第25話 あの岬まで行くんだ

 三月三十日。

遠乗り決行の前日となった。朝、両親が畑に出て行ってしまうと、ミツアキが一人で自転車に乗ってやって来た。今までの話し合いで、今日、洞窟探検用の明かりを作ることにしていたのだ。

「あれ? あいつらは?」

 あいつら、とは、もちろん、いつも一緒にいるミツアキの二人の弟、ヒロシとマサルのことだ。

「今日は、自分たちだけで遊ばせることにしたんだ。そばにいたら気が散るからさ」

 ミツアキは笑いながら答えた。

ヤスノリは、この同じ年のいとこをいつも通り、まず二階にある自分の部屋に通した。窓からは太平洋に突き出した行者岬が望める。

 最初に口を切ったのはミツアキだった。

「明日の洞窟探検には明かりが必要だったんだよな。卒業式の帰り、お前に言われてから色々と考えてたんだけど、こんなのはどうだ。確か、ここの家には正月に、神棚に供える小さな丸いロウソク立てがあったよな。あれにうまく針金を巻きつけたらいいんじゃないのかな。それで巻きつけた針金のもう一方の端を真下に直角に折り曲げれば、取っ手の代わりになるだろ?」

「なるほど。そりゃ、いい考えだ」

 ちょっと待っててくれ、と言うと、ヤスノリは一階の台所へ下りて行き、水屋だんすの引き出しを開けた。中には金色の丸い小さなロウソク立てが三つと、父の思い出のこもった銀の魚型のコルク抜きが置かれていた。

 ちっ、全部で三つか。まあ、しかたがない。

いまいましそうに舌を鳴らしてロウソク立てを取ると、ヤスノリは自分の部屋に戻った。

「なんだよ。一つ足りないじゃないか」

 差し出されたロウソク立てを見ると、ミツアキは、いったい、どうするつもりだよ、と言いたげな顔をした。

「これだけしかなかったんだ。僕とお前で一つずつ。ヒロシとマサルの分は一緒だ。ヒロシがロウソク立てを持って、マサルはそばにくっついていればいい」

 ヤスノリがなだめるように言うと、

「なるほどな」

 と、ミツアキは、くっ、と口角を上げた。

「じゃあ、納屋へ行こうぜ。あそこには父さん愛用の日曜大工の工具類が置いてあるんだ」

 

 家の中はヤスノリたちだけのはずだったが、二人は、ゆっくりと足音を立てずに階段を下りて行った。

 母屋の裏にある納屋の戸を開けると、古い木の匂いがした。納屋特有の匂いだ。

中に入ると、ミツアキはさっそく洞窟探検用のロウソク立て作りに取りかかった。ラジオペンチを握ったミツアキの大きな手が針金を適当な長さに三本切り、小さな丸いロウソク立てに一つ一つ器用に巻きつけては、もう一方の端を直角に真下に折り曲げてゆく。ロウソク立て作りに集中しているミツアキの真剣な横顔を見ていると、今日、なぜ二人の弟を連れて来なかったのか、改めてその理由がわかったような気がした。

 ほんと、こいつ、手は大きいのに器用なんだよな。てのひらなんか、まるで大仏みたいだ、あの東大寺で見た……。

 ヤスノリは、さらに去年の、家庭訪問の時のミツアキとマサルの兄弟げんかを思い出した。


 この手が僕のを取って食べたのかよ……。

 マサルの声がよみがえってくる。

 

「何、にやけてるんだ」

 ミツアキの声で我に返ると、ヤスノリは、でき上がったロウソク立ての一つを手に取って答えた。

「いや、何でもない。それより、うまくできたな、これ」


 完成した三つのロウソク立てを、納屋の奥に置いてある、昔、父が餅をつくのを手伝った時に使われた杵がもたせ掛けられている臼の陰に隠すと、ミツアキは帰って

行った。特に何も言わなかったが、自分でも仕上がりに満足しているのが、足も軽く自転車をこぐ後ろ姿でわかるのだった。

 

 夕方。

 畑から戻ってきた両親と食事を済ますと、母は、はい、これ、と桜餅の皿を出した。

「この前、買い物でゑびすやさんに行った時に見つけたの。もうすっかり春よねえ」

 うっすらと湯気の立ち上る、緑茶の入った湯呑を一客ずつ出しながら母は言う。

「ねえ、母さん。あの呪文の『お月さん いっつも桜色』って、どういうことなんだと思う?」

 例の呪文が、母の少女時代から、もうすでにあったことを思い出したヤスノリは聞いてみた。

「何なの? 急に……」

「いや、別に何でもない。ただ、この桜餅見てたら、ふと思い出してさ……」

 指で塩漬けにされた桜の葉をめくりながら、ヤスノリは言った。

「ああ、あれね……。そうね、やっぱり、月の女神が行者を思ってるって、ことなんじゃないかしら。昔は気の利いた娯楽なんてないから、皆、そんなことを言って面白がってたのよ、きっと。だって他に何も思いつかないもの……。ねえ、父さんはどう思う?」

 母に聞かれて、桜餅を食べかけていた父は、ちょっと、待てよ、と手で制し、お茶で口を直すと答えた。

「うーん。やっぱり、母さんの言う通りじゃないのかな」

 何か、ありきたりだな……。

 ヤスノリは桜餅にかじりついた。

 

 その夜、電気を消して布団に入っても、明日の冒険を思うと、ヤスノリはなかなか眠れなかった。沖をゆく黒潮のさざめきが枕もとで聞こえる。

 ヤスノリはふだん、台風でも来ないかぎり、部屋の雨戸は閉めず、窓には薄いカーテンを一枚引くだけで寝ていたから、部屋の中は電気を消しても外の月や星々でほのかに明るかった。

 目を開けて天井を見つめていると、天狐森神社の古ぼけた小屋の奥にあるという、まだ見たことのない洞窟の入口の、ぽっかりと空いた穴が思い浮かぶ。

 あの入口の奥にはいったい何があるんだろう?

 ヤスノリは布団を抜け出すと、窓の所まで行き、カーテンを開けてみた。

 墨色の海に映る金色の帯。春の十六夜の大きな月の真下の水平線のあたりは、ひときわ輝いて、まるで光の木の葉を浮かべたようだ。

 そういえば、去年の六月、灌頂ヶ浜で体育の時間に泳いだ時、「海の月」と書いて「くらげ」と読むという話になった。例の呪文の「お月さん」は、夜の海に映る月のことを言っているらしいが、目の前の、光の帯となっている夜の海の月を見ていると、呪文の中の月が、とてもクラゲを表しているとは思えなかった。

 はるか沖に目をやると、月の光の木の葉は、黒潮の流れでちらちらと震えている。昨夜が満月だったが、今宵もまだ大潮に当たっている。

 あの月の海を、ちょうど今の僕くらいの歳だった父さんは、泳いで渡ったんだ……。

 窓の外の光景を見ていると、遠泳を導く為に櫓舟の上で打たれる太鼓の響きが、聞こえてきそうだった。

 昼間見るのとは違う、黒々とした行者岬の輪かく。その先端の高台が天狐森だ。

 窓の外の夜の海は、月の光の帯を相変わらず映し続けている。

 ヤスノリは行者の岩屋へ足を踏み入れるところを何気なく想像してみると、少年たちがいつも唱える「呪文」の言葉がまた思い出されるのだった。


 はばかりない はばかりない

 お月さん いっつも桜色

 行者様をしのんでか


 いったい、どうすればこの月が桜色になるというのだろう……。

 ヤスノリは、はるか昔、光の帯に沿うように横たわる岬で修行をしたという行者に問いかけてみたかった。

 


 三月三十一日。

 すっかりと夜が明けた。朝食が済んでしばらくすると、ヤスノリの両親は農作業の為、いつものように畑に出て行こうとしていたが、そこへミツアキが二人の弟と自転車でやって来た。

「ああ、ミツアキ君たち、いらっしゃい」

 母の迎えの言葉に、おじゃまします、とミツアキは答える。

「そうそう、今夜、あなたたち、うちで泊まるんだったわよね。夕食にはステーキ焼いてあげる。七輪の炭火で網に載せて焼くステーキよ、炭火の遠赤外線で焼き上げた……。味付けは、今、売り出し中の『水床島の塩』でね」

 ヤスノリは、節約家の両親のもと、ふだんは一汁一菜の野菜が中心で、肉といえば、ほんの申しわけ程度に肉(それでも一応、牛肉は使ってくれてはいたが)の入ったカレーか(西日本スタイルの牛肉の)肉じゃがが、年に数えるほど出ればいいような食生活を送っていたので、母の言葉に思った。

 いったい、どういうつもりなんだよ。ミツアキたちにそんな大見栄を張って……。

 あきれた気持ちでいっぱいになり、行方を見失っていたヤスノリの視線は、玄関の下駄箱の上に置かれていた、三月、四月と二ヶ月分が印刷された卓上カレンダーで止まった。

 そうか、そういうことか。明日は四月一日。つまりエイプリルフールで、今日はその前日、ってわけだ。まあ、クリスマスでもその前夜祭(イブ)の方を盛大に祝うからな……。つまり、今夜の夕食に出る、七輪で網焼きにしたステーキというのは実は焼き魚のことで、それを見た僕らが、何なんだよ、これ、って文句をつけたら、これだって魚のステーキよ、ほら、今夜はエイプリルフール・イブでしょ。だから冗談なのよ、冗談。どうせ冗談なら盛大に、とか言うつもりなんだろう。考えたな、母さん……。

 見るとミツアキたちは、ステーキという言葉に顔をほころばせている。

 おいおい、お前たち。だめだよ、こんな手に引っ掛かってたら……。

 ヤスノリはミツアキに懸命に目で合図を送ったが、気づいてくれなかった。

改めるようにして気持ちをきっぱりと引き締めると、ヤスノリはそっけなく母に言葉を返した。

「そう」

 

 両親が畑に出てゆくと、ヤスノリはミツアキたちを一階にある押入れに案内し、中から自分のリュックを取り出した。もともと家にあった父のリュックと合わせると、ちょうど二人分あった。

 はい、これ、と父のリュックをミツアキに渡す。

「なんだよ、これ。大人用じゃないか」

「しょうがないだろ。これしかないんだからさ……。お前、体でかいんだから、大人用でも大丈夫だろ?」

 ミツアキはへへっ、と大きな体を少し小さくするようにして笑った。

 お昼にでも母さんたちが畑から帰って来て、押入れを開けるということはまずないだろう。今日一日、リュックがなくなっていても気づかれる心配はないはずだ……。

 ヤスノリは父の書斎の扉付きの本棚から方位磁石とこの島の地図を失敬すると、今度は台所へ行き、梅干しを箸で裂いて、番茶で満たした水筒に落とし込んだ。さらに戸棚から紙コップを失敬してリュックに入れ、それから納屋へ行き、昨日、臼の陰に隠しておいた、三つのロウソク立てを取って来た。更にロウソクとマッチを居間の仏壇から失敬したが、その際、軽くおりんを叩くと、ちょっと借りるね、と鴨居の祖父母の遺影を見上げながら言って、ミツアキに手渡した。

 ミツアキは、渡されたロウソク立てとロウソクとマッチ、それにさっき台所から失敬したおかき、暇つぶし用にと持って来たトランプをリュックに詰めたのだが、さらにその上、いつの間にか用意してあった古新聞をそっと詰めるのだった。


 ヤスノリはふだん食事を取るちゃぶ台の上に置手紙、というよりは走り書きのようなものを残した。


 今日はミツアキたちと遊びに出かけるよ。夕方には帰るから。


「もし、母さんたちに何も知らせてなくて、お昼に突然、僕らがいなくなっていたら、それこそ騒ぎになってしまう。だからこうしておかなきゃな」

 夕方には帰るから、という用件さえ分かれば、両親は本当に何も心配しないことが、ヤスノリにはわかっていたが、それはこの島の治安の良さからくるものだった。

 四人の少年たちは全員,長袖、長ズボンという、山へ行く時の基本のいでたちをしていた。ヤスノリとミツアキはリュックを背負うと、広い土間に停めてあった自転車を表に出した。表に出す時に振り返ると、土間の奥に、倹約家の父が宝物のようにして、ミツアキの母親のミチおばさんから贈られたワインを眠らせている地下蔵への入口が見えた。

 あのワイン、当分の間、開けられることはないな……。

 ヤスノリは、ミツアキ兄弟に、これから始まる冒険の成功を祈って、さあ、円になろう、と促した。


 玄関先で少年たちは肩を組み、周囲には誰もいないはずなのに、「はばかりない」の言葉に合わせるかのように声をひそめて呪文を唱えた。


 はばかりない はばかりない

 お月さん いっつも桜色

 行者様をしのんでか

 

 呪文を唱える時、ヤスノリはポケットに忍ばせておいた、この前、母が作ってくれたお守り代わりの持ち塩に手を伸ばして、そっと触った。

 

 家を出て、田んぼの中の、軽自動車が一台通れるくらいの道を行くと、まだ植えられたばかりの短い苗が風に揺れ、水の匂いがした。道端を縁取るように赤くレンゲの花が咲いている。

 田んぼが終わると、次は菜の花畑だった。

そういえば、たしか去年の春休み、ミツアキたちと、ここでかくれんぼをしたん

だっけ……。僕が鬼で、最後に残ったミツアキだけが見つけられなくて、捜していたんだけど、この道の向こうから軽トラに乗った、るびすやのおばさんが来て、あの菜の花の茂みよ、と教えてくれたんだったな……。それでその通りに捜したら、どんぴしゃりで、あいつが隠れてたんだ。ミツアキのやつ、るびすやさんさえ余計なことを言わなければ、って、笑いながら、むっとしてたっけ……。それであの軽トラには、赴任してきた河上先生が乗っていたんだよなあ。まだ先生のこと知らなかったから、ミツアキと二人で、さっきの男の人、誰だろう、って言ったんだ、あの時……。

 ヤスノリは、ぐん、と背筋を伸ばすと足に力を入れてペダルを踏んだ。

菜の花畑が済むと、遠くにこの前、卒業したばかりの小学校の校舎が見えてきた。

 そういえば、あの校庭で、ミツアキが考え出した「輪っか投げ」をやったんだ……。

 道が緩やかに曲がると、小学校へと続く横一文字の桜並木がほのかに白く、まるで灯籠のように見えた。ヤスノリは、以前、これと同じ光景をどこかで見たような不思議な懐かしさを覚えるのだった。

 この桜並木って、去年の一学期最初の日に、河上先生が見せてくれた、旅行写真の中の一枚と似ていたのかな? いや、でも、なんか違う気がする……。

 一行は、しばらく自転車を停めて桜並木を眺めていた。


「行者の岩屋」への道は、出発前に地図を見て、頭の中に入れておいた。この辺りから岬の高台の天狐森までは、直線距離で数キロメートルのはずだが、道は真っすぐではない。行者岬は岩が硬く、道を作る時、切り通すことができなかったのだ。

ヤスノリが小学校に入る前、それまでは獣道だった岬の高台までの道が、やっと舗装されたが、天狐森のある高台までは、途中にある硬い岩盤を避ける為に、同じ所をくねくねと曲がりながら進む山道になったのだった。

 一年生の時、その頃は、まだ行われていた卒業生を送るお別れ遠足で、岬まで行ったことはあるが、途中の詳しい道程はもう覚えていなかった。

 ヤスノリが、他にもっと何か思い出せないか、と思いを巡らせていると、時を告げる役場のチャイムが鳴った。

「もう十時か、行こうぜ」 

 ミツアキが促した。


 まるで腸のような岬の山道を、懸命に駆け上って行く四台の自転車。左側には山、右側には太平洋が広がる。勾配がきつくなってきたので、自転車を降りて押しながら上る。ヤスノリの横にはミツアキ。その直ぐ後ろには二人の弟。春先でも強い日差しに、衣服の下の肌がうっすらと汗ばむのがわかる。

 山肌に化石漣痕が見えてきた。説明看板が立ててあったので、それなりに天然記念物のようだったが、今までに学者連中が本土から来たという記憶はなく、この島の住民たちさえも、ふだんはその存在を忘れていた。

 

 レンコン?

 幼いころ、行者岬への一度きりの遠足で、面白がって聞いたヤスノリに、引率の市原先生が笑いながらも、きちんと説明してくれた。

 食べる蓮根じゃなくて、岩肌が漣の痕みたいに見える、ってことよ。ほら、ヤスノリ君、ここをよく見て。岩がまるで漣みたいでしょう?

  

 ヤスノリは立ち止まると、ミツアキにその時のことを告げて笑った。岬への遠足の経験のないヒロシとマサルは、何のことかわからず、きょとんとしている。

 昔、僕らが一年生だった頃、遠足で先生が説明してくれたんだ。レンコンって言っても食べ物じゃないよ、って。まあ、昔の獣道を舗装した時、この漣痕を傷つけないように一苦労したんだろうな、工事の人たちは、とヤスノリは言った。

「じゃあ、先を急ごうか」

 少年たちは再び自転車を押し出す。 

 化石漣痕と横のやぶ椿と緑のビロウの群落がヤスノリ一行を見送った。

 

 それからも険しい山道は続いた。いつまでたっても坂は緩くならなかった。

 右に開けていた海が消えると、両側の木々が道を包み込むように枝を伸ばしている。木々に囲まれた道は気まぐれに向きを変える。

 ヤスノリは、前に一度来た遠足の時のことを何か思い出せないかと、かすんでしまった記憶をたぐり寄せてみたものの、何も思い出せなかった。   


 本当に岬に向かって進んでいるんだろうか。

 ヤスノリは自転車を押しながら心の中で問いかけてみる。

 今朝、地図を頭に入れておいたから、「行者の岩屋」までの、およその道筋はわ

かってはいるけど、実際、木々に包まれた道の中で、こんなにも同じ所を回り続けていると、方向感覚が失われてゆく……。

 さっきから足首が少し痛み、こめかみの血管が脈を打つ。軽いはずのリュックも、ベルトが肩に食い込んでくるようで、終わりのないような疲労感に包まれてゆく。最初は軽い気持ちで小学校の卒業記念にこの岬へ行こう、と提案したが、今、ヤスノリを前に進めているのは、卒業の思い出作りで、ゾッピに完全に先を越されてしまった、という思いだった。

 あいつにだけは負けたくない……。

 ヤスノリは疲労感に包まれてゆく頭を懸命に振り、奇妙な対抗心で、疲れた足に力を入れるのだった。


 突然、目の前の道の、急に湾曲した所に、自動車の待避所が見えた。

 あんなの、あったかな?

 もう遠くへ行ってしまった記憶を手繰り寄せながらもヤスノリは、すぐ横で自転車を押しているミツアキを見る。昔の遠足でミツアキと並んで長い坂道を歩いたことだけは思い出す。

 ミツアキはどう思っているんだろう。


「あそこで少し休もうよ」 

 ヤスノリは、待避所で自転車を停めて、もう一度、道を確かめるように、リュックから地図と方位磁石を取り出した。掌に磁石を載せて、木々に囲まれた道の中の、軌道のように目の前に伸びる緩やかな上り坂に向かって差し伸べる。

 この坂なら自転車で上れそうだ。

 ほぼ視界をさえぎられてしまった木々の道の中で、方向感覚を失いかけていたヤスノリは磁石を見て固まった。針は北を指していたのだ。 

 嘘だろ。

 ヤスノリと、隣で磁石を見つめていたミツアキは顔を見合わせた。

 行者岬は太平洋に向かって南に突き出した岬なのだ。これではまるであべこべだ。南へ向かうはずが、北に向かっている。

 ああ、わかった。きっとさっきの急に曲った道のせいだ。

 直感でそう思ったヤスノリは、広げた地図で、向きを急に北に変えている地点を懸命に探した。

「ああ、あった。これだ」

 ヤスノリは地図の上に描かれた、急な湾曲を人差し指で押さえた。ミツアキたちもヤスノリの指先をのぞき込む。

「地図にはこれの他に、急に折れ曲がって北へ向かう道はない。僕たちが今いるのはここだよ」

 驚いたことに、地図を押さえているヤスノリの指先のすぐ側に天狐森はあった。

 なあんだ。あともう少しじゃないか。この道って、すぐにまた大きく曲がって南に

向かうんだ。もう、間もなく天狐森だ。坂は前よりも緩くなっている……。

 目の前の、また自転車をこぎ出せそうな勾配の緩い坂道を見ると、途端に元気が

戻って来た。

一行は再び自転車に跨った。

「あと少し、あと少し」 

 誰からともなく、そんな言葉が自然にこぼれる。

 役場のお昼を告げるチャイムが、遠くから聞こえてきた。

 母さん、もう畑から戻って来ただろうな。あの置手紙は、母さんの目の前に突如出現したことになるけど、それを見て、いったい何を思うんだろう……。

 ヤスノリは自転車をこぎ続ける。

 僕たちがいなくなってるのに気づいてから、あの手紙を見つけるのかな。それともあの手紙を読んでから、僕たちがいなくなっていることに気がつくのかな……。

 そう思うと、なぜか愉快な気分になってきた。

 隣のミツアキの顔には弾ける汗。振り返るとヒロシとマサルは汗に濡れた前髪を額に貼りつけて、あえぎながら自転車をこいでいた。


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