第3話 天秤宮の法執行官
セルジュ様は、と、思考を巡らす。
嘘はつかない方だ。誰に聞いても、公正で正直という評価が返ってくるに違いない。
そして情のない方だ。誰に聞いても、薄情で冷徹という評価が返ってくるに違いない……周囲を憚る小さな声で。
アンディール家の娘として、優秀な法執行官が揃う天秤宮の情報は収集している。どちらも王家と国家に奉仕する存在ではあるが、そのやり方が正反対だからだ。中でもセルジュ様はその知性でいくつもの事件を解決している法執行官の筆頭であり、ある意味で長官以上の警戒対象であった。
「……舞踏会でお会いした時は、情報そのままの印象でしたけれど」
その彼が、私との婚姻を求めているという。
印象と全く異なる手紙をどう評価していいかわからないまま、家同士の話はとんとん拍子に進んだ。今日はついにスターツ家を訪ねて返事をする日であった。その間、彼とは結局会っていない。古代の詩人を現代語に訳した詩集は一冊贈られてきた……情熱的な愛の表現に定評のある詩人だ。
馬車が停まる。
「お嬢様」
「ありがとう」
侍女のプリシラに促されて馬車を降り、日傘に守られながらゆっくりと歩く。肌を見せない
訪れたのはスターツ家の
三階建ての住宅は
一階、玄関の扉に取り付けられたノッカーをプリシラが鳴らす。ややあって内側から扉を開いたのは、管理人や侍女ではなかった。
「出迎えが遅くなり申し訳ない。ようこそお越しくださった」
「せ、セルジュ様!?」
セルジュ様が手ずから扉を開き、どうぞ、と中へと迎え入れる。アポイントはしていたとはいえ、スターツ家の当主が自ら出迎えに来るなどあまりに身軽すぎる振る舞いだった。
身軽といえば、服装も今日は軽やかな印象だ。銀の髪はしっかり後ろに撫でつけているが、ジャケットは身につけず、ブラウンのベストがシャツの白を印象付けている。ネクタイは複雑な白の紋様が入ったブルー。
驚いて固まってしまっている侍女の背に軽く触れて促す。気持ちはわかる。正直、格好いい。
「お招きありがとうございます。さあ、プリシラ。お邪魔しましょう」
「は、はい」
二階の応接室へと通されてソファに腰を下ろすと、その対面にセルジュ様が座る。彼の従者らしき老人が丁寧な所作で茶を淹れると、静かに一礼して退室する。
「貴女も下がっていなさい」
「……かしこまりました」
――プリシラは良い侍女だけれど、お祖母様にはあまり聞かれたくないわ。
彼女は、というより屋敷で働く者は全員アンディール家の耳だ。屋敷だけではない。王宮の片隅で、貴族の邸宅で、街角の雑踏で、アンディール家は静かに聞き耳を立てている。
二人きりになった室内に、セルジュ様が
「ディーネ・アンディール。今日お呼び立てしたのは、お話したい事柄が二つあったからだ」
「花の国の全ての女が憧れる方とお話できるというのに、それがおふたつなんて、贅沢ですわね」
「世辞を言って頂くだけの評価はされているのなら、光栄だ。――重要な問いと、重要ではない問いと、いずれからさせていただくべきか」
「では重要ではない方から。乙女には、心の準備が必要ですの」
「心得た」
セルジュが頷き、立ち上がる。本棚に向かって背中を見せた隙に、彼とこちらの杯を入れ替えて、一口含んだ。
毒の香りはしないし、彼が先に一口飲んで見せたのはそういう意味であろうが、暗殺一家の
「……美味しい」
ほう、と吐息が自然にこぼれた。一瞬遅れてはしたなさに思い至り、思わず唇を指で隠す。
その間にセルジュが本棚から一冊のファイルを取り出し、戻ってきて――隣に座った。
「ん?」
「お気に召したなら幸いだ。俺自身は茶にはあまり詳しくないので、今後貴女の好みを教えていただきたい」
「あの?」
「さて、一つめの話だが」
「セルジュ様?」
さすがに触れ合う距離ではないものの、ソファに隣り合って座るのは心臓に少々負担がかかる。相手がセルジュ様となればなおさら。じり、と少し離れるとその分より少しだけ多く距離を詰めてくる。結局ソファの端に追い詰められて一緒にファイルを覗くかたちになってしまった。
セルジュ様の指先がファイルを開く。几帳面に整った字が並ぶ、報告書やメモの集合。そのタイトルは――
「……アンソニ・マイノー殺害未遂事件。……私は無関係だと、貴方が仰ってくださったはずではありませんか?」
「更なる調査が必要だ、ともお伝えした通りだ。少なくとも実行犯でないことは確かだが」
しなやかな指先が書類を手繰り、走り書きのメモ類をいくつか広げる。被害者であるアンソニの交友関係を追ったメモだ。最近になって交流が増えた
――天秤宮随一の法執行官。評判は伊達ではないわね。
その警戒をおくびにも出さず、少し照れたような恥じるような表情を浮かべ、眉を下げる。ほんのりと頬が赤いのは、演技が半分、距離の近さに慣れないのが半分だった。
「アンソニ様とは……確かにここしばらく、よくお話をさせていただきましたわ。夜会で転んでしまったのを助けていただいたのがご縁で……」
「その『お話』の中で、希少なワインについての会話がなかっただろうか?」
「…………」
「彼はワインについて急に興味を覚え、マイノー家が誇るワインセラーの内容を気にしだした。使用人はこれを機にリストを更新すべくセラーをチェックし、アンソニに饗するワインの中に購入した覚えのない銘酒が混ざっていることに気付いた。数日前に毒殺の話題で侍女たちが囀っているのを偶然聞いていた使用人は、ワインの中身を念のため検めて――今回の件が発覚した」
流れるように紡がれる情報の繋がり。セルジュ様の声はあくまで低く落ち着いており、耳を心地よくくすぐる。一方で向けられる視線は鋭く、いかなる反応も見逃さないと言わんばかりだ。
眼鏡越しの美しい黒灰色の瞳へ向けて、あいまいに微笑んで見せた。
「まあ。幸運があったのですね。神のご加護でしょう」
「であるなら、貴女は幸運の女神ということになる」
不敬すれすれの発言を、あくまで真顔で言うセルジュ様。手紙の情熱的な表現を思い出して、思わず頬が熱を帯びる。流石に
内心では、すでに問答が無駄であることを理解していた。
「貴女は暗殺を防いだ。恐らくはアンディール家の方針に背いて。いかがだろうか、ディーネ」
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