第二章 新港の二重露光

 

 水曜日の放課後、いつもの帰り道。雨が降り出した。

ベンチと看板だけの簡易的な停留所で君は、傘の代わりにクリアファイルで雨宿りをしていた。

素通りすることができなかった僕は、バスが車到着するまでの数分間いっしょに待つことにした。話の流れでなぜか映画を見にいくことになった。

ブレザーの左肩の部分に雨がしっかりと染み込んでいた。


 金曜日の午前中、音楽のクラスへの移動時間。赤外線通信でアドレスを交換した。

簡単な挨拶を絵文字付きで送りつけると、10分くらいで返信が来た。

今度の日曜日なら朝から空いているとのことなので、その日に約束が取り付けられた。

僕は部活もバイトもない。土日はたいてい自転車で適当に出かけるか近所の図書館に行くだけだ。


 英語のレポート課題のためとはいえ、女の子と2人で映画に行くのは考えてみたら初めてのことかもしれない。

楽しみな気もするし、億劫な気もする。人と約束をしてしまうとこういうことってある。いずれにしてもその日は目前に迫っていた。

せめて雨は降らないようにと願う。



 日曜日のはじまり。平均的な休日の朝よりも早く目が覚めた。いうまでもなく今日は立花と映画を観にいく約束の日だ。

起きてトイレに行ったあと歯を磨き、熱いシャワーを浴びて、髪の毛をワックスでセットした。


「おはよう。やけに早いじゃない」


声をかけてきた母に対して「クラスメートと映画にいくから」と返答する。

ドリップで淹れたコーヒーとジャムを塗ったトーストの簡単な朝食をとる。

もう一度歯を磨いて鏡をチェックしたあと、携帯の充電が100%になっていることを確かめて家を出た。


 駐輪場で自転車に飛び乗って、そのまま坂を立ち漕ぎで走る。

夕方からアルバイトだから、と行って朝イチの9時上映の映画に間に合うように桜木町駅に8時半集合。

学校の始業とだいたい同じくらいの時間だから7時には家を出ないといけない。

いくら授業の課題のためとはいっても張り切りすぎだろ。半ば後悔する。


 駅の駐輪場に自転車を突っ込んで、改札に定期券をタッチして通過する。休日ダイヤの電車は空いていて座り放題だった。

読みかけの文庫本を読もうかと思ったが、携帯にブックマークをしてある映画のあらすじを頭に入れておくことにする。


『イルマーレ(The Lake House)』

 主演はキアヌ・リーブスとサンドラ・ブロック。『スピード』のコンビが再びスクリーンで共演。韓国映画のリメイク。

ブロックが演じる医師、ケイトが湖畔の一軒家から引っ越すところから物語は始まる。玄関に備え付けられた郵便ポストに、次の住人に宛てた簡単な手紙を残す。ほどなく引っ越しをしてきたアレックス(リーブスが演じる)がそれを受け取り返事を書く。

意気投合した2人は一風変わった文通を続けていくうちにそれぞれが違った年代、2006年と2004年を生きていることが判明する。


 へぇ。正直言ってあまり期待できない。ありきたりな恋愛ものだろうな。

最近観た『きみに読む物語』や『ベンジャミン・バトン』もそれほど心惹かれることはなかった。突拍子もない設定を下地に愛情の尊さを描く。それは理解できるけれど映像になると作り物を見せられている気になる。

映画なのだから作り物なのは当たり前だけれど、映像的な演出で核心的な部分がぼやけてしまう。あるいは演出的な映像で結末だけが過剰に誇張される。

よくある感動の叩き売り。あるいは小説で読めば印象は幾分異なるかもしれない。

観る前から勝手に興醒めしてしまい、読みかけの『ロミオとジュリエット』の続きのページを開いた。



 先週の雨は通り雨だったようで、今日は比較的涼しい曇り空。海風が秋の匂いを運んでくる。

桜木町の改札を出たところにあるスターバックス。ベンチに腰掛けて通行人を眺めるともなく眺める。家を出るのが早すぎたな。


 立花きららが改札がある駅の入り口から歩いてくる。

艶やかな黒髪が風に揺られて、まっしろな肌が陽の光を纏う。

細い指先で前髪を流しながらシアトリカルな登場。

遠目でもすぐにわかるけど、気づかないふりをする。


「わたしも早めに来たつもりなんだけどな。別にそれほど待ってないでしょ?」


こともなげにそう言いながら苗字を呼び捨てにされる。

そこは「ごめん待った?」って可愛いく聞くところだろと突っ込んでおく。

普段着なのかお出かけ用コーデなのかは知らないけれど、初めて見る私服姿の立花はとても大人っぽく見えた。どうしてだろう。


「おねえちゃんにハーフアップにしてもらった」

いくつかメーク道具も貸してもらったんだ、と続ける。なるほど。

髪型も化粧もいつもとの違いに気がつかなかったな。


 二人で並んで新港にあるワーナー・マイカル・シネマズへと向かう。

日本丸を背に橋を渡る。海の上の汽車道を少し早歩きで歩く。隣を見てペースを落とす。

僕は人と並んで歩くのには慣れていない。歩幅を合わせようとしてぎこちなくなる。

駅から映画館までの距離を移動するこの道自体が好きだ。橋を渡り終える頃には日常から非日常へゆっくりと切り替わっている。

そう思っていると、駅から遠すぎると隣で立花が愚痴をこぼす。情緒を感じろよ、情緒を。


 エスカレータで上階へと上がってすぐのエントランスで学生二人分のチケットを買う。

上映まで少し時間があるから飲み物を二つ買って売店を眺める。

週末に公開になった映画は特に話題の大作はなかった気がするが、それなりに劇場は混み合っている。

売店にはめぼしいものがなかったのでその場を離れる。立花はどこかその辺にいるだろうけど、まあいいか。


 ケータイを見ながら待っていると立花がやってきた。


「どこに行ったのか探したよ。映画のパンフレットを買ってきた。ほら、課題に必要だと思って」


 確かに映画のストーリーラインなんて観ている間に忘れていく。

個人的な感想を振り返るとき、客観的に記述されたエピソードを参照するのはとても有意義なことだ。

劇場に貼られたアニメーション映画『時をかける少女』のポスターを眺めながらそのようなことを思った。



 始まってからはあっという間で、吸い込まれるように映画のストーリーに没入した。

八割ほど埋まった客席から立ち上がる人々は満足気な感想を口にしていた。


「全く期待してなかったとは言わないけど、思った以上に面白かった」


「ほんとに。この映画にしてよかった。お腹空かない?」


 ちょうどお昼の時間だ。ファミレスでも寄って帰ろう。映画のパンフレットも読みたい。

エスカレータでフロアをひとつずつ降りていく。

左側通行で段一つ分の距離。僕の方が背が高い。振り返るとすぐ目の前に君の顔がある。

映画館で120分並んで座っていただけなのに、その距離に不思議と違和感はなかった。どうしてだろう。

そんなことを本人に聞くわけにもいかないから適当な話題を探す。


「ワールドポーターズのヴィレヴァンには中学の頃よく友達と遊びに来たよ」


 わたしは何回か来たことがあるだけ。ちょっと寄っていこうよ。3階にある雑貨屋に立ち寄る。


 ケバケバしい蛍光イエローと手書きのポップ。正直言って僕は騒がしくてこの店はあまり好きになれない。

中学の頃は半ば強制的に友達に連れて来られただけだ。何も買ったことはない。

それよりは楽器店に入り浸ってエレキ・ギターを眺めている方が好きだった。この商業施設には書店が入っていないのが残念だ。


 立花はゼラニウムのルーム・フレグランスを随分迷ってから選んだ。

僕が適当にCDのコーナーをぶらついていると何か記念になりそうなものを選ぼうよ、と君が声をかけてきた。


 一通り店内を見て回ったけどそれらしいものはあっただろうか。

その時目を向けた先に『指輪物語』の映画に出てきたエルフのブローチを模した携帯ストラップを見つけた。


「緑が好きな色だって言ってたよね?これにしよう」


「緑も好きだし、この映画も好き。アカデミー賞とは関係なく」


クラスでたまたま映画の話になった時、君がその話をしていたのを憶えていたとは言わないでおく。


 会計を済ませて店を出るとそれまでとは景色が奇妙に違って見えた。

具体的にどこがどう違うのかは説明が難しい。

人混みでごった返している日曜日のショッピングモール。どこにでもある風景。どこにでもいるような高校生。

映画の帰りに買ったお揃いのストラップ。それがつけられた携帯は手の中で沈黙している。

地球の外側からは僕たちはどう見えるのだろう。


 同じ建物の2階にあるファミレスもその下のマックもひどく混み合っていた。

少し離れた山下公園前にあるジョナサンまで歩いていくことにする。

というかこの辺り数キロ圏内のファミレスってなぜかジョナサンしかないんだよな。



 海沿いの公園のジョナサンは比較的空いていて、すぐに席に通してもらうことができた。

ドリンクバー、チキンとピラフのセット、和風パスタとサラダのセットをそれぞれ注文する。アイスコーヒーをグラスに注いで席に戻る。


 近くの席ではファミリーと高校生らしい集団が和気藹々と過ごしている。

僕は窓側から店内を、君は店内から窓の外を眺めるともなく眺める。


 映画のどの部分が印象に残った?この質問はひどく緊張を伴う。

たいていの場合、人はそれぞれ全く違う場面を異なる視点から記憶している。それがおもしろくもあるのだけれど。

この時の僕は自分から話し始めることにした。


「この映画では距離ではなくて、時間軸のズレが重要な役割を果たしている。

 でもそれよりはむしろ、湖畔の瀟洒な邸宅という人々を結びつける共通の場がなにより面白いと思った。

 なんていうんだろう。僕はいつも本当の自分に戻れる場所を求めている気がする。ケイトが湖畔の家に対してそう感じていたように。

 だから帰ってこれる場所という象徴的な舞台設定に惹かれたのかもしれない」


一気にそれだけ言ってアイスコーヒーを口にする。氷が音を立ててグラスの中を泳いだ。

店内には大きすぎず小さすぎない適度な音量のイージー・リスニングが流れている。

休日の午後特有の緩慢な時計の進み方。

少し考えている様子の君は、僕の感想には直接意見を述べず自分の感想を語った。


「わたしにはアレックスと父親が語り合うシーンが印象的だった。

 ”それは所有であって関わりじゃない。

 たしかに美しくて魅力的ではある。だけどそれは不完全だ”」立花はセリフをそのまま暗唱して引用する。


「人と人が関わる上で、それがどんな関係性だとしても、人は相手に対して無意識に何かを期待していると思う。

 それは自分の考えとか価値観を相手に押し付ける行為で、健全とはいえない。

 だけどこの場面では建築家の巨匠である父が、どちらかといえば現実的な生計を立てる手段として現場監督をする息子に対して語りかけてたよね。

 それがまさに不完全なかたちを体現しているような気がして」


「言われてみればたしかに。そこには構造的なアイロニーがあったように思う」


「あとは兄弟っていう設定なのに俳優が全然似てないところがすごく気になったよね」君はふざけ半分にそう付け足した。


 料理が運ばれてきた。クラスメートの輪の中心で明るく(時に非常にうるさく)過ごしている様子ばかり見ていたから、真面目に映画の感想を語る様子にひどく心を奪われた。作品で語られていた言葉が脳内でリフレインする。


”優れた建築家は自然との調和を目指す。建造物を構成する最大の要素は場所なんだ。光を活かすことを考えろ”。


 それは翻って、人と人の関係性についても同じように言えるのではないだろうか。

そのようなことを言おうと思ったけれど上手く言葉にできず、代わりにピラフを口に運んだ。



 アイスコーヒーをおかわりして、2人で映画のパンフレットに目を通して大体の筋書きをまとめて、レポートの概要みたいなものを作った。細かい部分は帰ってから仕上げればいい。

立花は時計を見て、バイトがあるからそろそろ帰るねと告げる。


 桜木町駅までの長くて短い道のり。夏の日差しの名残がコンクリートの地面から照り返してきて眩しい。

僕は考え事をしていて、あまり言葉を交わすことなく改札に辿り着いた。


「それじゃまた学校で」


その声で我に帰る。振り返って短く手を振る立花きららを改札越しに見送っていた。

ここから家まで電車で30分はかかる。長いこと考え事をしながら、その距離のほとんどを歩いて帰った。

あるいはほとんど全行程を徒歩で踏破したかもしれなかった。

どうやって家まで着いたかは覚えていない(自転車は忘れずに駅から家まで押して帰った)。


 地続きの日常と映画のように投影されては消えていく映像。

それに記憶と想像を重ねてみる。どちらも同じように眩しかった。

何に対してもっともリアリティを感じるだろう。重みを測るように両方の手のひらを天に向ける。


 いずれにしても古い時間は過ぎ去って、また新しい時間がやってくる。

昨日の次は今日。今日の次は明日。それを飽きることなく繰り返していく。


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