第26話 岩屋の中で
木々の道が終わると、天狐森神社の鳥居が迎えてくれた。近くでミソサザイの声がする。鳥居の向こうの両側は、桜の木立と石の灯籠がそろって並んでいる。
ああ、あの時に感じた不思議ななつかしさは、ここのことだったんだ……。
ヤスノリは今朝、村の小学校へと続く桜並木を見た時に覚えた感覚を思い出した。
鳥居の脇に自転車を停め、天狐森の木立に囲まれた境内にヤスノリたちは立つ。
参道を歩いてゆくと、本殿とその横に粗末な小屋があり、奥の空地に灯台が見えた。
ああ、この小屋、覚えている。
小一の時の、遠足のおぼろげな記憶がよみがえってくる。
ヒロシが小屋の引き戸に近寄ってゆく。すぐ後にマサルも続く。
小屋の前に立ってよく見ると、引き戸と柱の間には、ほんのわずかにすき間があり、誰かが戸を開けようとしたことを物語っていた。
あの時のままだ。
ヤスノリは更に近づいてみた。引戸の錠は、戸に付けられた本体から鎌が下りて、柱側の受座に引っ掛かってつなぎ止める型のものだったが、よく見ると、戸と柱の薄いすき間には鎌は下りていなかった。
「おい、この戸、鍵なんか掛かってないぜ」
ヤスノリが指差して言うと、皆、すき間に顔を近寄せる。
「やっぱり、あの遠足の時、この戸を開けようとした奴も、このことに気がついたんだ」
「でも、どうして鍵が掛かっていないんだろう? 神主さんは亡くなる前、安全のことを考えて、岩屋の入口をこの小屋を建てて、ふさいだんじゃなかったのか?」
ミツアキの問いに、辺りには誰もいないはずなのに、ヤスノリは声をひそめて言った。
「ほら、正月早々、S町の裏山で大麻を栽培して捕まったのがいた、ってニュースで言ってただろ? その仲間で、まだ捕まらずに残ってたのがいて、合鍵か何かでここを開けて……」
「まさか。あの犯人なら皆捕まったぜ。それにこの島じゃあ、そんなのがいたら、すぐにわかる。最近、怪しい奴を見たなんて話、親父はしてなかったがなあ」
ミツアキの言う通りだった。この島で、よそからの不審者を見かけたという噂は、今も昔も聞いたことがなかったし、コンビニさえもないようなここには、そのようなことをする者などいなかった。
「神主が鍵を掛け忘れたのかもしれない」
今度はヤスノリが、まさか、と言う番だった。
「あの神主さんは用心のいい人だった、って聞いてるけど」
「いずれにしてもこのままじゃ、らちが明かないぜ」
ミツアキの言葉にヤスノリは思った。
もしも、そんな不良の一団がやって来て、掛かっていたはずのこの戸の鍵を開けて中に入ったとしても、最後はきちんと閉めなおすだろう。そういう悪事を働く奴らは、きっと用心深いに違いないから……。伏魔殿にしては不用心すぎる……。
「まあ、ともかく中に入ろうや」
ミツアキの言葉で、ヤスノリは巡らせていた思いから現実に戻された。
ヒロシが小屋の引き戸に手を掛けて振り返る。
「兄ちゃん、開けてもいい?」
ミツアキが、やれよ、と言うと、ヒロシは戸を懸命に引っぱった。
この引き戸の向こうって、どうなっているんだろう?
後ろで見守っていたヤスノリとマサルも二、三歩前へ出る。
ヒロシの手に引っぱられて戸は動く。
いいぞ、もっと引っぱれ。
ヤスノリは幼い日の遠足を、再び思い出した。
あの時、できなかった続きが、今、目の前でされようとしているんだ、と思うと、胸が少しざわついた。
ついに小屋の戸が開け放たれた。
「やった!」
ヒロシが目を輝かせる。
四人の少年たちは、未知の空間の中に入って行った。
この粗末な小屋には窓がなかった。少年たちは、中が真っ暗にならないように、戸は完全に閉めずに、少しだけ開けておくことにした。ミツアキはリュックを下ろすと、かがみ込み、マッチとロウソクを差が作り出す床の上の光の帯を頼りに火を点けた。作り出す床の上の光の帯を頼りに火を点けた。火の灯されたロウソク立てが順々に回される。まずヤスノリに、次にヒロシに、そし て最後にミツアキ自身がロウソク立てを手にした。
ミツアキが、マサル、お前はヒロシにくっついてろ、と言う。
三つの小さな炎が闇に向かって差し出されると、空間は辛子色に浮かび上がった。一番奥に地下へ下りる階段が見える。少年たちの呼吸による微かな空気の流れで、ロウソクの炎が揺れると、照らし出された空間も揺らぐ。
ヤスノリたちは、闇の中をカンを頼りに階段を下りてみることにした。足元が一足ごとにふわりと下がって行く感じだ。割合と幅の広い階段を、ヤスノリとミツアキが先頭で、すぐ後にヒロシとマサルが続いて下りてゆく。
短い階段が終わると、洞窟の入口が待っていた。入口は普通の家の玄関の戸くらいの大きさだ。ロウソクは燃え続けている。酸素はあるようだ。洞窟は奥へ奥へ下がっていて、ヤスノリたちを誘っているかのようだった。
今まで経験した事のない世界へ踏み込む。ここから先が本当の意味での冒険の始まりだった。
洞窟の入口の前で、少年たちは円陣を組んだ。
三銃士、と叫んで、ヒロシは厳粛な儀式を執り行うかのように、ロウソク立てを剣に見立てて、ゆっくりと慎重に火を消さないように差し出すと、足す一、と言って、左手で横にいたマサルの肩を引き寄せ、ほら、お前もだよ、とロウソク立てを持っていない、戸惑ったままのマサルにささやくように言った。ヤスノリとミツアキも、おう、と笑いながら、左手を腰に当て、右手のロウソク立てを差し出し、三人で、アニメ「剣を交えて三銃士」の中の、「剣を交える」形を取った。「剣を交えて三銃士」は、ミツアキの家で、駐在である父親から見るのを認められていた、数少ないテレビアニメの一つで、ヤスノリも、よくミツアキの家で一緒に見たものだった。
差し出された反動で、微かに揺らぐロウソクの炎の創り出す光と影は、少年たちの神妙な顔つきを浮かび上がらせている。
マサルは闇の中で高く掲げられた三つの炎を黙って見上げていた。
ここで呪文が唱えられた。
はばかりない はばかりない
お月さん いっつも桜色
行者様をしのんでか
呪文を唱え終えると、四人の少年たちは、洞窟への最初の一歩を踏み出した。
ひんやりとした空気を鼻に感じながら、石ころで歩きにくい洞窟の道を下り始める。
「足元に気をつけろよ。これが本当の『一寸先は闇』だ」
ミツアキが緊張を和らげる為に、冗談を言ってみせる。
洞窟の道は、所々で緩く曲がりながら下へ下へと続いていた。
ミツアキが時々二人の弟を振り返る。ヤスノリも振り返ってみる。
ロウソクを持ったヒロシにマサルがぴったりとくっついている。ロウソクは相変わらず燃え続けている。
ヤスノリは立ち止って、服のポケットに忍ばせておいた方位磁石を取り出した。ロウソクの火にかざして見ると、磁石の針は、今度は四人の後ろを指している。
「大丈夫だ。この道、南に下りていってるよ。つまり、岬の先に向かってる、ってわけだ」
ヤスノリが言うと、微かに揺れるロウソクの明かりの中で、他の三人の顔に安心したような表情が浮かぶのだった。
さっき、伏魔殿にしては不用心すぎる、と思ったが、それでもまだ、この闇のどこかに悪人が潜んでいて、こちらを窺っているのではないか、という思いが、微かにヤスノリの頭の中に残っている。
ヤスノリは片手で持ったロウソク立てに気をつけながら、もう片方の手をポケットの中に入れ、持ち塩に触れた。
「兄ちゃん、なんか聞こえない?」
後ろにいたマサルの声がした。
耳を澄ますと、微かにため息のような音が聞こえてきた。やがてため息は途切れ、短い沈黙がほの暗い空間を支配した後、また、聞こえだした。
ヤスノリはポケットの「持ち塩」を握りしめた。
ロウソクの炎が揺らぐと、少年たちの顔にも陰影が揺らぐ。背後に控えた闇に背中がヒヤリとしそうになる。けれど、「持ち塩」を握りしめた手から伝わってくる、胸のすくような浄化の力が、ヤスノリの気持ちを落ち着かせ、冷静にものを考える力を与えた。
ため息が再び途切れた時、ヤスノリはその音の間隔が規則的だったことに気がついた。
「わかった。あれは波の音だよ。洞窟の中だからくぐもって、あんなふうに、ため息みたいに聞こえるんだ。多分、この先のどこかで岩に穴が開き、外の海とつながっている所があるはずだ」
なるほど、という表情が、ロウソクの明かりの中で、他の少年たちの顔にも浮かぶのが見て取れた。
だけど、なぜ、規則正しい音が、水の音だと気がついたんだろう?
ヤスノリは、ふと思った。
「行こう」
四人の少年たちは、しばらく立ち止まっていたが、ミツアキが促すように言って、また先頭を歩き出す。
ロウソクは、闇を押し返すように灯り続けている。目は、もうすっかり闇に慣れて、辛子色のほの暗い空間の中で、ミツアキの白っぽい服が、妙に浮かび上がって見えるのだった。
闇の中で、行く手が段々と白み始め、ため息のように聞こえていた音が、波のそれとはっきりわかるほどになってきた。狭かった道幅もぐんと広がり、石ころで歩きにくかった足元も砂地になりだした。
皆、もう待ち切れなかった。振り向くと、ヒロシが持っていた、残りがもうあとわずかになってしまっているロウソクに、マサルが口を近づけて吹き消そうとしているところだった。
「マサル。吹いちゃだめだ。手で扇いで消せ」
ヤスノリにつられて後ろを振り返ったミツアキが諭すように言う。
ミツアキのやつも、うんとちっちゃい頃、そんなことしてミチおばさんに叱られたんだろうな……。
ヤスノリは自分も同じように、仏壇のロウソクを吹き消そうとして、母に叱られたことがあるのを思い出して、おかしくなった。
兄に言われた通り、マサルはロウソクの火を手で扇いで消した。
とたんに独特の匂いが立ち込める。立ち込めた匂いは、やがて宙に散って行く。
火を消すと、少年たちは誰からともなく、光の方へ駆け出した。
ヤスノリたちが辿って来た道の果てには、波が静かに打ち寄せていた。外からの浸食で太平洋に向かって岩に大きな穴が開き、洞窟の中で浜ができ上がっていたのだ。浜の向こうにぽっかりと開いた穴からは、海と空しか見えず、それらは遥か彼方で水平線を造っていた。
上を見ると、洞窟の天井は高く、がらんとした空間が広がっている。
結局、悪漢なんていなかった……。
ヤスノリは少し拍子抜けした気分だった。
少年たちは浜に腰を下ろした。
「これでもするか」
ミツアキがリュックからトランプを取り出して見せる。
四人の少年たちは、たちまちトランプモードになった。
まずは七並べからだ。何回か七並べで遊ぶと、次はババ抜き。さらに神経衰弱と次々にメニューを変えてゆく。
やがてトランプにも飽きたので、四人は食事にすることにした。
ヤスノリはリュックから梅の果肉が少し入った番茶の水筒と、全員のための紙コップを取り出した。ミツアキもリュックからおかきを取り出した後、大きな手で弟たちに、ヤスノリが注いだ梅番茶の紙コップを渡す。
ミツアキがヤスノリに、おつかれ、まあ、食えよ、とおかきの袋を差し出す。その後、ヒロシとマサルにもおかきを勧めた。ほら、食べなよ、と言うと、ヒロシがさっと手を伸ばしておかきを二つ取り、一つをマサルに渡す。
手にした紙コップの、ほんのりとした梅の風味の番茶が胃に流れ落ちてゆくと、体の細胞も一つ、又、一つとよみがえってくるのだった。
波は浜に寄せては返している。
そういえば、昔、河上先生が、洞窟などで、時計を使わずに、過ぎ去ってゆく時間を計る方法を尋ねたことがあった。
「まず、よく耳を澄ませ、滴り落ちる水などの規則正しい音がないか調べます。音が
見つかったら、その音と音の間隔がどれくらいの秒数なのか、見当をつけます。あとは水が何回滴ったかを数え、それを間隔の秒数に掛ければ、過ぎ去った時間がわかります」
ああ、そうか。洞窟の入口で、ため息のように聞こえていたこの波の音。それを規則正しい水の音だとわかったのは、ハナのこの受け答えを、心のどこかで思い出していたからなんだ。でも、やっぱり、ハナって頭いいな。神戸へ行ったんじゃなきゃ、この冒険に誘ってもよかったくらいだ……。
この浜へ来る途中、最初は、ため息のように聞こえていた波の音。それが今では、まるで生命(いのち)の息づかいのようにヤスノリには聞こえるのだった。
洞窟の中で、波は変わることなく、規則正しく寄せては返している。静謐な時空の中で、生命の息吹のようなその音は、未来へと時を刻んでゆく。
私たちヒトは、生まれる時には、まず母親のおなか、つまり生命を育む子宮と呼ばれるものの中で、羊水という液体に守られながら、大きくなってゆきますが、実はこの羊水と言うのは、ほとんど海の水と同じ成分なのです。このことも、私たちを含め、生命が海から生まれてきたことと何か関係があるのかもしれませんね。
いつか河上先生が話してくれたことを、ヤスノリは思い出した。
僕が生まれて来た時もこんなふうだったのかな。洞窟のようなお母さんのおなかの中で、海のような羊水に包まれながら大きくなっていったのかな。
ヤスノリが思いを巡らせていると、突然、ヒロシの声がした。
「何だ、これ?」
見ると手に乳児用の枕ほどの大きさの木の箱を持って立っている。
「お前、これ、どこで見つけたんだ?」
「あそこだよ。あの行者様の後ろ」
立ち上がりながら聞いたミツアキに、ヒロシは洞窟の岩壁の下の方の小さな行者の石像を指差す。
ヒロシが手にしている木の箱のふたには、何かが彫刻されているようだったが、よく見るとそれはここ行者岬の風景だった。
ヤスノリの脳裏に、いつかのおばの言葉がよみがえってくる。
「ふたには行者岬を望む風景が彫刻されていたわね……」
「おい、これって父さんが子供の頃、図工で作ったオルゴールだぜ、きっと。いつかミチおばさんが言ってた……」
そう言ったヤスノリにミツアキが答えた。
「開けてみようか」
ヒロシからニスを塗った蜂蜜色の木の箱を受け取ると、ヤスノリはふたを開けてみた。思った通り、中には古ぼけた小さなオルゴールの機械が取り付けられているのが見えたが、音は鳴らなかった。
ゼンマイを巻いてみるか。
箱の横のゼンマイを巻いてみようとしたが、既に巻かれた状態で動かず、オルゴールが壊れてしまっていることを物語っていた。
ふたを開けられたオルゴールの中には、古い一葉の小さな写真と、色あせしていない紙が一枚折られて入れられていた。紙は、海からの光でほのかに明るい洞窟の中で、奇妙な白さを放っている。
「これ、ツギノお祖母ちゃんじゃないか」
古ぼけた写真には、まだ二十歳代くらいの、けれど、どこか古風な感じの祖母ツギノが写っていた。初めて見る、家のアルバムには無い、若き日の祖母の写真を手にした時、ヤスノリはまるで本当に生きている祖母の体に触れたように感じるのだった。
写真をミツアキに渡し、折られた紙を取り出してみる。紙を広げると、何か文のようなものが書かれていた。鉛筆書きの、長めの文だった。ヤスノリは、岩壁のとある窪みにオルゴールを置くと、海からの光を頼りに声に出して読んでみた。
「ついにやった。ゆうべ、俺は夜の海を泳ぎ切ったんだ。泳いでいる時、月の光を浴びてまるで銀の魚になったみたいだった」
ここでひとまず区切り、他の三人の反応を見る。皆、真顔だ。ヤスノリは続けた。
「トシコも極楽浜で待っていてくれた。次に会ったら必ず言おう。つき合ってくれ、と。今まで言えなかったけれど。
今日、天狐森神社の神主さんと父さんが俺をここまで連れて来てくれた。神主さんの話では、この岩屋の入口は安全の為、二、三日後にはもう、本土から業者を呼んで、小屋を建ててふさぐのだという。小屋が出来たら、村の衆には戸には鍵を掛けたと伝えるが、実際には鍵など掛けないでおくことにする、という。誰かが、この岩屋に宿る行者の魂に、会いに来るのを止める権利は無いからだそうだ。
月夜の遠泳は、俺にとって冒険だった。そして遂にやった。泳ぎ切ったんだ。成し遂げた者にしかわからない達成感を、俺は今、ここに刻印しておく。海が好きだった母さんの写真も、母さんが好きだった『庭の千草』の鳴るこのオルゴールの中にし
まっておく。もし、開かないと思われているはずの扉を開けてみようとする、そんな冒険心を持った奴がいて、ここまで辿り着いたのなら、この手紙を読まれても構わない」
「夜の海を泳ぎ切った」、「銀の魚」、それからヤスノリの母親の名前である「トシコ」。これらの文中の言葉と、オルゴールに入っていた、父の母親であり、ヤスノリの祖母であるツギノの写真は、この置手紙の主をはっきりと語っていた。
「父さんだ」
「ユーイチおじさんだよな」
ヤスノリとミツアキは顔を見合わせながら言った。
必ず言おう、つき合ってくれ、って、案外慎重なところのある父さんにしては、大変な度胸だ。
ヤスノリはそう思いながら、父親が書いた手紙と、ミツアキから順に手渡されて行き、最後に渡ったマサルから受け取った、祖母ツギノの写真を岩壁の窪みのオルゴールの中に戻した。
「なあ、偶然とはいえ、父さんの本当の気持ちって、知ってはいけなかったんじゃなかったのかな。ここまで辿り着いた奴にはこの手紙を読まれても構わない、って書いあったけど、やっぱり知らなかった方が良かったんじゃないのかな、こういうことって。だったら、このことは僕らだけの秘密にしておこうな」
他の三人もうなずく。
「だけど、やっぱり変だよな、『銀の魚になったようだ』、って」
ヤスノリは微かに苦々しさを覚えながら言った。
「まあ、夜の海は、昼間見るのとは違って独特だからな。そんな海を月に照らされながら泳いで行けば、きっと……」
ヤスノリはミツアキの言葉が偶然にも、去年のプール開きの時、カーチーが河上先生に言ったことと重なったのに、はっとなった。
あのね、夜の海って独特よ。見つめていると引き込まれそうになるわよ。不気味なの。
そういえば、いつか夏の夜、村の外れの灌頂ヶ浜で両親と一緒に花火をしたことがあったが、その時の闇の中で浜に打ち寄せる波の白い輪かくと、さざめく音の強さを思い出した。
「ああ、そうか。あの遠泳って、お祖母ちゃんが亡くなった後のことだったみたいだし、そんな中で夜の海を泳いで行くのって、それだけでも勇気が要ったんだろうな、きっと」
そう言った後、ヤスノリはしばらく無言のままだったが、やがて決意したように、静かに語り始めた。
「僕さ、今までずっと思ってたんだけど、こんな『魚になった』、だなんてことが平気で言える父さんって、過去の栄光にばっかりしがみついてる気がして、好きになれないんだ。何で、もっと前を見ないのか、って思うよ……」
言ってしまった……。
今まで言わずにおこうと、心の奥深くに留めておいた言葉の最後の切れ端が、まるで寝言を叫んで起きた時のように口から離れていった。
「なんだ、そんなことか」
ミツアキが拍子抜けしたように答える。
「そんなの、誰だって、いつもいつもベストコンディションでいられるわけないだろ? スランプの時だってあるさ。俺だって調子の悪い時はある。そんな時は、昔、自分がベストだった時のことを思い浮かべてみるんだ。俺の場合は、運動会の徒競走で一等を決めた時だけどな……。そしたらそのうち、また調子が戻ってくる。おじさんだって、たぶん、そうしてるだけなんじゃないのか?」
ミツアキの言葉にヤスノリは、はっとなった。
そう言われてみれば、そうかもしれない……。
「それにさ、俺も、うちの親父のこと好きになれない時なんて、いくらでもあるぜ」
ヤスノリは返ってきた意外な言葉に驚いてミツアキを見た。
ミツアキ親子って、言葉がいらないくらい仲がいいと思ってたのに……。
「そんな親父のこと好きになれない時は、俺、これも風景の一部なんだ、と思うことにしてる」
ミツアキの言葉に、そうか、そうかもな、と急に気持ちが軽くなって行くような気がした。
よく考えてみれば、ミツアキの家は、島でもテレビのある数少ない家の一つだったが、親が先に見る番組を決めてしまい、ミツアキたちには、見たい番組を選ぶ権利は無かったのだった。
こいつも父親に対して悩むことがあったんだ……。
ヤスノリは妙に納得して気が楽になった。気が楽になると、あの月夜の遠泳をやり遂げた後、どうして父が「魚になったみたいだ」と言った理由が、なんだかわかったような気がした。
「なあ、ミツアキ。『魚』ってさ、元々は制限の無い水の中を自由に泳いでいるから、自分で勝手に決めてしまった制限、つまり限界も超えて行けるんだよな?」
ヤスノリが言うと、ミツアキは笑った。ヤスノリもつられて笑った。
ヒロシとマサルは何がおかしいのかわからないままでいたが、ミツアキは二人の弟の肩に手を置き、お前たちもいつかわかるさ、と言うのだった。
ミツアキは、ちょっと待ってくれ、と言って、リュックから今朝、一番最後に詰めた古新聞を取り出した。
「何だよ、それ」
「母さんの般若心経の写経だ。もう九百枚を超えててさ。目標の千枚が近づいて来たんで、一枚失敬したんだ」
そういえば去年だったな。おばさんが写経を始めたのって。もうそんなに書いたの
か……。
「いつまでも若々しくいたい、っていう願いが行者に届くように、天狐森神社のどこかに納めておこう、と思って持って来たんだ。しわにならないように新聞にはさんでな。でも、ちょうどよかった。このオルゴールの中に入れておこう」
ヤスノリは、おいおい、ここは一応、神社の境内だろう? 般若心経は仏教のものだから寺に納めるべきだ、と言おうとして止めた。せっかくのミツアキの思い出作りを、つまらない講釈で白けさせてしまうことはない、と思い直したからだ。
ミツアキは古新聞を広げて、おばの写経した半紙を取り出した。取り出された半紙は、洞窟の中でくっきりと白かった。ミツアキは写経した半紙を折ると、窪みに置かれたオルゴールを取り、中に納めた。
「般若心経ってさ、あれだろ? 終わりになると、いつも『ギャーテイ ギャーテイ』とか言い出すやつだろ? うちも毎朝、母さんが仏壇に向かって言ってるけど、あの『ギャーテイ』って何だ? 何かに効くのか?」
「知るか」
ヤスノリの問いかけにミツアキは笑いながら答える。
「でもこれ、ゾッピが知ってなくてよかったよな。あいつだったらさ、絶対、例のお告げの演出に使うぜ、きっと……。『ギャーテイ ギャーテイ ハラヘル サイテイ』とか言ってさ」
「言えてる」
ヤスノリは吹き出しそうになるのをこらえながら、人差し指を振ってミツアキの冗談に相槌を打つのだった。
ゾッピのやつ、中学校に入っても、あの「お告げ」をやるつもりなんだろうか。「神通力ーっ」とか言って……。
そう思いながらヤスノリは、ぽつりと言った。
「お告げの神様か……」
「ゾッピにいつも、まちがいばかり教えてた……」
ヤスノリの言にミツアキが当意即妙に返し、二人のいとこは笑い合った。
ミツアキは古新聞をたたみなおそうとして、もう一度広げたが、その時、新聞の間から、何か白いものがひらりと足元の砂浜の上に舞い落ちた。
何だ、これ?
ヤスノリが拾い上げたのは、一通の年賀状だった。
「謹賀新年 あけまして おめでとうございます」と決まり文句が大きく書かれていて、その左の隅には、「何事にも前向きなあなたを見ていると、生きているという気がします」、と添えられている。賀状を裏返してみると、中央に、「寺野光秋 様」と書かれ、差出人は「増田ハナ」、となっていた。ヤスノリにはハナからの年賀状は来ていなかった。
「あっ」
ふいに戯れてきたヒロシに気を取られていたミツアキは我に返ると、ヤスノリの手から年賀状を奪い返した。
無言となった空間には、波の音だけが響いていた。
しばらく続いた沈黙を最初に破ったのはミツアキだった。
「俺さ、正月にハナから年賀状をもらったんだ……。今までずっとお守り代わりにしてて、今日もこの冒険のために持って来たんだ」
ヤスノリが黙り込んだままなので、ミツアキは、ハナから賀状をもらったのは自分だけだ、と悟った様子だった。
「すまん、ヤスノリ……」
そういうことか。そう言えば、ハナは以前からミツアキを見ていたような気がする……。
「で、ハナとはこれだけだったのか?」
やっとの思いでヤスノリは言った。
「これだけって?」
「年賀状が来ただけなのか?」
「ああ」
「ほかに、ハナの神戸の住所とか、新しい電話番号とかは聞かなかったのか?」
「いや、知らない。本当にこれだけ。年賀状をもらっただけなんだ」
でもミツアキはハナに受け入れられたんだよな……。
ヤスノリは、胸の内で取りとめもなく散らばって行きそうな気持を懸命に抑えた。
そうか、そういうことか。つまり、ハナは僕よりもミツアキを選んだ、ということ
なんだよな……。
それからヤスノリは、ふと、あることに気がついた。
そういえば、修学旅行の帰りの船で、こいつ、ハナが神戸に行ってしまうかも
しれない、って言ったな。あの時は、まともに受け止めなかったけど、ハナはミツアキにだけ、やがて別れになってしまうことを告げていたんだ……。でも、いつ、どうやって告げたんだろう? 電話を使ったのなら、周りにいた誰かに知られてしまうはずだ。何しろミツアキはいつも二人の弟と一緒だからな。それにこの島じゃあ、子供同士の会話で電話を使うのは、どの家でも禁止になっている。じゃあ、どうやってハナと二人っきりになったんだ? この島は狭い。逢引きなんかしてたら、すぐ見つかって、うわさになってしまう。こいつら、いつ逢引きしてたんだ……?
ヤスノリは思いを巡らせているうちに、はっとなった。
そうか、夏休みの宿泊訓練で学校に泊まった時だ。あの翌朝、目が覚めると、隣のミツアキがいなくなってて、やがて戻って来たことがあったな。あの時だ。あの時に、きっとハナも一緒だったんだ。それ以外に二人きりになるチャンスなんてない……。
さらに追い打ちをかけるように、ヒロシがこう言うのが聞こえた。
「そう言えば、兄ちゃんとハナちゃんだけだったよな、卒業メッセージで『てんてんてん』使ってたの。あれって、なんかあやしくない?」
ヤスノリは、はっとなった。
そうだ、三点リーダーは文の省略を表す時にも使うんだった。
ヤスノリは、二人の卒業メッセージの中の三点リーダーの、略された言葉を懸命に頭の中で補ってみた。
すると、それらは見事に呼応した。
今までいてくれてありがとう……(ハナ)。
時の流れの滸で、思い出という小道で……(あなたを思っています)。
そうだ。ヒロシの言う通り、こいつらだけ、あの文集で三点リーダーを使っていたけど、あれは余ったマス目をつぶすためでも、余韻を持たすためでもない。大切な思いを込めた言葉、言えそうで言えない言葉を略したものだったんだ……。これからは離れ離れになってしまうから、今まで言えなかった気持ちを、二人だけの暗号のようにして卒業アルバムに残そうとしたんだ、こいつら……。たとえ、もう二度と会えなくなってしまっても、アルバムさえ持っていれば、今の、この十二の時の思いを、いつでもよみがえらせることができるから……。
ヤスノリの頭の中で、今まで気にも留めなかった事柄が突然、次々と意味を帯び始めた。
だが、不思議と嫉妬心は起きなかった。
僕の知らないところで二人は相思相愛だったんだろうけど、こっちも、ミツアキの知らないところでアクアマリンの瞳に、心が揺らいでいたんだから、まあ、あいこ、ってとこかな。
S町のコンビニでの出来事を思い出しながら、ヤスノリは、お守り代わりに持って来ていた「持ち塩」をポケットから取り出し、半紙を開いた。
「何だ、それ。その白い粉みたいなの……。麻薬かよ?」
ミツアキが、場の重苦しさを打ち破ろうと、ふざけて言う。
ばか、と島の駐在の息子に笑ってヤスノリは続けた。
「塩だよ、この水床島の海の水で作った……」
何か守ってもらえたな、と思えたら、古くなった塩は、土に撒いたり、海や川に撒いたりして、もとの自然に帰してあげるの。
母の言葉がよみがえってくる。
ヤスノリは、てのひらに載せた、「水床島の塩」を、ほら、里帰りだ、と言って、洞窟の中で静かに寄せては返す波に撒いた。
今まで、ヤスノリを守ってここまで導く役目を無事に終えた、水床島の海の水で作られた塩は、持ち主の手をはなれ、生まれ故郷の、もとの自然へ帰って行った。
ミツアキは何も言わずに、薄く平べったい石を拾うと、上半身を低くし、手が海面と同じ高さになるくらいのアンダースローで投げた。放たれた石は、大きく開いた洞窟の穴の外の太平洋に向かって、何段も海面を切りながら飛んで行った。
ヤスノリやヒロシやマサルも解き放たれたように、石を拾っては海に投げる。ヤスノリも投げたがミツアキほど上手くは飛ばなかった。ヒロシとマサルは波が寄せてくる時に投げたのでうまく水切りができなかった。
「もっとよく見ろ。波が引き終わる直前を狙うんだ」
ミツアキが笑いながら弟たちにコツを教える。
やがて水切りに必要な薄く平べったい石は見当たらなくなってしまい、後はまた沈黙の時が流れた。
最初に沈黙を破ったのはミツアキだった。
「いいことを思いついた」
と言うと、ヒロシとマサルが飲み干した後、砂の上に逆さに伏せておいた二つの紙コップをさっと取って重ねると、リュックから予備に持って来た、少し長めのロウソクを取り出して、火を点けた。
コップの底にロウを垂らして、固まらない内にロウソクをくっつけ、その上から砂を少し詰める。
「何を作るの?」
「流し灯籠さ。これを海に浮かべようと思ってな……」
「へえ、すごいや。でも底に砂を詰めるわけは?」
「こうしないと水の上ではすぐ傾くからね。砂は重しだよ」
ミツアキは流し灯籠を、静かに寄せる波に浮かべた。
墨汁のように滑らかな水の上に揺らぐロウソクの炎。
まるでビワの実みたいだ、うんと小さい……。
波は向こうへ大きく引くことはなかったので、流し灯籠は、少し進んでは何度も浜に戻されそうになり、その度に、行け、行くんだ、と口々に少年たちは叫んでいた。
とうとうミツアキが靴を脱いで、ズボンの裾をまくり上げると、浅い海に入った。灯籠を大きな手でつかみ、膝まで水に浸かりながら洞窟の外まで持って行く。ミツアキが水音を立てて速く歩いたので、灯籠の火は消えそうになった。今度はゆっくり歩きながら、もう片方の手でロウソクの火をそっと囲む。
流し灯籠は外の海に浮かべられて、少しずつ左の方へ動き出した。灯籠は流れに
乗ったのだ。
「行け。海のずっと向こうまで」
ミツアキが叫ぶ。
流し灯籠はそのまま東に進み、洞窟の陰に隠れそうになった。灯籠の後を追うように浜に残っていたヤスノリたちも靴を脱ぎ、ズボンをまくり上げると、海に入り、ミツアキと並んだ。亜熱帯性気候に近いこの島は、真冬でも海水温は十六度を下回らず、春の海の水は立ち込んだ足の肌に柔らかかった。
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