第15話 帰りを待って
「宵闇の静けしを守護し給う新月の女神よ。どうか、どうか……セルジュ様をお守りください……」
月の三女神の聖印を手に、薄暗い部屋の片隅で祈る。
喚問の当日、セルジュ様は朝早く訪れた使者とともに王宮へ向かった。儀礼上のこととはいえ、剣を携えた騎士が迎えに来ると物々しい。
『心配しないでほしい。事実を話してくるだけだ』
セルジュ様は珍しく小さく微笑んで、アドニスさんを伴って馬車へ乗り込んだ。その声が頼もしくて、だからこそ、祈るほかにできることのない我が身が情けなかった。
窓から差し込む夕日は少しずつ傾きを増して、もうすぐ日が沈むことを伝えてくる。その時間になっても、セルジュ様はまだ帰ってこない。
あれから調べを進めた結果、どうやらこの陰謀にはマイノー家が深く関わっているようだった。正確には、マイノー家の次男アンソニと、彼を通して我が国に密かに根を伸ばす他国の諜報員たちだ。マイノー家に『協力』するという名目で、諜報網を広げているのだろう。
マイノー家の当主、勇猛伯ジークフリートの愛国心は本物であるが、次男アンソニの暗殺未遂という事件で燃える猜疑心に付け込まれている。
――
「……ディーネ様。ご夕食はいかがなさいますか」
「まだ、いいわ。セルジュ様が戻ってから、一緒にいただきます」
「かしこまりました。では、お茶だけでも」
「……ありがとう」
気を使わせてしまったようだった。居間に移動してソファに座る。祈りの姿勢で固まった身体がばきばきと音を立てるような感触。聖印を握り締めたまま、プリシラが淹れてくれたお茶を含む。
ほんのわずかに甘さを感じる上品な香りと、暖かさ。
はふ、と吐息が漏れた。
その瞬間、燃え上がるような情けなさと恥ずかしさに襲われる。
「…………私の、せいなのに」
セルジュ様があらぬ疑いを掛けられている原因は、私だ。
暗殺を中途半端に止めたから。
婚姻を断らなかったから。
噂を否定できなかったから。
なのに、一人で疲れたふりをしている。貴族としても暗殺者としても未熟な半端もの。
その時、馬車の音がした。
「!」
カップを置いて立ち上がり玄関へ向かう。スカートを持ち上げて階段を駆け下り、1階につくのとアドニスさんが扉を開くのが同時だった。
夕闇から明かりの下へ入ってくるセルジュ様は、朝と変わらず背筋を伸ばした立ち姿。ただ、視線が合った瞬間に少しだけ吐息がこぼれた。
「セルジュ様!」
「今戻った、遅くなって申し訳ない」
「いいえ……お疲れ様でした。夕食になさいますか? プリシラが用意してくれています」
「ありがとう」
こんな時でも疲れた様子を見せない精神力に感じ入るとともに、どうしようもなく普段との違いを理解してしまう。
私はここでも中途半端だ。
良き妻であれば、こんな時こそ彼の支えとなって、疲れを癒すのだろう。
良き相棒であれば、彼の仕事の助けとなって、潔白を証明する手伝いができただろう。
疲れた時、セルジュ様が何を求めるかもわからない、なんて――
せめてセルジュ様を心配させないよう、内心の情けなさは笑顔に隠す。無事に戻って嬉しいのは事実だ。流石に少々言葉少なな彼と夕食を共にし、ソファに移って食後のお茶をいただく。
さりげなく酒など勧めてみたが、家では呑まないと決めているという。
「心配をかけたようだ。すまない、ディーネ」
隠し切れるとは思っていなかったが、私の心の動きはすっかりバレていたようだ。こくりと頷いて見せる。
「謝らないでくださいませ。……もちろん、心配はしてしまいますけれど。それは貴方ではなく、……わ、私に責がありますわ」
「それは違う。貴女に責任はない、決して」
隣り合って座る膝の上で、そっと手を伸ばす。私から触れるのは珍しいことだ。指が触れる寸前に緊張を自覚する。穢れたこの指を拒否されたらどうしよう、という思いを飲み込んで、できる限り丁寧な仕草で手を重ねた。
セルジュ様は、逃げることも払うこともなく受け入れてくれた。筋張った手の甲から、しなやかで長い指へと触れていき、そっと絡める。
ふ、と小さな吐息の声。
思わずセルジュ様を見てしまった。
「少々、くすぐったかった」
「し、失礼しました」
「貴女になら心地よいものだ」
「……んんっ。……貴方が心地よいと思ってくださるなら、私、何でもいたしますわ」
セルジュ様の怜悧な顔立ちと、鋭く知的な瞳。普段隙を見せない方だから、その表情から力が抜けるとギャップを深く感じてしまう。男性的な色香すらある。危険だ。
そして、もちろん。セルジュ様の疲れを癒せるならば、本当に何でもするつもりだった。
「有り難いことだが、ディーネ」
「はい」
「何でもする、などと言ってはいけない。俺の理性にも限度がある」
「……肝に銘じますわ」
普段の距離感でも、あれでまだ理性を働かせてくれていたらしい。背筋がぞくりとした。
絡めた指を少し強く握る。セルジュ様の逆の手が伸びてきて、私の手の甲を覆うように触れた。自然と身が寄り添う。
鋭い刃のような言と、私に対してはどこまでも甘い睦言を紡いでくださる、セルジュ様の唇。今日一日、王宮でもきっと正しいことのみを告げてきたそれを、求めた。
「…………ん」
漏れた吐息はどちらのものだったか。
微笑んで、囁く。
「セルジュ様。……私、実家に帰らせていただきます」
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