第5話 嫁入り
「せめて二ヶ月はくださいませ。式の準備に、服や嫁入り道具の手配、それだけでも本来なら半年以上かかりますわ」
「来週にはこちらに来ていただきたい。婚姻の誓約のみ済ませ、式は後日としよう。
「何より、心の準備が」
「何より、早く貴女を迎えたい」
斯様な(勝ち目のない)交渉の結果、私が『嫁入り』する日はお話から二週間後となった。間を取って……というには少々セルジュ様寄りの結果ではある。一番重要な心の準備の部分に、セルジュ様からの感情をまっすぐにぶつけられてしまっては敵わなかった。
とはいえ、気を許したわけではない。
なるほど私を気に入ってくださっているのは本当だろう。嘘をつくような方ではないし、軽薄という言葉からは縁遠い。
しかし彼の言葉がそのまま本心を表現しているかはわからない。結婚を急ぐのも、アンディール家の情報を手に入れたいという実利の方が大きいと考えるのが自然だ。
セルジュ様の『結婚したい』という言葉は、『利益があるから結婚してやってもいい』という意味かもしれない。……何しろ私は地味な容姿で、性格も明るくなく、しかも暗殺者なのだから。
「…………ふむ」
そう考えると、少し気が楽になった。
仮初めの花嫁。
天秤宮で正義を為すセルジュ様の、影の部分を支える
「お嬢様」
「何かしら、プリシラ?」
「そろそろ入りましょうよ。もう20分も扉の前に立ち尽くして、私も足が限界です」
「そ、そうね……」
そして
お話から二週間。セルジュ様のアパルトマンの前に立ってぐるぐると巡る思考を弄んでいたら、すでに20分も経っていたらしい。
「では失礼を」
「待って!!!!」
プリシラが扉のノッカーに伸ばした手を、途中で掴んで止める。『何やってんですか』と言いたげな不敬すれすれの視線を向けられる。何の言い訳もできない。私は完全に恐れ慄いていた。
――だって、私が嫁入りなんて。それもあのセルジュ様の。
アンディール家の娘として、いずれはどこかに嫁入りするだろうと考えてはいた。だが、実際は暗殺一家と嫌われて誰とも結ばれることなく終わるのではないかと呑気に構えていた。こんな、こんな、アパルトマンで夫婦のように二人で過ごすなんて全く考えていなかったのだ!
扉が開いた先にセルジュ様がいなかったら。
セルジュ様と生活して失望させてしまったら。
手紙も話したことも間違いで、穢らわしい暗殺者は帰れと言われたら。
そう思うと、胸の辺りが締め付けられるようで、腰と脚に力が入らなくなってしまう。
「か……そう……髪のセットが緩い気がするの。一度家に戻って結い直してもらおうかしら」
「はいはい大丈夫ですよ。いつも通りお美しいです」
「ちょっとプリシラ、もう少し主人の心を慮って……」
がちゃりと扉が開き、セルジュ様が顔を出した。
プリシラと二人でぽかんと見つめる。
「失礼。女性には用意の時間が必要なのだろうと思いお待ちしていたが、ずいぶん経っている。何か問題があっただろうか?」
「セルジュ様……! い、いえ。なんでもございません。今日から、お世話になりますわ」
慌てて立ち方を取り繕い、白革のベルトで飾った菫色のスカートを軽くつまんで腰を落とす。
頭の中は混乱と文句でいっぱいだ。なぜ主人が直接出てくるのか。普通は使用人が出迎えて、主人の待つ部屋に案内するものではないのか。
そんな疑問が顔に出てしまっていたのか、セルジュ様は我々を室内に招き入れながら小さく頷いた。
「貴女を出迎える栄誉を他の男に譲る気になれなかった。
「と、とんでもありません。私こそ、お待たせしてしまって申し訳ありませんでした」
笑顔が軋むのを感じる。頬が赤い。最初の一歩目から心臓は鳴りっぱなしで、いずれ爆発してしまうかもしれない。半歩後ろのプリシラから深いため息が聞こえた気がしたが、きっと気のせいだろう。
セルジュ様自らの案内で、三階の部屋に通される。先に送った家具類の他にも、生活に必要そうなものは全て揃っていて、なお広い。
「こんなに良いお部屋を使わせていただいて、いいのかしら」
「本来ならば領地の屋敷に来ていただくのが筋なところ、申し訳ないが。俺が王都を離れられないせいでご苦労をかける」
「お気になさらず。私の役目を考えても、妥当なご判断ですわ」
役目。仮初の花嫁。法を敷く天秤宮に奉仕し、暗殺や謀殺をなくすお手伝いをすること。そのためには領地に引きこもって『奥様』をしているわけにはいかない。
だがセルジュ様は首を横に振った。
「俺の傍に居ていただきたいだけだが」
「は……はい。その。光栄、です?」
ともあれ荷物を運びこみ……セルジュ様の使用人であるアドニスさんはもとより、セルジュ様手ずからお手伝いいただいて……一息つく頃には、日が沈みかけていた。
寝室と定めた部屋で、クローゼットに押し込んだばかりのドレスに着替える。プリシラに髪を結い直してもらって部屋を出ると、セルジュ様が待っていた。
夕暮れの日差しが差し込む中、そっと手を差し伸べてくださる。
「では、神殿へ」
「…………はい」
手をそっと取って階段を降り、馬車へとエスコートしてもらう。ついに時間が来てしまったのだ。
誓いの時が。
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