第七章 約800km離れた未来


 高速バスは快適だったが、慣れない椅子の角度と人の気配で熟睡はできなかった。

立花も同じようで、朝9時過ぎに松山駅に降り立ったときにはすでにぐったりとしていた。


 夏の日差しと海風の影響ですでに茹だるような暑さ。あいにく駅周辺には気の利いたモーニングを提供してくれる店は見当たらない。

伊予鉄道で松山市駅の方面まで向かうことにした。

どうせなら坊ちゃん列車に乗ってみたかったけれど、ここは普通のオレンジの列車で移動する。


「何か食べたいものとかある?」


あまり頭が回らない。君は「なんでもいい、脂っこくなければ」と言葉が少ない。朝に弱いんだったよな。

そしたら、駅を降りて一番最初に目についたお店に入ろう。中心地ならきっと何か食べさせてくれるカフェがあるかもしれない。


 路面電車で移動するのは非日常でエキサイティングだった。

周りの人たちを観察する。観光客は2割、ビジネスや買い物目的の移動がほとんどといったところ。

方言や訛りこそ強くはないが、漏れ聞こえてくる会話に知らない地名が多く「自分たちはよそ者なんだ」と感じた。


 ほどなく松山市駅の近くに降り立つ。

目についたのはドトール。決めていた通りに最初に目についたところへ。


「モーニングセットでいいかな?」


 おんなじのでいい、と君はいう。やれやれ、と思いながらジャーマンドッグとアメリカンのセットを二つ注文する。

先に席についてもらって、君の分もテーブルまで運ぶ。


「スーツケース邪魔だよな、駅のロッカーに預けようか?」


君はほおばった朝食をゆっくりと咀嚼しながら無言で頷く。僕はさっさと食べ終えたので、ロッカーへと荷物を預けに行く。

立花のスーツケースと僕のバックパックをなんとか一つのロッカーに押し込む。

自販機で飲み物をふたつ買って、1000円札を崩す。ロッカーの鍵を抜き取って右ポケットにしまう。

そのポケットにはケータイと、君からもらった飴がまだ入っていて、体温と外気温でゆっくりと溶けてきていた。



 11時半からはじまる全体説明会に間に合うように、あまり遠くまでは行かず近場をぶらぶらした。

暑くて散策するどころじゃなかったから、空調の効いた高島屋にいただけだけど。

愛媛に来て1時間ちょっとでドトールとタカシマヤかよ、と思うが仕方がない。


 少し早めに会場へと向かう。新設された都市型のキャンパスは一見すると景色に紛れ込むオフィスみたいだった。

入口で資料を配る学生スタッフがいなかったら間違いなく見落としていたとおもう。

会場の比率は男子は2割、看護医療系の女子がほとんどといったところ。

見たことがない高校の制服、集団で賑やかに話す子たちを横目に「自分たちはよそ者なんだ」という感覚が強くなった。


 11時になって説明会がはじまる。全体説明、学部別の個別相談会、希望者には在学生への質疑応答の場が設けられている。

僕は新設の心理学部を志望するつもりだったから、先輩はまだいない。代わりに学部長や教授と話をすることができる。

立花は保育系コースの説明会へ、それぞれ別の会場へと移動した。



「どうだった?」


 13時半頃、アーケードにあるジャックと豆の木という小さなレストランで落ち合った。

ミートソース・スパゲッティを食べながら資料を広げる。僕としては概ね満足のいく内容だった。


「うーん、駅から近くていいなとおもう」


そこかよ。そもそも実家から800kmくらい離れていることはいいのか、と尋ねる。


「いいも何も、最初からそのつもりで来てるよ」


「住む家とかはどうする?横浜よりはいいかもしれないが、松山の都市部は家賃は安くないんじゃない」


「築浅の1LDKなら5万円台前半くらいまででけっこうあるよ。二人でバイトすれば2年くらいならなんとかなると思う」


やっぱり僕より少し先を見ている。いつも少し離れた未来を。それは僕たちの住む場所からこの場所までと同じくらい、遠い距離のように感じる。

色々な疑問が頭をよぎったけれど、考えても仕方がないからもっと近くの問題を口にする。


「明日は夕方のフライトで羽田空港まで帰るけど、今日の夜はどうする?泊まるところは見つけてくれたって言ってたけど」


「そうだった。ニューグランドホテル。おねえちゃんが予約しておいてくれたんだ。

 3時からチェックインできるみたいだから荷物置きに行こう」


そしたらまた出かけて街をゆっくり見ようよ、とあっけらかんという。

旅行みたいな遠出をするだけでも冒険だったけど、外泊となるといよいよ緊張する。

いつもより早口になっているから、立花も緊張しているんだろうな。


 僕はどれほど真剣に彼女と向き合っているのだろう。

君はかなり先を見据えながら、それでも僕と最適な位置関係を保っている。

地方へ出てきて、同棲しながら学校へ通う想像。まだ手が触れるだけでドキドキする距離感。

感情と思考を完全に分けられたらいいのに、とおもう。



 彼女の姉が予約してくれたホテルは街中にあった。

旅行客向けに大浴場があって、ゆったりと楽しめる。

部屋はスーペリアツイン。フロントで連絡先と名前を二人分記入する。

荷物だけ置いて先に温泉に浸かってこよう。


 一瞬見えた部屋の中はラグジュアリーと簡素のちょうど中間に位置していた。

必要にして十分だけれど、礼儀をわきまえていて差し出がましくない。居心地のいいアパレル・ショップみたいに。


 そんなことを考えながら大浴場へと向かったら、タオルを持って帰るのを忘れたので慌てて部屋に取りに戻る。

カード・キー、財布と着替え、ケータイとタオルを握りしめて大浴場へと向かう。

まだ客は少なくゆったりとできた。高速バスで凝った体をほぐして汗を流すと眠気がどこかへ飛んでいった。


 服を着替えて、髪の毛を乾かして、自販機でミネラル・ウォーターを買った。

部屋へ戻る途中のエレベータを待っていたら、後ろから立花が追いついた。

さっぱりしたねとか、さっきご飯食べたばかりだからお腹全然空かないねとか、どうでもいいことを話す。

カードを差し込んで、二人で部屋へ入ると心地いい空調と親密な静寂が待っていた。


「なんか急に二人きりって感じで、緊張するな」


言わなくていいことは敢えて口に出していく。

君は窓から外を眺めている。僕も並んで外を眺める。


 松山市の中心部は横浜市のそれと大差なかった。ビルとビルのわずかな間を縫うように、自動車や人々が行き交う。

少し目を上げると山々が広がっていて、夕日に染まっていくところだった。ここからは海も城も見えない。ただ遠くまで来たという感覚。

夕暮れ色に浮かぶ君の横顔が美しかった。


 何もいうべきことが浮かばない。君も何もいわない。

黙ってその手を取って、こっちを向かせる。目を閉じて口づけをした。

君は一瞬驚いたような仕草を見せたけれど、強く手を握り返してくれた。

お風呂上がりで化粧はまったくしていない。大きくて綺麗な瞳。まだ乾き切っていない髪。

もう一度キスをして、そのまま広すぎるベッドに倒れ込む。勢いあまっておでこがぶつかる。

なんだかおかしくなって笑い合う。さっきまでの緊張が嘘みたいに消える。


「びっくりしたけど嬉しかった」


ちゃんと好きでいてくれたんだね、と君は呟く。もちろん、他の何よりも君のことがすきだ。

そう口に出してみて、まだ一度も言葉にして伝え合っていなかったと気がついた。


「今まで言葉にして伝えてなくてごめん。君はどうなんだろう?」


もちろん、わたしも好きだよと輝度最大の笑顔で伝えてくる。

たぶん松山市内の全戸の照明が、むこう1週間いらなくなるくらいの明るさで。

返事の代わりにもう一度抱き寄せて口づけをする。調子にのってさっきより少し激しく。


「わかったから、つづきはあとにしてご飯までちょっと外を散歩して来ようよ」


 耳まで真っ赤になっている立花って久しぶりに見たな。

出かけよう。財布とケータイ、それと忘れずにカード・キーを持って。


 ふたりで手を繋いで夕暮れの中、一歩を踏み出した。

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