第九章 エメラルドグリーン

 東京駅の夜景は綺麗だ。コンクリートとLEDの間を人々が忙しなく行き交う。血と汗と涙みたいな泥臭さを感じさせない、どこか現実離れした人工美。



 その日は珍しく緊張していた。
逢瀬やオフ会はほとんど日常動作の延長として慣れていた。息を吸って、命を食べて、排泄する。そんなルーティンの延長線上。

特別に親しかった人間と時を隔てて再会することへの緊張は、その比ではない。


 今日は君と久々に顔を合わせる。何年振りだろう。何を話せばいいのだろう。

一緒にいた時間は長いようで短かった気がする。前頭前野と海馬を行き来した情報は屈折して、現実とは違う思い出となった。

実際の出来事とはきっと少しずつ異なる記憶。


 みんながどうかは知らないけれど、僕は記憶の方を都合よく真実だと思う傾向にある。



 僕と君は最後の学年になるとまた同じクラスになった。出席番号も隣同士。付き合っていることはほとんど誰にも教えないまま過ごした。周りの人間は何か勘づいていたのかもしれないな。そっとしておこう、という気遣いさえあったかもしれない。


 去年の夏休み、立花と行ったオープン・キャンパス。ふたりでその短大・大学に進学することに決めた。立花はスマートに推薦で入学を決めて、一年後の夏には保育科への入学を確定していた。僕は一般入試で受験しなくてはならず、直前の秋までダラダラとバンド活動をしていたけれど、文化祭を境に脱退してそれから必死で詰め込み開始。元から成績は悪くなかったから、内申点と先生の推薦書を加味したまずまずの点数を取って合格圏内に滑り込むことができた。


 担任の先生が進路相談を受けたり推薦書を書いたりしていたから、あるタイミングで同じ松山の大学を志望していることを伝えた。僕はともかく、立花は優等生だったから素直に祝福してくれたようだ。


 あくまで僕らは表面的にはふつうのクラスメートとして過ごした。たまに時間があえば一緒に帰ったり、休みの日は近場に出かけたり、やたらと目が大きく加工されるプリントシール機で並んで写真を撮ったりした。制服デートに憧れがなかったわけでもないけれど、十分に楽しかった。ともかく卒業する直前まで僕たちの関係性は、仲のいい数人を除いて秘密のまま過ごした。



 高校三年生の3月8日、卒業式の前日。クラスの卒業記念の寄せ書きで、関係を暴露するという小さなドッキリを仕掛けて、周りの人間を驚かせたりがっかりさせたりした。


「俺たちのマドンナが…」という男子の嘆きと「きららのこと幸せにしないと許さないからね」という女子の睨みの総攻撃を、主に僕が受けることになった。


 大学には、推薦と給付金を得て進学することになっていたけれど、二人暮らしをするにはそれなりの資金がいる。僕は不定期にアルバイトをしながらいくらか貯金をつくった。
お互いの親にも話して同意をもらっていて、春から同棲生活スタート。


 進学先は短大と併設されていて、附属の幼稚園も近くにあるらしい。文学部と看護・保育学科くらいしかなかった数百人規模の小さな大学。今年から心理学部が新設された。


 僕はなんとなくその新設された学部に、君は保育士になる夢を叶えるため保育のコースへ。
君は「いくら給付生だからって、学生二人で4年も暮らしていくのは厳しいから私は最短の2年で卒業して働き始めるね」と言った。

僕はそれなりにがんばって、役場の嘱託とか非常勤講師とか、あるいは小さな出版社でもいい。ふたりの将来を思い描いてゴールを目指すよと口約束した。


 この生活は二人の気持ちが全く変わらないことを前提に成り立っている。
でもなんでだろう。脆くて頼りないものなのに決して破綻しないと信じて疑わなかった。

等身大の小さな幸せを、片手で抱えられるくらいの幸福な日々を、半分こにして分け合う。
駅から自転車で15分のアパートの二階。1DKに灯るオレンジの光がカーテンから漏れる。そこに笑い声がふたつ響けばただそれだけでよかったなんて思える。

そんなささやかな未来を思い描いていた。



 卒業式の帰り道。最後にみんなで写真を撮ったり、お別れを述べたりしていたらお昼をだいぶ過ぎていた。僕はバンドの友だちと昼食をとってから、夜は横浜の中華街で家族と食事の予定。立花は仲良しグループとJK最後のカラオケに興じる予定らしい。


 もう二度と会わないかもしれない友だちと校門で名残惜しく話していると、女子グループが僕と立花のツーショットを撮ると頼んでもないのに申し出てきた。苦笑いする僕といつでも100点満点の笑顔の君とで並んだ記念写真。チェキから吐き出されたすぐに色褪せていきそうな一枚。それをポケットに滑り込ませる。


「あとで時間ある?馬車道駅に集合ね」


君は僕にだけ聞こえる声で耳元でささやいた。僕も渡したいものがあるから、と伝えてバイバイ。

桜吹雪が舞う学校の門を後にした。


 一番幸せなのは常に今なのかもしれない。あの頃に戻れたらなんてよくいうけれど、もし戻ってもきっと同じことを同じようにするだろう。進むか戻るか、その場所に留まるか。選択肢にあまり本質的な差はないのだろう。凪いだ海で舵をとるみたいに。


 みなとみらいの夕景は絵に描いたように都会的で綺麗だ。ケータイで何枚か写真に収める。

クラスの男子と別れ、バンドの仲間と飯に行って解散したあとは一人で街をぶらぶらと歩いた。けっきょく一人でいるのが一番気楽でいい。


 辺りは観光客と制服を着た学生で溢れかえっている。彼らもきっと今しかない瞬間を噛み締めながら、目に見えない関係性を信じていっしょに歩いて、共に笑い、そしてまた明日からは別々の人生を生きるんだよなと思うとなんだか感動的で泣けてくる。


 夕凪色の港はやがてくる夜の気配にいくつかの消えない光を内包していた。それはオフィスの明かりやサーチライト、ヘリポートの照明かもしれない。なんだかその光景がひどく象徴的に思えて、またケータイで写真に収める。夜景はブレて上手く撮れなかった。


 歩いて馬車道に向かう途中、ワールドポーターズのタリーズでコーヒーをふたつ買った。そういえば、立花と最初に映画を見に行ったのはここのワーナー・マイカル・シネマズだったなと懐かしくなる。コートのボタンを全部閉じても海風が身を切るように寒い。急ぎ足でエスカレータを降りて、駅まで向かう。



 立花からのメール。


 >駅ついた。ジョナサンの前にいるね


急いで向かうと君はそこにいた。卒業式のためにロングの黒髪をきれいにヘアメイク。ロングコートで隠れるくらいの短いスカート。今はとても寒そうに手を擦り合わせながら立っている。

信号を駆け足で渡って、コーヒーを手渡す。


「気が利くね。ありがと。寒すぎるからちょっと歩かない?」


もちろん。まだ時間はあるし、どこまででも行こう。

僕らはこうして当てもなくただ街を歩く。桜吹雪の中を。ある時は照りつける太陽から避けるために日陰を探して。

またある時は雨の中で傘を差して。僕のそれよりふたまわりくらい小さな手。今は僕の手の中にある。


「引越しの荷物はまとめられた?」


「ほとんどね。元から大して持ち物は多くないから」


「羨ましいなぁ。わたしはまだ半分も終わってない」


「無理せず全部送ればいいよ。いらないものはまた送り返せばいい」


1週間後には松山で新生活がはじまると思ってもまるで実感が湧かない。そこからさらに2週間もすれば大学の新学期が始まる。まるでおとぎ話か他人事のような気にさえなる。

歩き続けて日本大通り。秋はイチョウ並木が綺麗な場所だ。今は新緑のエメラルドグリーンが夜空によく映える。


「いつかわたしに言ってくれたこと覚えてる?」


「ノーヒントだときついな」


「じゃあ花火大会のあとのこと」


「花火はほとんど見れなかったけれど」


「いいから。どうなの?」


ため息をつく。忘れるわけがない。考えてみればただ成り行きに任せて流れるまま君といっしょにいた。あの日初めてそれらしいことを口にした。


「僕はどこにもいかないから、これからもよろしく」


「正解。その気持ちはいまも変わらない?」


小悪魔的笑顔で誘導尋問するの君の常套手段。喧嘩はしたことはないけれど、言い合いで勝てる気がしない。


「おなじだよ。君がどこへ行ってもそばにいる。これからもよろしく」


タイミングを逃す前に卒業祝い。手に持っていたタリーズの紙袋から元町にあるジュエリーブランドの小さな箱を渡す。

バイト代で買ったから大して高価なものじゃないけど。


「また気が合っちゃったかも」


君も同じような大きさの、違うブランドの包みを手渡してくれる。

道路で通行人の邪魔にならないように、ベンチに座って二人で包みを開く。

中身はそれぞれのサイズに合ったリング。SV925スターリングシルバー。ペアで二組。合計四つ。


「こんなことある?」


「大体被るんだよね」


クリスマス・プレゼントも二年連続で似たようなものを贈り合って笑ったけど、ここまでくるとネタにしかならないな。


「でもありがとう。これからもよろしくっ」


指輪を2個ずつ一つの指につけて、ふざけ合っていると海風が吹き付ける夜の寒さを忘れられた。

一人でいるのは気楽だけど、こういうのって悪くないよな。



  ”それから二人は幸せに、いつまでもいつまでも一緒に暮らしました”

ハッピーなエンドを迎える物語はそう締めくくられて幕を閉じる。

現実の世界はエンドロールも後書きもなくて、ページをめくると次の日常が始まる。


 あの日本大通りの夜から8日後、僕たちは同棲生活をはじめた。

バイトや授業、実習や試験、レポート。新しい環境になんとか慣れながら約2年は上手くやっていたとおもう。


 君は実習を終えたあと、先に神奈川の実家から通える範囲に勤め口を見つけた。けっきょく少子高齢化社会や人口動態のような背景は日本各地で変わらず、首都圏の方が求人の数も条件も遥かに良かった。3月に起きた震災のこともあり、なるべく家族や親しい人間との時間を多くとりたいと人々は願うようになった。


 僕はそれから1年半後に東京の小さな出版社に内定をもらった。大学の授業はほぼ終わっており、あとは卒論の提出と教官との面接だけだったから家を引き払って神奈川に帰ってきた。


 その頃も立花とは真剣に付き合っていた。働き始めた君と会える時間が少なくなっても、それなりに親密にできるだけ頻繁に顔を合わせた。それでも一度狂い出した歯車は、徐々に違う時間を刻むようになった。


 ある日の電話で、君は僕に別れを告げた。好きとか嫌いとかじゃなくて、摂理のようなものだと思う。万有引力とか質量保存みたいに。そのようなことを君は話してくれたけれど、ほとんど僕の耳に入らなかった。ただ目の前にある壁紙の模様を、まるで書き写す価値のある歴史的な遺物であるかのようにじっと見つめていただけだった。



 東京駅の夜景は綺麗だ。一人ひとりが帰る場所へと向かって吸い込まれていく。

規模だけなら新宿駅や渋谷駅、横浜駅の方が大きいのかもしれない。

人と人が出会っては別れていく分岐点としてシンボリックな情景に思えてしまうのは、東京駅が何か特別なものを秘めてからかもしれない。


 今日は君と久々に顔を合わせる。丸の内南口の改札前。

持ってきた文庫本は何行読んでも頭に入らない。スマホの通知を何度もチェックする。

腕時計で確認すると待ち合わせの19時を10分過ぎている。時計から目を離して顔を上げる。


 立花きららがコンコースを丸の内方面へと歩いてくる。

艶やかな黒髪とまっしろな肌。シックな黒のロングコートが似合う美しい女性。

遠目にでもすぐにわかる。映画のワンシーンみたいに記憶がよみがえる。


 僕は君の元へと向かう一歩を踏み出した。

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