され、全身の精気が吸い取られてしまうのではないかと高崎は思った。
ハルはにっこりと微笑み、口に出されたものを全て飲み込むとそのままゆっくりと彼の口にキスをした。
*
目を覚ました高崎は確認をするまでもなく夢精をしているのを下半身の感覚から悟った。
時計を確認すると5時30分をすぎていて、始発は既に走っている時間だった。
ベッドから這い出して、シャワールームまで向かう。途中誰ともすれ違うことはなかった。
熱いシャワーを浴びて体を隅々まで洗い流して、髪も洗った。
精液でべっとりと濡れた下着はゴミ箱に捨てて、そのままデニムを履いて帰ることにした。
チェックアウトして新宿駅へ向かって山手線に乗り、品川駅で東海道線に乗り換えて横浜駅まで戻った。
その途中で一度もiPhoneに触ることはなかった。
横浜駅で相鉄線に乗り換える。
通勤・通学ラッシュが始まり混み合っている駅構内を逆流するように歩いているときに、昨夜ハルに送ったはずのメールが宛先不明で送信エラーになっていることに気がついた。
列車がプラットホームにくるのを待つ間、3回彼女に電話をかけたが全て発信した瞬間に切れてしまった。
今度こそ不吉な胸騒ぎがした。星川駅についてすぐに列車から降り、駅改札を走り抜けてマンションへと向かった。
下半身に風が入り込んできて落ち着かなかったが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
家に着いてすぐに気がついたのは、ハルが履いているコンバースのスニーカーが玄関にないことだ。
呼びかけながら部屋を探し回ったが人の気配はない。彼女が持っていたいくつかのバッグとスーツケースがなくなっていることを発見した。
何度か電話をかけているが繋がらない。狼狽してあたりを見渡すと、ダイニングのテーブルにメモ書きがある。
「じゃあね」
ハルの手書きと思われる字でただそれだけが書き残されていた。
そうだ。あのオブジェ、リマネフィはどこだろう?
一通り探したが、どこにも見つけられず彼女が持ち去ったようだった。
「どうして・・・?」
うわごとのように呟くが頭のどこかではわかっていた。
このような同棲生活がいつまでも続くはずはないだろうと思っていたこと。
それが終わったのが今日この日というだけなのだ。
何かしら事件性を感じる要因があれば警察に通報するべきなのかもしれない。
しかし高崎にはハルが自らの意志で荷物をまとめて夜中の間に家を出ていったのだとわかった。
それを裏付けるように、玄関のオートロックの外にある宅配用のボックスに家の鍵が入れられているのをあとで発見した。
高崎自身の所持品と2人で買い求めた家財道具一式、細々とした雑貨類。
そしてダイニングテーブルに残された一枚のメモ書き。
高崎はその裏に一つの英単語を綴った。
”EMPYREAN”
きっとハルは彼女なりの天界へと昇ったのだ。おれを連れていくことはなく。
昨日の夢は象徴的にも実際的にも彼女との最後の性的な触れ合いだったのだと思うと、不完全燃焼と罪悪感が入り混じった感情が胸に残った。
我々は別々の世界に生息する、別々の生き物だ。
すべてが当たり前のようにあっけなく進んでいく。
残された者に、ただ喪失だけをあとにして。
*
その夜、ハルは実家に帰るために荷物をまとめた。
2LDKの比較的広い物件だったにも関わらず、私物は小さなバックパックと旅行用のスーツケースとショルダーバッグに収まった。
家具や細かい生活雑貨は高崎が引き取ってそのまま使うか新しい家へ持っていくだろう。
思い立って風俗の店長に電話をかける。
着信に応じなかったのでメッセージを吹き込む。
「お疲れ様です。実は今日同棲を解消して、実家に帰ることにしました。
急なお願いで申し訳ないのですが、何日か家に泊めていただくことはできますか?
昼職は続けるつもりですが、夜のシフトをもっと増やしたくて相談したいです」
これで良い、あとは折り返しを待とう。
連絡先から高崎の名前を削除してから、着信を受け付けないように設定した。スマホをバッグのポケットにしまった。
部屋を見渡して忘れ物がないかを点検する。
ひとつだけあった。未開封になっていた小さな段ボール箱を開封する。
ラベルには「パソコン用品」とだけ印字されている、ハル個人に宛てたものだ。
中身は小型のバイブレータで、アダルトビデオでよく女優の性器を刺激するとき使われているのと同じものだ。
ハルは細々とした日用品が詰まったショルダーバッグの一番上にバイブレータを入れた。
その下で白蝶貝の輝きを持つ蠍のオブジェが下着や化粧品といっしょに静かに眠っていた。
*
高崎はメールを一通書いた。
そこにはこのようなことが認められていた。
>君と過ごした数ヶ月はとても刺激的だった。
>率直にいってかなり疲れたけれど、俺にとってはこれまでになく楽しい日々だった。
>これは覚えておいてほしいんだけれど、一緒に暮らしたことを悔やんではいない。
>物事は成功と失敗という二色で単純に塗り分けられるものではないんだ。
>何か挑戦してみることは悪いことではないし、俺は人生に挑戦することを求めている。
>勝ち負けにこだわっているわけでもないけどさ。
>逃げてなんとかなるときは逃げればいい。
>ただ続けるにしても退くにしても、その意思決定の裏にある自分の気持ちが一番大事だと思う。
これでいい。送信はせず、下書き保存のままにしてスマホをポケットにしまった。
正直ちょっとうんざりしていて、ハルと距離を置きたくなっていたのは事実だった。本心を偽ることなどできない。
モテる=不特定多数の異性の好意を受けることと定義するとして、それを羨ましがる人の気が知れない。
俺はそれなりに顔立ちがよくて、客やファンを相手にする職業に恵まれたのかもしれない。
この道一で生きていこうと決めていて、それに打ち込む一番大事な時期に、たまたま出会った女にうつつを抜かしバグっているような状況は看過できない。
そう思うとこの広すぎる部屋も、女の残した雑貨や比較的新しい家電製品も好ましいものに思えてきた。
これでいい。自分自身に言い聞かせるように繰り返した。
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