24 ミハエルとレヴァント、二人のまどろみの地

 大天使センダルフェンの体は数本の杭で打ちつけられたままである。


 彼女の意識は薄れていく。だが、その魂は自身の最後の望みが果たされたことを知っていた。もう、その体は動かない。


 ルシルフィルの最期の思念たる黒い霧が、墓所の入り口の前で揺らめく。だが、その霧は進むことができない。


 ルシルフィルとセラフィニアが再び邂逅することは、もはや叶わない。

 センデルフェンの愛と憎しみが、時を止めその霧を永遠に拒んでいるのだ。


 □


 やがて……

 騎士の若者は絶叫と共に目を覚ます。


 夢の残響はあまりにも重々しく、心臓の鼓動と重なる。そこには黒く粘りつくものが絡み縛り付けているかのごとく苦しい。

 額の濡れた汗を手で拭い、胸に手を当てて心を落ち着けようと、ゆっくり深い呼吸を繰り返す。


 先ほどまでの夢の景色が頭から離れない。未だに自分がその場所に立っているようだ。

 広がる美しい風の吹く聖霊界の墓所。

 眠り続ける聖霊の魂と、それを永久に封じ込めんとする絶望と嫉妬に狂った大天使。

 黒い霧となって彷徨いつづける堕天使の想い。


 それでも騎士は目を見開き、視界に入るものをひとつづつ確かめていく。

 見知らぬ木材で出来た天井が広がり、その木の香りが懐かしさを伴った。首を回し周囲を見渡すと、質素かつ暖かみのある家具が並んでいる。

 窓は開けられており、もうすぐ日の出の時刻かと予想できた。


 (農家の一室なのか……それとも)


 しかし、夢に見た異界のふわふわとした、しかし強烈な衝撃を伴った感覚が未だ体に残り続けている。


(遠い、神の世界の、記憶とでもいうのか)


 騎士は、永遠に付きまとうかのごとき夢の感触を振り払おうと上体を立ち上げる。しかし、体はすぐに痛みを発し、思うようには動かない。

 心の奥底に重く溜まるような疲労に蝕まれている。


 窓から心地良い涼気を含んだ風が騎士の顔をなでる。身体の中のあまりに酷い状態とは真逆の清々しい空気だった。


 騎士は心の中に残っていたものを確かめる。

 夢の中の―― 大天使センデルフェン 

 苦渋と憎悪に満ちた表情だった。あの目、深く沈んだ狂気と愛、そして嫉妬が混じり合った瞳が、彼の心に深く刺さりつづけている。


(あの天使の、あの目……)


 ―――― マシロ・レグナード


 騎士は、ハッとする。

 グランデリア王国、若き女司祭長にして聖堂騎士団を率いるカリスマ。

 マシロ・レグナードの目、彼女の目そのものなのだ。


 記憶が風雨となり暴れた。大河の激流として流れ込んでくる。


 グランデリア王国。

 魔導列車とダーククリスタル。

 堕天使の依り代と化した恋人レヴァント・ソードブレイカー。

 堕天使を斬るべく現れた二人の妖魔……セメイオチケとヒクセルキルプス。


 天使の末裔としての覚醒……、そこから堕天使ルシルフィルの起こした大爆発。


 記憶がひとつのものとしてつながって来る。


「俺は、グランデリア王国第二騎士団長ミハエル……【ミハエル・サンブレイド】」

 寝床の上で、開いた手を固く握りしめる。


 朝陽が光の帯となって窓より射し込む。その穏やかさと力強さはミハエルを包み込むように照らし、胸を締める恐怖や悲しみという負の感情を和らげていく。

 しかし、まだ意識は揺らぎのなかにあり、今の世界と夢の世界が重なり合い、どちらが現実でどちらが幻なのかが再び曖昧になってしまう。

 


「愛おしき弟、偉大なる大天使ルシルフィルよ……」


 言葉が口を突いて出た。

 思わず口から漏れた言葉は、自分が発したのか分からない。

 誰に向けたものでもなく、ただ虚空に消えていく。


 一つだけ確かなことがある―― 夢の中で見た出来事は、幻想ではない。幻ではなく、重要な意味を持っているということだ。


 ミハエルは自分がなぜここにいるのかも分からない。

 この場所がどこで、どうやってここに辿り着いたのか。


 ふたたび、淡く濁った意識の中へと彼は落ちていった。


 □


 □


 □


 そこは大陸北部の寒冷の地と思われる。

 夢を追い、開拓民として移住した新婚の二人。

 


 氷をふくむ風が吹きすさぶ嵐の日、赤いセーターの【レヴァント・ソードブレイカー】は家の中でひとり揺り椅子に座り、暖炉の前に佇んでいた。

 

 小さな木造の家は、外の猛威から身を守ってくれてはいるが、その板壁は嵐の風に軋み、窓ガラスを叩く雪は砕け散っているかのようだった。


 外は真っ白な世界。

 風は轟音を立て、地面を一面の氷で覆いつくす。外へ出た者は、すぐさま嵐に飲まれてしまうのではないかと思える。


「なんでアイツ、こんな日を選ぶのよ……」

 

 レヴァントは心の中で、夫のミハエルに毒づいた。


 命を授かった身体を労わりながら、ゆっくりと火にあたる。


 薪を足し、湯を沸かしながら、家事に集中しようとするが、そのたびに不安が押し寄せてくる。夫は無事だろうか。街へ出た彼は、こんな天気の中、ちゃんと帰って来られるのか? 


 暖炉の火の温もりも、嵐の荒れ狂う音が耳に届くたびにかき消されるようだった。家の中は静かで、外の凍てつく風が、その静けさを強調する。

 レヴァントは深呼吸をして、落ち着こうと試みた。だが、その心拍はじっとしていても速くなり、心は揺れ動く。


「バカね……どうして行かせちゃったのよ」

 彼女はぽつりと呟いた。彼が無事に帰ると信じているが、不安はどうしても消えない。彼女の体の中では、新たな命が育っている。そのことが、彼女の不安をさらに増幅させていた。


 ドアが重く軋む音を聞いた時、レヴァントは反射的に振り向いた。冷たい空気が瞬く間に家に流れ込んできたが、その中にミハエルの姿があった。彼は肩に積もった雪を払いながらコートを脱ぎ、息を切らして家の中へ入ってきた。


「おかえりなさい」

 つっけんどんに言葉を突き刺した。

 レヴァントは安堵の息を吐くと、心の中では胸を撫でおろす。彼が無事に戻ってきた。本当は、それだけで良かった。


「ただいま、レヴァント」

 ミハエルは微笑んで答え、重い毛皮の束を床に置いた。

「外は本当に大変だったけど、何とか戻れたよ」

 しかし、レヴァントの目は床の毛皮に向けられ、その束のままの状態に眉をしかめた。


「なんでっ? 毛皮……売れなかったの?」

 レヴァントはすぐに問い詰める。消えた不安が、一瞬にして苛立ちに変わる。


 ミハエルは言葉を探すようにためらった。

「……あまりいい値段にならなかったんだ。けど、少しは食料を手に入れられたよ」

「少し? この嵐の中を命がけで行ったっていうのに、たったそれだけ?」

 レヴァントの声が冷たく響いた。こめかみをピクピクひきつらせる彼女の苛立ちは、あからさまなものだ。


 ミハエルは動じなかった。彼はレヴァントに微笑み、手を取る。

「仕方ないさ。今日は嵐だったから、店もほとんど閉まっていた。次の機会にもっといい毛皮を売るよ」


 レヴァントは夫の手の感触を感じながら、違和感を感じた。


 彼の言葉は穏やかで優しい、その優しさに対して自分が冷たく当たってしまうことが情けない。

 ただ、今の問題はそこではない。


 彼女がそっと目を閉じると、嵐の音がまた耳に戻ってきた。

 「次は、もっといい毛皮を持って行ってよね」


 冷たくも荒れ狂う嵐、吹き狂う風雪の音とともに、レヴァントの心の疑念は大きくなってゆく。

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