23 大天使センデルフェン

 聖霊界の墓所には光を湛えた悲しみがあった。


 白霧のごとき微細な光が漂い天へ上ってゆく、清廉なる風が永久の時間にのり吹き続けている。その光には精霊という精神体の囁きが混じって、訪れる者の心に神秘的な調べを届けていた。


 星屑と砕け散った水晶の土が盛られ、透明な花弁をもつ美しい花が咲き乱れた死者の眠る墓陵。

 そこへ天空の神界へ届かんばかりに透き通った一本の世界樹が墓標となっている。


 そこは神に逆らいし、天の軍勢に反旗を翻した美しき伝説のハイ・シルフ『セラフィニア』の魂が眠る寝所であった。


 高貴な風の聖霊でありつつも堕天使ルシルフィルを庇って命を落とした彼女の存在は、この戦いの事後処理を託された大天使・ルタンマリエーゼの手により精神界・物質界の記憶から消し去られた。




 その墓所の静謐せいひつに足を踏み入れる女性格の翼があった。

 彼女の名前は大天使センデルフェン―― かつて父なる神の命を受け、堕天使ルシルフィル討伐戦の総司令官となった女であった。


 ―――― 彼女はその光の軍勢の指令という立場にあろうとも、ルシルフィルを愛していた


 ルシルフィルの美しさ、瞳に宿る力強くも神々しい光、堕ちる前の荘厳なるまでの清冽さを、崇拝していたといっても良いだろう。

 父なる神の命令がなぜ、討伐戦の総司令官の任命がなぜ自分に……そう思った。その壮絶なる葛藤の中で彼女はその命令に従わざるを得なかった。



 ―― 神への忠誠を使命とした天使の宿命さだめが呪いとなろうとは……ならば、愛する者をこの手にかけ、自らも玉となり砕け散ろうではないか。



 神よりたまいし剣の先にある堕天使ルシルフィル。しかし彼の前には風の聖霊セラフィニアがいたのだ。


 セラフィニアに護られ横たわるルシルフィル。かつて清冽で麗しきものであったその顔は、罪の影に覆われ苦悶にゆがみ醜いものへと変わり果てていた。

 麾下の軍勢の刃がひとつひとつとルシルフィルを切り刻むたびに、センデルフェンの心も傷を負った。


 自らの手で神威と共にルシルフィルの広げられた十二の翼を切り落とし、闇に染まった彼の羽根を散らした。

 神命を帯びた剣が彼の命を奪うその感触、魂の芯を打ち砕いたあの瞬間が、永遠に繰り返される悪夢としてセンデルフェンを蝕み続ける。


 その逃れられない悪夢は、神に祈り地に伏して赦しを乞うても、彼女を解き放ってはくれない。


 ―― なぜ……


 問いはセンデルフェンに苦痛を与えるだけだった。

 なぜ彼を守れなかったのか。

 なぜ神界で彼を神への叛逆から引き戻せなかったのか。


 問いは悪夢の記憶と共に、重たい鎖となり彼女に巻き付き、深い海の底に沈めてゆく。



 やがて、センデルフェンははっきりと己の心に気づく。

 後悔だけではない。

 その裏に、計り知れない、蛇が濡れた地面を這いずるような仄暗い嫉妬が渦巻いていることに。



 ルシルフィルを愛し抜いた美しき聖霊『セラフィニア』の姿。

 彼を護り、その命をもって愛を証明したハイ・シルフ……



「なぜあの時、ルシルフィルを護ったのは私ではなく、お前なのだ」

 その言葉が、幾度も心の中で反響した。

 声にすることの出来ない、叫びたいほどの醜い思いは彼女の胸の内で暴れた。


 セラフィニアの聖霊としての命を捧げ、全身全霊をもってして彼を護った悲しくも気高い愛の姿。

 しかし、その真実の愛の姿こそが、センディルフェンにとって耐えがたい嫉妬の苦しみをもたらしているのだ。



 彼ルシルフィルを愛していたのは私だ。

 天地創造のかの時より、彼と共にいたのだ。

 兄妹のごとく彼を知っていたのだ。

 彼に自身の命を捧げるのは、この私だったのだ。


 では、なぜ……。

 なぜ今更セラフィニアが、彼のために命を賭け、美しき花と散ったのか。


 ―― なぜそれが『私』ではなかったのか。



 問いは、彼女自身を切り裂く刃でしかなかった。

 センデルフェンは嗚咽する。

 鋭く、凍えるような痛みに、嫉妬の炎が、自身を焼き尽くしてゆく。


 センデルフェンは切り刻まれ、焼き尽くされたその体で聖霊の墓所にたどり着く。

 忌々しい表情を隠そうともせずに美しき世界樹のそびえる墓陵の前に立つ。


 人間の世界でその存在は忘れ去られようとも、神界・聖霊界においてその名はたとえ反逆者としても美しきものとして語り継がれるだろう。

 センデルフェンには、それが許せなかった。

 彼女自身がその役割を果たすべきだったのだ。彼を救うべきだったのは、自分だったはずだ—— その思いが、心の中で響き、えぐるように刺さり続けている



 嫉妬はもはやセンデルフェンを飲み込む激流と化しており、決して鎮まることのない怨霊の姿をなしていた。


 かつて彼女の使命であった神への忠誠は、もはや形を失っていた。

 ルシルフィルを自らの手であやめた罪の自責と、救えなかった悔恨、自身に代わって彼に愛を注ぎ、死をもって証明したセラフィニアへの燃えさかる憎悪が、センデルフェンそのものとなった。


 彼女自身の憎悪が、この麗しき聖霊墓所へと導いたのだった。

 

 セラフィニアの眠る場所へ、彼女の魂が永遠に安らかに眠ることをさせ得ぬ為に。


 センデルフェンの心は、もはや赦しも救いも求めていない。



 ◇◇◇



 夜の闇は冷たく、風が聖霊セラフィニアの墓所の上をささやきながら過ぎ去っていく。



 

 その静寂を破る者は、ただ一つ ——『ルシルフィルの思念体』だ




 かつて彼の強大な力が振るわれたとき、その翼は夜空を裂き、天使たちの運命を変えた。


 だが今、その彼が目に見える姿を失い、黒い霧となって漂いながら、セラフィニアの眠る墓所に忍び寄っていた。

 彼の目的はただ一つ —— セラフィニアの魂を取り戻すこと。


 黒い霧はまるで影のように墓石の間をすり抜け、冷たい地面に這うように広がり、墓所全体を覆うかのようだった。

 空気は重く、息苦しさが広がっていく。


 ルシルフィルの思念は沈黙しながらも、力強く、かつて彼の愛した者の魂を奪還しようとしていた。



 しかし、その霧の進路を遮る者がいた—— 天使センデルフェン


 彼女の瞳は、憎悪と狂気に満ちていた。

 ルシルフィルへの後悔と愛、そしてセラフィニアへの嫉妬と憎しみが彼女の中で渦巻いていた。


 今、その感情は頂点に達していた。

 かつては天使としての使命を背負っていた彼女の翼は、もうそれ以上の価値を持たない。

 ただひとつ、彼女を突き動かしているのは、セラフィニアへの嫉妬という憎悪——そして、ルシルフィルへの愛を貫くための最後の行動である。


「……ここは、お前の来るべき場所ではない、汚らわしいルシルフェルよ……」


 センデルフェンの囁きは、風に吹かれ消え去る。しかし、その決意は鋼のように強固だった。

 彼女は、自分の体を使って、この墓所を永劫の時に沈めるつもりであった。


 彼ルシルフィルが再びセラフィニアの魂に触れることを、何としても阻止する。それは彼女自身の魂を代償にしてでも。


 するどく尖った水晶の杭を持つ手は震えていた。

 だがそれは恐怖からではない。

 むしろ、彼女の心の中で渦巻く激しい感情が、その手を震わせていたのだ。


 愛と嫉妬、後悔と憎悪—— すべてが一体となり、彼女を狂気へと駆り立てていた。彼女の瞳は、黒い霧となったルシルフィルを睨みつけ、その霧がセラフィニアの墓所へと触れる瞬間を見据えていた。


「ああ、ルシルフィル。このような姿になり果てて。聖霊セラフィニアの魂は……貴方には渡さないから……」


 その言葉には、もはや愛する者に対する優しさや懐かしさはなかった。

 ただ、彼女を引き裂いた感情が鋭利な刃のように言葉に込められていた。


 彼女は墓所の入り口に膝をつき、水晶の杭を握りしめた。


 さらに中空に数本の同じ杭が出現し浮き上がる。

 そして、深い呼吸をし、決意を固めると、自らの体をその入り口に打ち付けた。

 後を追うように浮かんだ杭も、センデルフェンの体を貫通する。


 鋭い痛みは……しかし痛みは、救いとなるかのごとく繰り返し体を貫いた。

 長い間抱えてきた心の痛みと比べれば、一瞬のものでしかない。



 打ち付けられた幾つもの杭が彼女の体を固定し、彼女は墓所の封印となった。



 もうルシルフィルはここに入り込むことはできない。

 センデルフェンは、堕天使と風の聖霊を永遠に引き裂くために、自らの命をもって取り去ることの出来ない障壁としたのだ。




 天使の透明な血が彼女の体から滴り落ち、冷たい地面に染み込んでいく。

 その血は、まるで彼女が抱えてきたすべての感情を象徴しているかのようだった。


 後悔、罪悪感、嫉妬——それらが血に溶け込み、墓所の冷たい石に吸い込まれていく。


「……私が……私が、貴方を愛していたのに……」


 その囁きは、やはり風にのり憎しみと共に彼方へと消えた。


 彼女の体は数本の杭で打ちつけられたまま。

 意識は薄れていく。それでも、彼女の魂は自身の最後の望みが果たされたことを知っていた。

 もう大天使センデルフェンの体は動かない。


 堕天使ルシルフィルの最期の思念たる黒い霧が、墓所の入り口の前で揺らめく。だが、その霧は進むことができない。


 堕天使ルシルフィルと風の聖霊セラフィニアが再び邂逅することは、もはや叶わない。

 大天使センデルフェンの愛と憎しみが、時を止めその霧を永遠に拒んでいるのだ。



 やがて……


 騎士の若者は、絶叫と共に目を覚ます。

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