第2章 うごめく騒乱の下火

22 堕天使ルシルフィルと風の聖霊セラフィニア

 物語の核心に近しい『ダーククリスタル』とは何か? について話を進めたい。


 通常の『クリスタル』は天使の美しい心の結晶体であると言われている。この物語のなかでは、その結晶体が魔術とよばれる力の質量をコントロールする装置として用いられている。

『ダーククリスタル』は装置そのものとしては、通常のクリスタルと変わらない。しかし、その核なるものは堕天使ルシルフェルの怨嗟であると言われており、この世界に存在する負の感情の根源であり強大な力を有している。


 ゆえに古代の人類はこのクリスタルを兵器として用いこの世界を幾重にわたって滅ぼしたという。

 『超古代兵器』という呼ばれ方をされるのはそのためである。



 これから語られるのは、その堕天使ルシルフィルの悲しい物語となる。


 □


 ヒクセルキルプスの作り上げた魔術空間。

 ルシルフィルの思念がミハエルの手によって吹き飛ばされた瞬間、その魔術空間は軋みを上げ圧縮されると一気に崩壊する。


「終わり?  まだ始まってもいない。お前ごときに、人間であるお前に……余を消せると思うな!」

 レヴァントの声を借りた堕天使の思念はミハエル達人間を、時空の彼方へと弾き飛ばす。

 禍々しい声だけがわずかに残る空間に響きわたっていた。 


 + + +


 ミハエルが目覚めた場所、そこは真っ白な光の空間だった。光は彼を包み込みつつも無限に広がり、霧のような白く輝く微細な粒子が流れ漂っていた。その先には何も見えない。

 彼はゆっくりと立ち上がり前方を見遣る。


「ここは……天界か?」


 そうつぶやいた瞬間、彼の背後にあらわれたのは白く巨大な翼だった。いや、そのようなものの気配を感じたといっていいだろう。

 大天使の末裔としての力が覚醒し、ミハエルの感覚は鋭敏に研ぎ澄まされている。彼の背後に立つは案内役といえる下級の天使であった。


「人は誰しも十三の大天使様の血をその体に宿している。人間、ミハエルよ。お前はその中でもとりわけ濃く大天使ミケルフェルゼン様の血を引いている者達の末裔だ」


 声の主がそう告げると、ミハエルの眼前には―― 無数の輝く存在、かつての天使たちの記憶が映し出される。


 際立ってミハエルに心に流れ込んだのは、彼の血となった大天使ミケルフェルゼンの弟とも言われているルシルフィルを取り巻く悲しみの記憶だった。



 □



 風の聖霊界において、美しくないものは存在しなかった。


【堕天使ルシルフィル】がこの地に、落とされ傷付き横たわる様を目にした際、高貴な風の聖霊であるハイ・シルフ【セラフィニア】は、その姿を美しくも気高い漆黒の鳥と錯覚したという。


 セラフィニアの暮らすこの風の聖霊界は、天の父と子らである天使が暮らす神界のひとつ下の階層に属しており、精神界から物質界へと美しき心を反映させる世界であった。


 精神界・物質界から強く吹き上がって来る風には優しさと悲しみが寄り添い、この聖霊界の美しい森で溶け合った。高貴な風の精霊は形をなさず、その風にある心に光を与えては再び元の場所へ帰していく。


 森の樹木は、天使の美しい心と精神界・物質界の波動で形成され、水晶の樹木として形を取っていた。陽光を含んだ風が吹き抜けるたび、樹々は透き通る七色の光を返してゆく。そして七色の光からは、優雅で繊細なメロディが聞き取れるという。


 美しい森には優しい霧が漂い、時に霧は雲となり庭園を形作った。セラフィニアはその優美な姿を庭園にふく風に乗せている。

 彼女は神界から物質界に至るまでのあらゆる生命を慈しみ、風に乗せた歌として祝福を注ぐ存在として知られていた。

 彼女の歌は世界の広大な大気の流れに心地よく染みわたり、微笑みは世界に虹を生み出すと称えられた。



 しかし彼女が心から愛してしまったのは、天より追放せしめられた漆黒の翼だった。

 かつて神の側近であった強く美しい漆黒の翼を持つ者は、神の意志に背き堕天使となる。

 この聖霊界で自身の罪の葛藤と自我の対立に傷付き苦しむルシルフィルは、柔らかく穏やかであったセラフィニアの心に熱く激しい感情を生み出していた。


 はじめてあった時から、セラフィニアは彼を愛し続けた。

 彼が堕ちる前から彼を知っていたような気がした。そして堕ちた後も彼には私が必要であると、そう思えた。

 堕天使の、かつて栄光に満ちたであろうその翼。漆黒の姿の中に燃えるように映る瞳、その中に見える計り知れない絶望。

 全てが狂おしいまでに愛おしいものだった。


 堕天使と高貴なる風の聖霊は、禁断の愛を密かに育んでいく。それは人知れぬ風の森で重ね合わされてゆく逢瀬であり、美しくも悲しい歌であった。


「セラフィニア、なぜ……俺のような、汚れたものに」

 ルシルフィルは美しい顔を、沈痛な面持ちに落す。光り輝くセラフィニアの手を取り、何度も何度もその姿を見つめ、目に焼き付けようとする。

 そのセラフィニアの美しい姿だけが、堕天使に残された唯一の救いとでも言うかのように。


 優しい風だけが吹き続けていた。

「あなたがどれほど堕ちても、私はあなたを愛します……それは永遠の摂理として吹き続ける風であり歌声なのです。なにがあったとしても、変わらないものだから」

 セラフィニアは優しく微笑み、彼の頬に触れた。彼女の手は柔らかで、やはり心地よい風のようだった。



 永遠に続くかと思われた、二人の愛。

 神界は、この堕天使と風の聖霊の安息の日々を許すわけにはいかなかった。

 父なる神は二人の関係を知ると怒りに燃えた。

 ついに十二天使の軍勢が差し向けられる。天使は、それぞれが万の手勢を従え、堕天使を滅さんと神界をくだる。


 この日から世界を吹く風は悲しみの音色をまとう。

 セラフィニアは聖霊界の禁を犯し、強大な風に決意の歌を乗せルシルフィルの護りとなったのだ。


 堕天使討伐の総司令官となった女性格の天使センデルフェンは、風と歌声でつくられた護りの壁を神威の力をもって突き破る。

 裁きの刃は二人のもとに迫っていく。



 迫りくる刃は光を反射して美しいものだが、神への叛逆者の憎悪にみちたものだった。


「セラフィニア、逃げるんだ!」


 誰がこのような争いを望むというのだ……堕天使は苦悩のなかで叫んだが、セラフィニアは目を閉じたまま微笑んで首を振った。

 彼女の瞳には、ルシルフィルという男への愛と覚悟が浮かんでいた。


 風の聖霊は堕天使を見捨てることはできなかった。

 彼女は美しき白銀の翼を広げる。彼を守るために広げられた翼は、風と歌声を更なる波動へと増幅させる。


 第天使センデルフェンの軍勢がせまりくる中、彼女はひとりで万の数はあろうかという下級天使の前に立ちはだかった。

 堕天使ルシルフィルはセラフィニアを庇わんとし、傷付き折れた十二枚の漆黒の翼に力が宿る。それは漆黒の色を纏いながらも気高く光り輝いた。

 しかし、再生した翼を広げ、再び大空を舞うかに見えたルシルフィルの体に、光の刃に貫かれたセラフィニアが叩きつけられた。


「セラフィニアッ! セラフィニアァァァッ!」

 ルシルフィルの悲痛な叫びが聖霊界の烈風となり、天使の軍勢が埋め尽くす空を舞う。


 司令官センデルフェンは無情にも掲げた腕を振り下ろし、二人を指し示す。

 ついにぞ、セラフィニアに千の数ともいえる裁きの刃が突き刺さり、静かにその命は消え去ってゆく。

 彼の腕の中で、彼女の体はまるで風に溶け込むように、軽やかに、そして儚く消え去った。


 それでも死してなおセラフィニアの魂は、聖霊界を揺るがす風となりルシルフィルを護らんとした。



 だがルシルフィルの魂は、はかなくも砕けた。



 天使軍の万の剣が彼を切り裂いたこともあろう。

 天使軍司令官センデルフェンの神よりたまいし剣が彼を貫いたこともあろう。

 しかし、セラフィニアを失ったことが、彼の自分自身であり誇りというものを崩壊せしめたのだ。

 彼女を失った悲しみ、自身への怒りと、この世界の理に対する計り知れない憎悪。

 堕天使ルシルフィルの魂は輪廻の摂理から脱せんと崩壊した。



 ルシルフィルの存在はついに永遠の憎しみと絶望という思念体へとなり果てた。



 ルシルフィルの思念は彼女を求めて彷徨い続ける。


 風の中で微かに響くセラフィニアの声を追い、彼は永遠に彼女を探し続ける。それが、思念体ではなくの最後の望みである。




 物質世界の何処かにあるという風の妖精であるシルフの国。

 この世界の伝承では、ここシルフの国を起点に世界の風が起こるとされている。

 そこには、今もセラフィニアの姿を映すかのごとく水晶の樹木が森となり、薄い光をはなつ花が咲き続けている。


 永遠に叶う事のないものとなったセラフィニアの愛は、世界の救済として今も風になり悲しみを拭い去っていくという。

 そして、時折黒い霧が現れては、彼女を探し求めるようにその風の間を彷徨うのだという。

 

 それは、永遠に叶わぬ愛の物語—— 風の精霊と堕天使の悲劇的な恋の記憶である。

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