第16話 望み
玄関を出たところで、背に声をかけられた。
咄嗟に身構えるプリシラを手で制して、歩みは止めずに応える。
「アドニスさん。お世話になりました。……止まってしまうと、歩き出せなくなってしまいそうですの。歩きながらでいいかしら」
初老の使用人であるアドニスさんは、見なくともわかる背筋をしゃんと伸ばした姿勢でついてくる。年齢を感じさせない確固たる足音と低く落ち着いた声が夜闇に響く。
「あの方は」
セルジュ様の使用人として公私に渡る完璧な働きをしていた方だ。余計な話などをしない寡黙な方で、だからこそ、これは必要な会話なのだとわかった。
「お父上を陰謀で失っております」
「……ええ、知っています」
山道を行く馬車の事故だったという。少なくとも対外的にはそう発表された。彼から直接は聞いていないが、噂はいくらでも転がっている。
アンディール家の仕業では、おそらく、ない。
「だからこそ、不思議でした」
「だからこそ、でございましょうな。ある時、私めにこうこぼされました。『少なくとも、一人。俺と同じく、立ち向かおうとしている人がいる』、と」
嗚呼、それは。
胸の奥が苦しく、歩く足が萎えそうになる。彼に認めてもらえていた、かもしれない。ただそれだけで胸が焦がれる。鼻の奥がつんと苦く、数秒の間目を閉じなければならなかった。
「僭越ながら、貴女様をお迎えしてからの旦那様は、幸福であったろうと存じます」
「ふ、ふ。本当に僭越ですわね」
使用人が主人の幸福を推し量り、あまつさえ人に伝えるなどと。妬心が疼く。完璧な執事であるアドニスさんがそのような無礼を働くのは、ひとえにセルジュ様のためだ。
――私の方が彼を想っているのに。
そんな無様な内心を飲み込んで、言葉の続きを待つ。意識して右左と足を動かさなければならなかった。
戻ってほしいと言われたら、頷いてしまいかねない。私はどこまでも弱いから。
「ですので、どうか。……後悔なさらぬ選択を」
「……え?」
「貴女が後悔なさっていると、我が主人は何をするかわかりませんので」
……。…………。
一理ある。いや、理しかない。
「それだけを伝えに参りました。どうか、ご無礼をお許しくださいーー奥様」
「……許しますわ。ありがとうございます、アドニスさん。大変、お世話になりました」
足を止めて振り向く。
夜闇に、アドニスさんはすでに完璧な仕草でお辞儀していた。顔は見えず、頭を下げてなお凛とした姿勢が、こう問うている――『お前は、この忠誠を受けるのに相応しい人間か?』。
プリシラと共に礼を送り、別れた。
「後悔しない選択……」
見上げれば半分より少し欠けた巡月が美しい。
歴史と知恵を司る巡月の女神に問いかける。私は何を後悔しているのだろう。
セルジュ様を助けられなかったことか。
アンディール家の暗殺を止められないことか。
セルジュ様の愛に応えられなかったことか。
アンディール家に生まれてしまったことか。
――違う。
アドニスさんの仕草を思い浮かべて、私はようやく気がついた。
私ができなかったこと。私がこれからすべきこと。後悔のない選択。
それは――
「正しい結果を。……私は、セルジュ様の正しさが報われてほしい」
女としてセルジュ様の愛に身を委ねる。
暗殺者としてアンディール家の闇に身を沈める。
どちらも、きっと後悔する。
ならばせめて正しい結果を。
セルジュ様が正義をなすように。アドニスさんが執事として完璧であるように。私にできることを、胸を張って為そう。
「プリシラ。実家に触れを。あれの準備を、と」
「はい、ディーネ様」
プリシラが闇に溶けるように消える。その顔がどこか、仕方ないなぁ、と言いたげな微笑みだったのは……全く、アドニスさんを見習ってほしい。
▼
「本気かい、馬鹿孫」
「全くの本気ですわ、お祖母様」
「……どうなるか、わかっているんだろうね」
「もちろんです。セルジュ様は私が何を為そうとも、必ず正しい結果を得るでしょう。それがわずかでも早まるなら、本望です」
「…………私は、あんたをあんたの母親から預かってる身だ。だから言っておく。やめときな」
「お祖母様には感謝しておりますわ。ですが、私はもう家を出ましたの。お母様も、お祖母様も、二百年続く
「ふん……好きにしな。あれは餞別だ、くれてやる。二度と顔を見せるんじゃないよ」
「ええ、そうなるでしょう。ごきげんよう、お祖母様」
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