第9話 判断が早すぎる
「彼女が?」
「はい。確実に、『耳』です」
事前に取り決めた合図だ。『耳』を見つけたら、視線を向けた瞬間に指で伝える。タイミングが難しい方法だと思っていたのだが、存外に順調に伝えることができていた。それだけセルジュ様が私のことをよく見てくれているということで……業務上必要だからだろう。きっと。絶対。
ともあれ、アンディール家の娘として、『耳』――情報を集める役目を与えられた者――を見逃すほど間抜けではない。
「書類を『読んで』いました。足音がわざとらしい。私から咄嗟に視線を逸らしたのは訓練不足ですわ」
「彼女は確か、男爵家の次女だったはずだ。そのようなところにも?」
「アンディール家に喜んで協力する貴族は少なくないのですよ。表立って誇ることはないにしろ」
――そもそも『男爵家の次女』が本当に存在するかどうかも怪しいものですけれど。
実家の悪行を殊更に吹聴するのも憚られて、そこまでは言わなかったが。きっとセルジュ様は理解しているだろう。
なるほど、と頷いたセルジュ様は何事か考え込んでいる様子だ。それでも歩みは淀みない。
局長室へ向かう途中で、騒ぎは起きた。
「おい、大人しくしろ!」
「取り押さえろ、逃すな!」
廊下の向こうで剣呑な声が上がる。連行されてきたらしい男が暴れているのが見えた。筋骨隆々の大男だ。腕や首に縄を絡ませながら、人を振り回している。
「ディーネ、下がっていてくれ」
「私もお手伝いを……」
「危険だ。絶対に近付かないように」
静かだが断固とした声で囁くと、その唇を頬に当ててから、セルジュ様は駆け出した。今の接吻は必要だったかわからないが、少なくとも私の初動は大きく遅れた。余計なことをしないように、という意味であれば全く効果的だ。
男の膂力は大したものだが、周囲には優秀な法執行官たち。多勢に無勢というものだ。程なく鎮圧されるだろう。私の細腕では手伝いにもなるまい。
暴力から離れる人々の邪魔にならないように壁に寄り、視線を巡らせる。
一瞬、悩む。
天秤宮はいわば敵地。今の私はアンディール家の娘ではなくセルジュ様の
「……などと。言っていられませんね」
視線の先では、セルジュ様たちが暴れた男を取り押さえている。真剣な表情、迷いのない動きは、そうすべきだからした、という確信に満ちている。
彼の隣に立ちたいのなら、悩んでいる暇はなかった。
「もし」
数歩踏み出して、書類を抱えて避難する男性に声をかける。まだ若い青年で、騎士ではなさそうな体つき。怪訝そうにこちらを見る表情が、一瞬だけ強張る。
互いに忙しい身だ。単刀直入に行こう。
「書類で鍵を隠して、どちらに運びますの?」
「……貴様ッ」
怒りと恐怖を含んだ声は、騒然とした廊下で私にだけ届く。微笑んで見せた。
「置いて去るなら、私の胸の内に秘めておきますわ」
男は何も言わずに身を翻し、逃げ惑う人と遠巻きに見守る人の間に紛れようとする。判断は少し遅かったが、身のこなしは中々だ。
追おうとした一歩は出なかった。私の目の前をセルジュ様が駆け抜けて、逃げた男を瞬く間に取り押さえたからだ。
「ディーネ! 怪我はないか」
「は、はい。セルジュ様こそ……」
迷いも容赦も全くない動きで男の背を押さえつけ、第一声がそれだった。気恥ずかしい心地を落ち着かせながら駆け寄る。廊下はさらに騒然とする。
拘束されてもがく男の手元、散らばった書類の中からセルジュ様が鍵束を拾い上げる。
「鍵をどこに持ち出すつもりだったか、聞かせてもらおう」
数秒遅れて事態を理解した周囲の人たちが拘束に加わり、暴れた男と共に連行されていく。
背広の埃を払うセルジュ様に歩み寄り、僭越ながら襟を整えるお手伝いをさせてもらった。
「お疲れ様でございました。お怪我はありませんか?」
「ありがとう、問題ない。よく気付いてくれた」
「いえ、偶然ですわ」
「差し支えなければ、何故気付いたか教えてもらえないか。参考にしたい」
偶然と言ってるのに。
とはいえ、セルジュ様に対しては今更隠すような理由はない。
「暴れた方を縛っていた縄。切った跡が見えましたわ。誰かが騒ぎを起こそうとしたのだろうと思いまして。職員ではない方が入り込んでいたので声をかけましたの」
「……貴女は天秤宮の人間の顔を全て覚えているのか?」
「はい。セルジュ様のご同僚の方ですもの」
もちろん、まともな諜報員なら職員として入り込んでいるから、今回の件は偶然役に立ったという程度だ。
「ありがとう、ディーネ。貴女のおかげだ」
「恐れ多いですわ」
「ただ……」
ぐいと抱き寄せられる。
「せ、セルジュ、さま!?」
「危険なことはしないでほしいと伝えたはずだ。貴女が傷つけられるようなことは耐え難い」
「……申し訳、ありません」
遠巻きに注がれる視線が痛い。きゃあ、と小さく黄色い声が上がるのが恥ずかしい。うう。私も見物する立場なら楽しんでいただろう自覚があるだけに尚更。
さりげなく胸を押して離れようとするが、抱く腕の力が強くなる。
「あ、あの! セルジュ様こそ、何も聞かずに動いてくださいましたね。な、何故、ですの?」
感情の矛先を逸らそうと問いかける。これは失敗だった。
「貴女が『何かある』と判断したなら、俺に疑う余地はない。だからこそ、まずは頼ってほしい」
「……ひゃい……」
嬉しい。嬉しいのだけれど。そうまで言われると若干の恐怖というか、申し訳なさというか、今まで覚えたことのない感情が芽生えてしまう。
「とにかく、危険なことは避けてほしい。俺が共にいる時は、必ずお守りするが」
そう結論して腕を解いてくださる頃には、廊下の騒ぎはすっかり片付けられていたのだった。
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