13 アリシア=ノヴァ
「アリシア=ノヴァ、アリシア=ノヴァ……か」
ぶつぶつと名前を言いながら部屋を出ると、宿のロビーへと向かう。
二年前。王都のスラム街を巡回中に、強盗に囲まれていた所を助けたのが出会いだった。
彼女を取り囲む十人もの強盗らを傷ひとつつけず、ただただ体術だけで圧倒した。
それから『強さは勿論、人徳とか器の大きさが並みの男と違うのよね。すっごく気に入っちゃった』とか言い俺に付きまとっている。
そんな彼女をレヴァントをはじめ騎士団員たちは最初は嫌っていたのだが、いつの間にか空気のように馴染んでいた。
『アリシア=ノヴァ』というのは苗字であり、彼女の出身の地域では父方の姓と母方の姓の両方を名乗るという。名はファーピコロといい、本人は『ヒヨコが寝坊したような名前でダサいのよ』とすこぶる気に入っていない。
アリシア=ノヴァ・ファーピコロ。
これが彼女のフルネームになる。
若干十二歳で実家の造船工場をつぎ、いまやグランデリア王国一といわれる若き飛空艇技師だ。
*仮にアリシア=ノヴァに子供が出来た場合は『アリシア』が母方の姓として子供に使用されることになる。
三十名ほどが集合できる宿のロビーは、朝日と風の入りがよい。
さらに石造りの建物にマッチした観葉植物がふんだんに配置されている。
青の迷彩軍装に身を包んだ青髪長髪の副官ルカアリューザが団員達に指示を出している。派遣人数はすくないが警護の依頼や、遺跡調査の補助要員という要請もきていた。
非番の団員も多くいて、今起きて朝食を持ち込んでいる者、チェスに興じている者、それぞれがリラックスした時間を過ごしている。
騎士団員らしく装備に身を固めた者がきびきびと立ち回るなかで、四人掛けのテーブルに着く非番の者たちも緊急出動にそなえ軽い装備は常に身に着けている。
その雰囲気の中で、一人テーブルを独占し百枚はあろうかという図面や書類を積み並べ、何やら計算をしている娘がいる。
服装はというと、いつも通りの赤茶色ポニーテールにつなぎ服だった。
「おい! アリシア=ノヴァ、カフカに来てまで付きまとってくるんじゃねえよ」
軽口で話しかけると、彼女は図面を睨んだままサッと手のひらを見せる。
「Aspetta!(:待って) 今、空中揚力のエネルギー計算式を解いているところだから、忙しいの!」
これだ。
俺は備え付けポットのインスタントコーヒーをカップに注ぎ、今日二杯目のコーヒーを飲みながら外を眺めることにする。
強くなるであろう日射しとは正反対に、油断すると昨夜の事を思い出し、心の底には暗く重たい気持ちが渦巻いてきてしまう。
――― レヴァント……必ず、お前を取り戻す。
息を大きく吐くと、振り払うように首を振り続けた。
明るい声で現実に引き戻される。
「ごめんなさい! 計算がやっと終わったわ。久しぶりミハエル! おはよう、会えて嬉しいわ」
飴玉を転がすような早口の声がロビーに響くと、飛ぶように俺の元に駆け寄って来る。
うるさい声に反応したのはルカアリューザのみで、すでに団員達はこの声に慣れてしまっていた。
「おい、コーヒーを持ってるんだ! 触るんじゃねえぞ。こぼれるからな」
「見ればわかるわ、今日はミハエルに私の個人警護をお願いしたいの! 大丈夫でしょ? 暇そうだし」
少女の目が、らんらんと輝き俺を見上げてくる。どう見てもこれがアリシア社の社長であり王国一の腕を持つ飛空艇技師とは信じにくくなる。
ルカアリューザだけは彼女の声に注意を払っていたのだろう、指示出しを中断し薄い銀のアイライナーを施した鋭い目で俺とアリシア=ノヴァを睨みつける。
「小娘が何を勝手な事をほざいているのか、予定が入っていないとは言え団長は……」
しかし、アリシア=ノヴァのつなぎ服の胸ポケットからは小切手が取り出され、頭上高くに示された。
その書かれた金額にルカアリューザは顔をしかめて言葉を失っている。
「王国第二騎士団長を安く使おうなど思っていないわ、だって世界一わたしが信頼している騎士サマですから」
アリシア=ノヴァは口角をあげると、反応を伺うように俺とルカアリューザの顔をなんども往復して見つめる。
ルカアリューザは硬直しており、俺は白目をむいて倒れたくなった。
「わかった、話を聞……」
「うわっ、ありがとう、嬉しいわ! ミハエル頼りにしてるからね!」
返事が早い。
アリシア=ノヴァの転がるような声がホールに響いた。
□
□
遺跡都市カフカの第三遺構地区の奥深く、古びた石造りの倉庫の一室。
暗い倉庫の中に俺はいる。
窒息しそうな息苦しさだ。
アリシア=ノヴァ、お前が警護に俺を選んだのは正解すぎるまでに正解だろうと納得する。
俺は改めて相手の男を見る。
【マルセリウス・グラント】
ある程度、王国の上層部に近しい人間なら一度は聞いたことのある名前だ。
地方都市の小麦商から、大陸を股にかける武器商人にまでなりあがった男。
幾多の国々と取引を重ね、その資産はグランデリア王国の国費をも上回るという。
彼女から宿でその名前を聞いた時には、いつものジョークかと思った。
しかし、その男は今、現実として彼女つまりアリシア=ノヴァと挨拶を交わしながら座っている。
とてつもねえ大物じゃないか。
詮索はしないがアリシアの野郎、どういうツテでこの男と繋がったんだか。
互いにボディガードは一人ずつ連れている。
アリシア=ノヴァは、俺。
相手マルセリウスには、深紅の東方系の民族衣装を着た女。
倉庫の『入り口』は配下十名の騎士団員で固めている。
しかし、倉庫の『周囲』は百人近くの黒服、つまりマルセリウスの配下が潜み警護している。
その黒服達ときたら凄腕の剣士や魔導具の使い手から、魔術師、弓の名手など、各国の軍隊の一師団と戦える戦力だと言っても過言ではない。
冷たい倉庫の鉄の扉を開けると、室内には古い木製のテーブルがひとつ、弱々しいランプの光に照らされているだけだった。
時が止まったかのような埃の舞う空間で、二人の揺れる影が交錯する。
場所に緊張感が満ちない訳がない。
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