第7話 接吻が多すぎる

 翌朝である。


「おはようございます」

「おはよう、ディーネ」


 プリシラと共に身繕いを済ませ、三階から二階に降りたところでセルジュ様と行き合った。

 の礼をしようとして思い留まる。正式に夫婦になったわけだが、夫婦の間の挨拶とはどのようにするのが正しいのか。

 悩んでいる間に、抱き寄せられた。


「ひゃ」


 そのまま頬に口づけされた。


「ふぁ」


 さらに唇も奪われた。


「んーっ!?」


 一瞬遅れて瞼をぎゅっと閉じ、思わず硬直した身体を、彼の腕が優しく抱き締める。逃げられない。唇は柔らかく、熱くすら感じる。


「……ふむ」

「……ふむ、ではありません……」


 ようやく解放されたのは数秒後か、数十秒後だったか。詰めていた息を深く吐き出しながら、腕の中、恨めしげに見上げる。彼の方は悪びれた様子もなく、微笑みひとつもなくこちらを見つめている。眼鏡のレンズ越しに、灰色の瞳が私を見ていた。


「夫婦の挨拶とはどのようなものか、俺には知識がない。もし無礼があった時は指摘していただきたい」

「し、失礼では……ありませんが……いきなり、その……」

「接吻は一般的な挨拶だとは理解している」

「今のは一般的では……ないと思うのですが……」


 無礼か、と問われると困る。

 後ろに控えたプリシラが深々とため息をつくのが聞こえて、こわばった後脱力していた身体を慌ててセルジュ様から離す。引き剥がす、と言ったほうが近いかもしれない。腰に触れていた手が服の上を滑り、くすぐったさにこぼれかけた声をぐっと飲み込んだ。

 振り返ると、プリシラは完璧な笑顔を浮かべていた。


「朝食になさいますか?」



 夫婦になって最初の朝食。二階のリビングにはサラダに温かいスープ、チーズやハムを載せたバケットと、なんとも食が進むものだった。暗殺者の嗜みとして、一週間は食事なしでも性能を落とすことはないが、それでも暖かく美味しい食事は幸せだ。

 用意したのはセルジュ様の従者であるアドニスさん。


「よろしければ、食事はしばらく当家のアドニスにお任せ願いたい。プリシラ殿が生活に慣れたところで、分担してもらえるとありがたい」

「ご親切なお申し出、ありがとうございます。プリシラ、アドニスさんのお手伝いをさせていただきなさい」


 アドニスさんは小柄な初老の男性で、物静かな態度とまっすぐな立ち姿が印象的だ。従者としての動きは淀みなく完璧。程よい距離感を保ちながらも気を使ってくれているのが、たった一日の付き合いでも十分に伝わってきていた。

 対して、プリシラはまだ若い。色々学ばせてもらう形になるだろう。

 貴族の使用人にも色々あり、令嬢のお付きであれば服装や化粧のエキスパートであって料理や掃除は一切しない場合も多い。アンディール家うちでは諸事情で……信用できる人間が少ないとか、潜入工作が必要な時もあるとか……雑事までお願いしてしまっている。

 優れた暗殺者ほどよろずに通じる、とは偉大な先達の言葉である。


「セルジュ様、今後のことなのですが」


 食事の後の珈琲を味わいながら切り出す。これから出仕する予定なのだろう、セルジュ様はダークブルーの背広スーツを身につけている。ベストから覗く白が印象的だが、全体的に落ち着いたトーンで、知的な印象に実によく似合っている。宮廷で着るにしては少々飾りが足りないと言われる向きもある背広だが、法執行官となれば走り回ることもあるのだろう。


「近く、私も天秤宮にお連れくださいますか? アンディール家の『耳』への牽制になりますし、実際に見ればお伝えできる情報も増えると思いますの」

「是非お願いしたい。とはいえ、まずは楽に過ごしてほしい。昨日から緊張しておられるようだ」


 ――ええ、貴方のせいで!


 全くの善意で言ってくださるのは理解しているが、私の心臓に一番負担をかけているのはセルジュ様である。全てを見抜いてしまいそうな黒灰色の瞳と、それを鎧う知性の象徴たる眼鏡。怜悧な顔立ち。低く落ち着いて、けれど私の名を呼ぶ時だけほんの少し揺れる声。緊張だけでなく、なんとも名付け難い感情が渦巻くのを必死に押さえつけているのだ。

 内心を知ってか知らずか、珈琲を飲み終えたセルジュ様が立ち上がる。お見送りしようと私も立ち上がって、玄関を共に出た。


「どうか、お気を付けて行ってらっしゃいませ、セルジュ様」

「ありがとう。貴女もお気を付けて。何かあればアドニスを使わせてくれ」


 言葉を交わして、見送る……と思ったら肩に触れたセルジュ様の手にそっと抱き寄せられた。咄嗟に抵抗しかけた身体の反応を抑え込み、大人しく従う。腕の中に収まり、自然と彼の顔を見上げた。

 顔を寄せ合い、頬に口付けを受ける。今回は予期していたのでちゃんと瞼を閉じて、私からも挨拶の口付けをセルジュ様の頬へ返した。


「ん」


 小さく漏れたのはどちらの声だったか。

 セルジュ様の唇が、一度だけでは足りぬというように逆の頬へ。唇へ。再び頬へ。髪をそっとかきあげて耳へ――待って待ってっまっっっ!!


「せ、セルジュ様! お外です! ので!」

「失礼。夫婦はこのように『行ってきます』の挨拶をすると聞いたので試してみた。では、行ってくる。夕刻には戻る」


 颯爽と馬車へと向かうセルジュ様を見送り、私の方は髪を必死に整えつつ、腰砕けで座り込まないように足に力を込めていた。手を振る余裕も、笑顔を作る余裕もない。耳まで真っ赤なのを朝の日差しが照らし出さないのを祈るのみ、だ。


「…………プリシラ。本当ですの? 世の夫婦は皆さんこんな挨拶を?」

「かもしれませんねー」


 ――明日から、生き残れるかしら。

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