第五章 じゃあね

 氷が溶けてすこし薄くなったジンジャエールが2つ。

それを飲み干してから席を立った。そろそろ混雑のピークは過ぎただろう。


「京浜東北線が運転見合わせだって」

立花はうんざりしたように携帯のニュース画面をこちらに見せてくる。

その電車が運行停止することは全く珍しくはないけれど、よりによって今日この瞬間じゃなくてよかったのに。


 時刻は21:20を示している。

テラス席を後にして、僕は君の右側に並んでその手を引いて歩き出した。君は利き手とは逆の左手で携帯の操作がしづらそうだった。


 僕の携帯が右ポケットで振動する。着信音はThe CorrsのBreathlessに設定していたけれどマナーモードにしているから無音。

親からの着電だったがそれには応じずにCメールで電車が遅延しているから遅くなる、とだけ打って送りつけた。


「仕方ないから歩いてバス停まで行こう」

絆創膏で応急処置をしたとはいえ、あまり遠くまでは歩けないだろう。


「あ、親から連絡きた。保土ヶ谷までなら迎えにいけるって」


「ちょうど22時くらいに最終のバスが元町公園から出るらしい。それに乗って帰ろう」


「でもそのあとはどうするの。家まで遠くない?」

未だに、あるいは今でもというべきか、苗字で呼び捨てにされる。

そこから歩けば1時間くらいで着くから大丈夫。いいから怪我人は安全なルートで帰ってくださいね。

靴擦れだから大したことないのに、という不満気な声を聞き流してJRの駅とは反対方向へ歩き出す。


 徒歩5分。僕のそれよりふたまわりくらい小さな手。

宇宙から見たらほとんど無いに等しい時間と大きさの差異。

そうだとしてもそれらは、他の何にも代えられないくらいに大切なものになった。



 バス停は道端に看板が建てられているだけの簡素なものだ。

時刻までだいぶ時間があるから、近くのベンチに腰掛ける。


「一年くらい前、英語のクラスの課題のために映画を見に行ったの覚えてる?」


「忘れるわけないよ。しかも立花はExcellentの評価を受けて皆の前で発表していた。さすが美人の優等生」


それは関係ないでしょ、と突っ込みながら立花はあとを続ける。


「あの感想文には映画のストーリーを要約したものと、当たり障りのないことを書いただけ。

 本当はもう少し個人的に付け足したいことがあったんだけど」


 2人で映画を見て解散した後にやりとりしたメールがまだ受信ボックスに残っている。

君から受け取るメールは他とは別のフォルダに仕分けされているし、一定数に達して自動で削除されないように保護されていることは言わないでおく。


「あった。2006年9月24日からだいたい1週間くらい往復が続いてるね」


 Re:Re:と件名に続いているメールを適当に開く。それほど前のことではないのに既に懐かしい。

その中の一つに最終版の文章を見つけた。



An impression of “The Lake House”.


Before I saw the film, I predicted that it would be a monotonous movie, just featuring the actors and actresses who co-starred in "Speed".

”Speed”, its story runs at a breathless speed literally.


However, "The Lake house" is a calm story.

The movie is not only sweet but also realistic.


The entire film is a modern, urban visual work, but it is also traditional.

Because this is the story of a lonely man and woman passing each other.

Of course, the two eventually come to a happy ending.

That's what Hollywood movies are all about.


I learned two lessons through this film.

The first is to value time.

We can accomplish this by being mindful of it on a daily basis.

Second, don't expect too much from others.

Expectations are healthy, but sometimes they are a burden.

Seeing this film had a positive impact on my life.


I would like to thank XX(teacher's name) and everyone who listened to me.



「まるで自動翻訳を使った英訳だな」

そんなメタなこと言っても英語力が足りないんだからしょうがないって、という君はどこまでもリアリスティックだ。


「ここでは映画を見て二つのことを学んだって書いてあるけど」


 君が左から携帯の画面を覗き込んでくる。

優雅にサイドテールにまとめられた髪。首筋からネックレスのチェーンが覗いている。甘い香水の匂い。

間近に来られると一瞬心臓が止まりそうになる。


 平静を装って携帯の画面を待ち受けに戻す。

それで三つ目の教訓を今日教えてくれるのかな。


「三つ目は適切なタイミングを決して逃さないこと。大切な人の手を離したりしないように」


 まっすぐに見つめる黒い瞳には、今の僕の姿は映っていなかった。

もう少し先の未来。遠くはないけれど近くもない時間軸。たぶん時計で計測したら2年くらい先。

僕の目を通して2歩先を見通しているような深い色の目だった。


 バスの停留所には僕たち2人しかいなかった。それでも最終バスの車内は満席だった。

僕は吊り革を、君はステンレスのポールを片手で掴んだ。もう片方でお互いの手を繋いでいた。

特に何も言葉は交わさなかったけれど、その手の温度を通じて言いたいことはなんとなく伝わってきた。



 バスは普段の2倍の時間をかけて保土ヶ谷に到着した。

ターミナルは電車からバスに乗り換えた人々でひどく混雑していた。

ちょうど駅の近くまできていたという立花の姉が迎えにきてくれた。反射的に繋いでいた手を離す。


 姉は妹と同じで美しく人目を引く容貌。何歳か離れているだけだが、とても大人びて見えた。

僕は遅くなったことを詫びて、迎えにきてくれたお礼を述べる。

姉は妹を送り届けてくれたことにお礼をいう。


 僕たちは「じゃあね」と互いに手を振って簡単な挨拶をする。

そのようにして別れたあと、底知れない空虚な気持ちになった。

それはここから家まで歩いて1時間くらいかかることとは別の理由からだ。


 楽しかった時間が過ぎ去るとまるで二度と幸福な気持ちになることは叶わないのではないか、という言い知れない不安に支配されそうになる。

物心ついたときから執拗に僕を追いかける黒い影法師。

その影は僕が後ろを振り返ると姿を隠して、前を向くとひっそりと背後に気配を露わにする。


 右のポケットの携帯が震える。

少し塗装が剥がれた緑の葉を模したストラップ。

つけられた時から同じ場所にある。


 >今日は遅くまでありがとう

 >おかげで楽しかった

 >花火はほとんど見られなかったけどね笑

 >次はオープンキャンパスだね


 高校が夏休みに入る前に、進路相談の担当に頼んで関西地方を中心に展開する学校法人のパンフレットを取り寄せていた。

専門学校と大学の進学希望者に向けた説明会が開かれる。僕たちはそれに参加する予定を立てている。


 泊まりがけで行くことになるかもしれないな。とりあえずまだ呼吸を続けていられる。

そう思うと胸の内側にある空洞が、やわらかい温度で満たされていくような感覚が広がった。

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