第8話 抱擁が長すぎる
婚姻を結んで数日。
私はかろうじて生き延びていた。心臓はまだ破裂していない。
「セルジュ様、お帰りなさいませ」
こうして天秤宮のお仕事から戻ったセルジュ様を出迎える時も、緊張のあまりこわばった笑顔ではなく、自然な表情で出迎えることができるようになった。
「今戻った。問題はなかっただろうか?」
セルジュ様は自宅に戻ると必ず、まずこう尋ねてくれる。尋ねながら自然に身を寄せ、自然に腰に手を回して私を抱き寄せ、自然に口付けを求める。問題といえばこの一連の流れであった。
最初の日の見送りの後、プリシラとアドニスさんを問い詰めて『一般的な夫婦』の『挨拶としての接吻』がどのようなものかは概ね把握した。セルジュ様のこれは、そう、言うなれば……上限ぎりぎりだ。
「……ん。……おかげさまで、恙なく過ごせましたわ」
「何よりだ。待たせてしまって申し訳ない」
「いいえ、貴方を待つ時間も楽しいものです」
「光栄だ」
「………………」
「足りないものはないだろうか。商人を手配することもできるから、遠慮はしないでほしい」
「あ、ありがとうございます。あの、セルジュ様。……そろそろ離してくださいませ」
彼は頷いて腕の力を緩める。半歩下がって距離を空け、ようやく腕の中から逃れた。高鳴る鼓動を抑えようと胸に手を当てて、微笑む。
そう、大問題だ。
最初の緊張と罪悪感がほんのわずかに薄れ、今の私は幸福から逃げられなくなっている。与えられる幸せに沈んでいくのが止められない。
忘れるな。私は
「諸々の準備が整った。差し支えなければ、明日天秤宮に来てもらいたいのだが、どうだろうか」
夕食を終え、食後のお茶をいただいている最中にセルジュ様が切り出す。
こちらも準備は終えていた。幸福という名の沼から這い出る心地で、良い香りの紅茶をゆっくりと飲み落として、頷く。
「よろしくお願いいたします」
▼
『王を支える者たちの砦』、通称新王宮は、王宮から通りを三本降りたところにある。元々はさる大貴族の邸宅があった土地だ。この大貴族は王をも凌ぐ権勢であったが、二代前の当主が突然の病死を迎えてからは没落しており、今は小さな領地を与えられて細々と暮らしているという。
新王宮には食料を司る双魚宮、職人や技術の問題に対応する天蠍宮などが本拠を置いている。天秤宮は新たに建てられた棟にあり、木立のような庭園の奥へと、セルジュ様に連れられて向かった。
「こちらだ。一通りの部署を見て回ってから、局長に紹介したい」
「かしこまりました。ところで、あの……ええと……」
「どうかしたか、ディーネ?」
「お仕事をなさっている場所なのですよね……? 本当にこの距離で合っていますか……?」
彼の片腕に抱き寄せられ、寄り添っている姿勢だ。新王宮の敷地前で馬車を降り、庭園を歩いているところからずっとこの距離である。つい伺うような問い方になってしまったが、多分違うと思う。
「当然だ。貴女は俺の伴侶なのだから」
「理由になっていないような気がいたします」
「共にいられる時間は、できるだけ傍にいたい。それに……」
「そ、それに? まだあるのですか?」
――その理由だけで私の頬は真っ赤なのですけれど。
「『敵』がいる可能性がある」
火照った思考に冷水を浴びせられるような心地。確かに浮かれている場合ではない。私にとってはアンディール家の『耳』は今まで味方であったが、暗殺を止めようとするならこれからは敵となるのだ。もちろん完全に敵対する訳ではないし、諜報活動の全てを否定するつもりもないが、祖母を始めとするアンディール家全体に対抗する形になるのは間違いない。
守衛の方に会釈して、白い石造の建物に踏み込む。
「……そう、ですね。お祖母様が貴方に危害を加えようとするやもしれません」
「それは特に問題ではないが」
「はい?」
「貴女の魅力によからぬことを考える輩がいてもおかしくない。いや、必ずいる。実行に移させるつもりはないが、万に一つでも貴女が傷つく事態は起こさせない」
プリシラがいたらあの不敬すれすれの表情を浮かべそうな発言である。冷えた思考がまた熱くなる。俯いて黙り込んだ。それ以外にどんな反応をしていいか全くわからない。
縋り付くような姿勢で……精神的にも……セルジュ様に寄り添い、天秤宮の中を案内してもらう。セルジュ様は皆に頼られているようで、行く先々で挨拶されたり質問されたり、私とのことを祝福されたりしている。
仮初めとはいえ、私は彼の妻となった身。恥をかかせるわけにはいかない。幸い、アンディール家の『花嫁修行』はしっかりしていたから、
ことあるごとに、
「見識広く、思索は深い」
「優しく気遣ってくださる」
「誰より魅力的な女性だ」
……などと隣で嘯くものだから、愛想笑いが軋む心地である。
私の家名は知れ渡っているわけで、挨拶を受ける天秤宮の方々も最初は若干の警戒を覚えているというのに、聞かされるのは惚気だ。温度差に目を白黒させているのを見ると、同情を禁じ得ない。この場合の同情とは『私も同じ気持ちです』という意味である。
何箇所めかの挨拶を終えて廊下を歩きながら、私は深々とため息をついた。
「お疲れか、ディーネ」
「はい、ものすごく。……いえ、大丈夫です」
「無理はなさらず」
――貴方のせいです。
とは言えないので曖昧に微笑む。微笑みながら、彼の背を軽く指で叩いた。視線は、書類を抱えて通りがかった事務員の女性に。会釈を交わしてすれ違う。
数秒後、セルジュ様から少し意外そうな声。
「彼女が?」
「はい。確実に、『耳』です」
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