25 レヴァントと堕天使ルシルフィル

 レヴァントは、夫ミハエルの優しい言葉を耳にしながらも、心のどこかで違和感を感じていた。


 確かに声はミハエルだし、笑い方も同じ。しかし、何かが、ほんのわずかにズレている気がする。

 ミハエルの仕草、特に手の動きや温もりが、異質に感じられたのだ。

 これまでの生活で、彼のささいな動作まで知り尽くしているはずのレヴァントにとって、その小さな違いは決定的だった。


「……ちょっと待って」

 レヴァントは眉をひそめ、観察するように夫の顔を見上げた。


「どうした、レヴァント?」

 ミハエルの姿をした存在が、穏やかに微笑んだ。その笑顔には、確かに見覚えがある。

 しかし、心の奥では嫌な冷たさがじわりと広がっていくだけだ。


 問う。



「あんた……誰?」



 鋭い声でレヴァントは問う。その声に、これまでのつっけんどんさが上乗せされている。

 目線は睨みつけたまま、意識はゆっくりと壁に掛けられた短刀へと向かう。


「何を言ってるんだ。俺はミハエルだよ」

 は淡々と返すが、その目に宿る光が微妙に冷たかった。ミハエルのあたたかい視線ではない。

 彼の目には、常に深い優しさがあった。レヴァントはそれをよく知っている。そして、今ここにいる『夫』の目にはそれが欠けていた。


「そ~んなわけないでしょ」

 レヴァントは息をつくと、ゆっくりと後退しながら、目を細めた。ここにいるそれは、やはり表情を変えない。


「ミハエルなら、わたしの顔見ただけで機嫌が分かるもんよ。それに、あんたの触り方が変だ。あの人はそんな雑に触ったりしない。」


 それは一瞬、微かな動揺を見せたが、すぐに笑顔で覆い隠した。

「お前、やっぱり冗談が上手いな、レヴァント」

「冗談? あんたがね」


 その瞬間、レヴァントは壁にかけてあった短刀をつかんだ。長く待っている間、何度も手入れしたその刃が今、手の中で煌めいた。

 ためらうことなく、偽りの夫の胸に刃を突き出す。


「おい、何をするんだ!」

 それは驚いた表情を見せたが、その瞬間、顔や体形はそのままに姿形をかえた。

 かすかに霧がかったような黒い翼が背中から現れ、皮膚が青白く冷たい色に変わっていく。



「ほぉ、よく見破ったな、人間の女よ」


 堕天使。

 彼は低く、響く声で言った。笑いがその声に混じると、闇より現われ出る不気味さが際立つ。



「妖魔のたぐい? それもかなり高貴な存在ね。

 ミハエルは、そんな風に笑わない。あんた、最初からミスばかりよ」


 レヴァントは短剣を構え直し、目の前の堕天使に冷ややかに言う。

 彼女の胸には、夫との固い絆があった。その絆を侮る者は誰であろうと許さない。


 ふたたびゆっくりとした口調で堕天使は語り出す。

「うむ、さすがだなレヴァント・ソードブレイカー……という名だったか。だが、余の目的が達成されるまで、もう少し楽しませてもらうぞ」


 レヴァントの手は震えない、一歩も引かなかった。

 堕天使の目には、冷たい笑みが浮かんでいたが、その目を見据えたまま、刃をしっかりと握りしめている。


「あの人を……夫をどうしたの? 返答次第じゃ許さない。ていうか、もう何を答えても許さないから!」

 降り積もった雪をも溶かすような熱量を放ち、緑色の目を燃やしたレヴァントは吠える。


 しかし、その咆哮に堕天使は嘲笑と呆れるような仕草をみせる。


「おいおい『夫』だと? 

 ままごと夫婦の夢に…………まだ浸りきっているのか? ミハエルか、奴がどうなったかなど分からんわ。まさか奴が大天使の血を継ぐものであったとはな、奴のお陰で余の力は消滅寸前のところだったぞ」



 その返答にレヴァントは水をかけられたように、冷静な思考を取りもどす。

 

―――― はあっ? 大天使、消滅? なにかの戦いがあった……

 

―――― ままごと夫婦の夢……?

 


 レヴァントの心に浮かび上がってくるものがあった。


 心臓の鼓動が激しくなってくる。しだいに背中に冷たい汗が流れて、腹におさえていた呼吸が乱れ、肩が上下に揺れてくる。

 

 どちらが、現実?

 あの戦いのほうが現実?

 

 ままごと夫婦の夢?


 ここは夢の世界なの?

 このミハエルとの幸せな暮らしは……夢?

 

 私の、夢の中の物語?



 ―――― ここは私の、心の奥底にある本当の望み


 レヴァントは真実に気づく。

 ここは、自身の夢の世界であったと。 


 目の前のぬくもりに満ちた二人の家が、その暖かい空間が、破壊され揺らいでいく。

 更に、気づいた時には『お腹の中の命』は小さく硬い石のようなものになっていた。

 その小さく硬い石がダーククリスタルの破片であると本能的に察知するのは、彼女にとってひどく残酷なことだった。


「あああああああああああああぁぁぁぁぁぁっ!」


 レヴァントは短刀を投げ捨て、頭を両手で抱えるとうずくまり嗚咽をあげた。頭蓋骨が割れるような痛みがあった。涙がとめどなく流れてくる。


 涙と共に夢の世界も流れ去り、消えてゆく。

 暗闇にうずくまるレヴァントの心に、ではない、そして魔術師ベイガンによって埋め込まれたまやかしの記憶ではない…………本当の記憶がわき上がって来る。


 *


 まだ記憶すらない幼子の頃、生まれ育った村をグランデリア王国に滅ぼされる。

 そこから傭兵団長ジンに拾われ傭兵団員となる。 

 同じ戦災孤児のミハエルと幼少期をすごし、地獄の戦場を駈け少年傭兵として生きのびる。


 それでも傭兵団の暮らしは暖かく安らぎがあった。


 しかし、心の拠り所だった傭兵団は雇用されていたはずのグランデリア王国の裏切りで壊滅してしまう。

 帰るべき場所を二度も奪い去った王国に対して、憎悪と復讐を持って生きる事を誓う。


 その後、王国第二騎士団員となり復讐の相手を探し、その機会を待ちつつ生きる。


 だが反体制軍側に捕らわれ魔術による精神支配と肉体改造をうけ、彼らの手先として操られてしまう事に…‥。

 

 反体制軍側の指令により遺跡都市カフカで一度ミハエルを襲撃、その後も魔導列車にて彼と戦う


 *


 今、彼女は本当の記憶、反体制軍の魔術師により埋め込まれた偽の記憶が明確に理解できる。


 すべてが、手に取るように脳内で整理されていく。


 燃え上がる復讐と憎悪に身を捧げるつもりであった自身の命。

 しかし、本当に望んでいたのは愛する者との静かな暮らしだったと、気づいてしまう。



 ―――― ミハエルの姿を借りる堕天使ルシルフィルの思念


 ―――― 心の奥底にたどり着いたレヴァント



 レヴァントの夢が崩れた暗黒の空間。

 互いに睨み合い二人は裸のまま相対していた。

 涙と鼻水にぬれたレヴァントの顔はすでに乾ききっており、尖った表情は美しくも可憐であった。


 音のない空間で、二人の思念は交差する。


「ルシルフィル……よほど私に惚れてるみたいね。でもミハエルのなりをするのはいい加減に止めてもらえるかしら、吐き気がするわ」


「レヴァント……貴様の思いの強さは気に入った……余はルシルフィルの思念……いまだ復讐の憎悪に燃える貴様の心はやはり心地が良い……我が力が戻るまで、その心の中で再び眠らせてもらうぞ」


 レヴァントの緑色の光に異様なまでの力がみなぎる。青白い光がその胸からほとばしると、目の前の空間に光がきらめく。思念の力で形作られた光の短刀が彼女の利き手に握られる。

 「はああっ? 誰があんたなんかを、私の心の中に入れさせるもんですか! クソボケッ!」


 あくまで気の強い態度を見せるレヴァントに、堕天使は満足そうに笑みを浮かべる。

 背中まで伸びた亜麻色の髪を揺らし鬼の形相で叫ぶレヴァントを見つめる。そこから、レヴァントには受け入れがたい冷たい事実を告げた。




 ―――― 美しい、、存分に眠りし力を行使するがいい


 レヴァントは目を見開く。声を上げようとするも上手く言葉には出来なかった。


(なんですって? 私がルシルフィルの血を継ぐもの? 力の行使??)


「あがぁっ! ぐうぅ!」

 レヴァントは突然おそってきた下腹部の激痛に体を折る。体の中に取り込まれているダーククリスタルの破片が力をおびて振動すると、黒い光が体の中から幾条の筋となって空間を照らしつつ輝く。

 やがてその輝きはミハエルの姿をした堕天使とひとつとなっていく。



 ―――― 女、レヴァント・ソードブレイカー。愛おしき我が子孫。その気高い心はやはり高貴なる存在。余は眠りにつく。目覚めるまでは、お前のままでいることを許してやろう



 レヴァントは禍々しく響くその声に、堕天使の得体の知れぬ深い感情を感じる。


 愛情にわずかに近しいものがあるが、間違いなく憎悪ではない。

 怨嗟でのみ形成された堕天使の思念に『何か』が生まれたことなどレヴァントは気づかない。

 その何かは、はるか昔、彼が大天使であったころのもの。


 エネルギーの塊と化した堕天使が自身の体に沁み割っていく苦痛を感じながらも不思議な思いを抱いた。




 レヴァントの目が緑から赤に変わる。

 気づくと魔術師ベイガンから受けた『精神支配による身体を改造された状態』に自由に出入り出来るようになっていた。


 しかも、密かに自身の自我を保ったままでだ。




(あははははっ、何この力! ……これ最高だわ、この力があれば王国を滅ぼす事も……)


 レヴァントは心の中でほくそ笑む。

 やがて、堕天使を宿したレヴァントの体は、暗黒の空間から少しづつ落下を始める。

 その落ちていく感覚を味わいながら、加速度と共に彼女の意識は途切れてゆく。


 




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る